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邪馬台国の場所を推理する①

【はじめに】

邪馬台国の場所については古代史最大の謎でもあり、小学生から年配者まで楽しめる謎解きでもあります。
個人的には畿内説支持ですが、自分なりに根拠をまとめてみました。
とは言っても、いろいろな本から自分が納得したものを集めただけで、すべて受け売りです。

本題に入る前に、魏志倭人伝に出てくる国の中で、場所が判明しているいくつかの国を整理しておきます。
これらは専門家の間でもとくに異論はありません。
・帯方郡 → 北朝鮮の黄海北道鳳山郡(沙里院市のとなり)が有力
・狗邪韓国 → 韓国の金海市
・対馬国 → 対馬(国の中心がどこにあったかは分かっていません)
・一支国 → 壱岐(国の中心は原の辻遺跡)
・末盧国 → 唐津市(国の中心は中原遺跡が有力)
・伊都国 → 糸島市(国の中心は三雲遺跡)
・奴国 → 福岡平野周辺(3世紀の国の中心は比恵・那珂遺跡)
この先がどこになるかでいろいろな説に分かれているわけです。

邪馬台国論争で何を根拠にするかは人により異なるし、いろいろなアプローチの仕方があります。
最も一般的なのは行程記事の解釈ですが、魏志倭人伝には九州の遥か南方の太平洋上に位置すると書かれています。(資料1)
魏志倭人伝はその間違った地理認識で概ね矛盾なく書かれています。
畿内説にしろ九州説にしろ自説に合わせるため行程記事をどのように解釈しても、それは恣意的な曲解に過ぎず必ず矛盾が生じてしまいます。

したがって、魏志倭人伝の他の記述から求めざるを得ないのですが、最も重視すべきところは皇帝の詔の記述です。
そこには邪馬台国の女王卑弥呼が親魏倭王に叙せられたと書かれています。(資料2)
皇帝の詔が書かれた部分は大きな間違いや脚色もなく信頼性があり、倭について最も重要な記述です。
邪馬台国論争とは、倭国を代表して魏と外交交渉をやっていたのはどの勢力であったかを探し当てることとも言えます。
「邪馬台国はどこにあるか?」=「倭国を代表して魏と外交交渉をやっていたのはどの勢力か?」となります。

1.陳寿の地理認識

↑ 資料1:陳寿の地理認識

2.三国志

↑ 資料2:魏志倭人伝で皇帝の詔が書かれた部分

このシリーズの他の記事へのリンク
邪馬台国の場所を推理する②【畿内説の主な根拠】
邪馬台国の場所を推理する③【魏志倭人伝との整合性】
邪馬台国の場所を推理する④【畿内説への反論(1/2)】
邪馬台国の場所を推理する⑤【畿内説への反論(2/2)】
邪馬台国の場所を推理する⑥【まとめ】
邪馬台国の場所を推理する⑦【九州説はなぜ成り立たないのか?】

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