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邪馬台国の場所を推理する③

【魏志倭人伝との整合性】

魏志倭人伝の記述と整合性がとれてるかを見てみます。

まず最初に注意すべき点ですが、魏志倭人伝は魏志邪馬台国伝でありませんし、邪馬台国旅行記でもありません。
魏志倭人伝には、倭人の風習文化や倭国の産物などが書かれていますが、それらは邪馬台国とは直接関係ありません。どの地域を観察したものか不明だからです。
魏志倭人伝と整合性があるかどうかは、邪馬台国について書かれた部分で検証しなければなりません。

邪馬台国についての主要な記述を列挙します。
・30国連合の盟主の国
・戸数7万戸
・北部九州から南に水行二十日、さらに南に水行十日陸行一月
・帯方郡から12,000里
・会稽東冶の東の位置
・宮室、楼観、城柵
・従者1000人が仕える宮殿
・卑弥呼の墓が径百歩
・殉葬100人
・一大率を伊都国に置き、一大率は刺史に例えられる
・魏と外交交渉を行う
・金印や銅鏡100枚を下賜される
・東に海があり、渡海1000里で倭種の国
・国名が邪馬台国の音韻に近い

それぞれの項目について検証していきます。

・30国連合の盟主の国
纒向遺跡は3世紀初頭には造営され、ヤマト政権の最初の王都と考えられている遺跡です。
また3世紀前半には全国各地に畿内系土器が流入し、その地域には纒向型前方後円墳が築造されます。
これはヤマト政権に繋がる列島規模の政治連合(=初期ヤマト政権)が3世紀前半には形成されていたことを意味します。
考古学から導き出されたこの状況は、魏志倭人伝に倭国大乱の後卑弥呼を共立し邪馬台国を中心に30国の連合をつくったと書かれていることと一致します。
判定:○

・戸数7万戸
戸数7万戸は人口にすると約30万人に相当します。
3世紀の人口は日本列島全体で約200万人と推定されています。(鬼頭宏氏:220万人 小山修三氏:百数十万人 小澤一雅氏:180万人)
一般的な畿内説では邪馬台国の範囲を近畿第Ⅴ様式土器の分布範囲と考えてます。(資料13)
大阪湾を囲む近畿地方の平野のほとんどの地域に該当しますので、7万戸は十分可能です。
また邪馬台国連合では15万戸+旁国21国で100万人近い人口になるはずなので、日本列島の半分近くを占めることになります。

ところで、魏志倭人伝の戸数が正確でない可能性がありますが、少なくとも魏志韓伝の戸数との相対比較はできます。
三韓の国々の戸数を合計すると15万戸ですので、邪馬台国連合は韓地より広い領域を持っていたと推測できます。
初期ヤマト政権の連合の範囲である北部九州から畿内一帯までと東日本の一部を含んだ地域を想定すれば、韓地より広い領域になるはずです。
戸数の面からは畿内説がもっとも説得力があります。
判定:○

13.第Ⅴ様式土器

↑ 資料13:近畿第Ⅴ様式土器の分布

・北部九州から南に水行二十日、さらに南に水行十日陸行一月
南の方角については明らかに不一致になります。
日数についてですが、隋書に「東夷の人は里数を知らず、ただ日を以って計っている。倭国の国境までは東西五月行、南北三月行」の記述があり、九州から関東まで5ヶ月かかるなら、北部九州から畿内まで2ヶ月は整合性があります。
また漢書律歴下「師行三十里」の記述、古代中国で軍隊が1日に行軍する距離が一舎で、一舎が三十里であることから、30里 x 435m x 60日 = 783kmとなり、北部九州から畿内までの距離とほぼ一致します。
方角は不一致ですが、日数は一致
判定:△

・帯方郡から12,000里
魏晋里は約435mですので、12,000里は5,200kmになり、帯方郡から直線距離だと赤道付近に達してしまいます。
12,000里の記述については、畿内説だけでなく、どの説でも不一致になります。
司馬懿の功績を称えるために、邪馬台国が大月氏国よりも遠くにあるように陳寿が意図的に遠距離にしたという説に同意します。
後漢書西域伝には洛陽から大月氏国まで16,370里と書かれています。
後漢書郡国志には洛陽から楽浪郡まで5,000里と書かれています。
洛陽から邪馬台国までの距離を大月氏国より遠い17,000里にするためには、楽浪郡から帯方郡の距離は一旦無視して、帯方郡から邪馬台国までの距離を12,000里にしなければならなかったのです。
判定:×

・会稽東冶の東の位置
会稽東冶は現在の福建省福州市とされております。
したがって、この記述については沖縄説以外どの説も不一致になります。
呉の背後に邪馬台国が位置していたという古代中国の地理認識と考えられます。
あるいは陳寿がそのように創作したのかもしれません。
判定:×

・宮室、楼観、城柵
宮室に相当するものは纒向遺跡の大型建物跡があります。
楼観や城柵と明確に言えるものはまだ見つかってません。
なお、吉野ヶ里遺跡のような環濠集落は全国各地にあります。
吉野ヶ里遺跡が特別な遺跡というわけではないので、吉野ヶ里遺跡にあるのなら、全国各地の環濠集落にも宮室、楼観、城柵はあったとも推測できます。
判定:△

・従者1000人が仕える宮殿
纒向遺跡の中で庄内式期に造営されていた範囲がこの条件に合致します。(資料14)
1000人が仕えるのに十分なスペースがある遺跡は纒向遺跡以外に見つかってません。
ただし、当時1000人が本当にそこにいたかどうかを確認する方法はありません。
判定:△

14.纒向遺跡(4)

↑ 資料14:纒向遺跡の庄内式期の時点での範囲

・卑弥呼の墓が径百余歩
3世紀中頃の墓で径百歩に該当するのは日本で一つ、箸墓古墳だけです。
箸墓古墳は前方後円墳ですが、埋葬施設のある後円部は直径約150mで径百余歩にピッタリ一致します。
出現期の前方後円墳は前方部に埋葬施設はなく祭祀場でしたので、魏使の認識としては丸い墓に隣接する祭祀場でしょう。
判定:○

15.箸墓古墳

↑ 資料15:箸墓古墳のレーザー計測

・殉葬100人
これは一致しません。
日本で殉葬の痕跡はまだ一つも見つかってません。
判定:×

・一大率を伊都国に置き、一大率は刺史に例えられる
伊都国の中枢であった糸島市の三雲遺跡で庄内式土器が出土しており、それが祭祀に使用されたと考えられており、伊都国が畿内から一定の影響を受けていたと言えるでしょう。
また、一大率が「司隷校尉」ではなく「刺史」に例えられていることは、伊都国が邪馬台国から遠方にあることを意味します。
「司隷校尉」は首都圏に置かれた役人で、「刺史」は地方に置かれた役人だからです。
陳寿は一大率を「刺史」に例えることにより、伊都国が首都である邪馬台国から遠方にある国だと書いているのです。
判定:○

・魏と外交交渉を行う
最初に述べた通り、倭国を代表して魏と外交交渉をしていたのは畿内勢力と考えるのが妥当です。
判定:○

・金印や銅鏡100枚を下賜される
金印は見つかってません。
銅鏡100枚がどの種類の銅鏡なのか不明ですが、3世紀に中国で製作されて、かつ3世紀以降の遺跡や古墳から出土した銅鏡のうちのどれかのはずです。(資料16)
内行花文鏡(復古鏡・模倣鏡)かもしれないし、方格規矩鏡(復古鏡・模倣鏡)かもしれないし、あるいは画文帯神獣鏡かもしれないです。
最初期の三角縁神獣鏡の可能性もあります。
下賜鏡がどれであろうと、3世紀の銅鏡は畿内を中心に出土してます。
なお、九州に比較的多い位至三公鏡は王が持つには相応しくない鏡なので卑弥呼の鏡ではありません。
判定:△

16.中国鏡編年-博物館

↑ 資料16:銅鏡の種類一覧とその年代

・東に海があり、渡海1000里で倭種の国
倭種の国を伊豆諸島と考えれば、この記述は畿内説でも解釈は可能です。
それ以前の問題として、この部分の記述自体にほとんど信憑性がないので無視でも構わないでしょう。
倭国の都があった邪馬台国まででさえ里数が不明なのに、もっと遠く国名も分からない未知の国までの里数が書かれているのは不自然です。
郡使が倭種の国を訪問したような記述になっておらず、また里数を知らない倭人が1000里と知ってるはずないので倭人からの伝聞情報でもありません。
山海経から引用されていて、実在性の乏しい伝説上の国である侏儒国や裸国、黒歯国と並んで書かれているのだから、倭種の国も実在しないとみなすべきです。
判定:△

・国名が邪馬台国の音韻に近い
言語学についての知識はないので専門家の見解を信用するだけですが、上古音や中古音に加えて、最近は後漢時代の発音も研究されていて、邪馬台はヤマトの音韻に近いとのことです。
判定:○

以上のように、畿内説は方角以外、魏志倭人伝の記述とかなりの部分で一致します。
他の説でこれ程魏志倭人伝と一致する説はないはずです。
畿内説で魏志倭人伝と不一致になる部分は、他の説でも不一致になるものばかりです。

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邪馬台国の場所を推理する②【畿内説の主な根拠】
邪馬台国の場所を推理する④【畿内説への反論(1/2)】
邪馬台国の場所を推理する⑤【畿内説への反論(2/2)】
邪馬台国の場所を推理する⑥【まとめ】
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