見出し画像

邪馬台国の場所を推理する⑤

【畿内説への反論(2/2)】

畿内説に対する反論の続きです。

反論7:九州の邪馬台国と畿内の初期ヤマト政権が並立していた可能性がある。邪馬台国が列島最大勢力だったとは限らず、魏志倭人伝に記載されたのはタイミングよく魏に朝貢したからだ。

九州の邪馬台国と畿内の初期ヤマト政権が並立していたという仮説を前提にすると、以下のように非現実的な状況を想定しなければならないか、あるいは矛盾だらけの状況になってしまいます。
・郡使は伊都国まで頻繁に往来し、倭国の状況を細かく調査し、旁国21国さえも国名を調べたにもかかわらず、なぜか不思議なことに、当時の日本列島を代表する勢力であったヤマト国が魏志倭人伝には載っていないことになってしまう。あるいは国名も分からない倭種の国になってしまう。
・中国鏡の分布から判断すると、倭人伝に記載がない国あるいは倭種の国が魏と最も密接に交流していたことになってしまう。
・一方、九州の邪馬台国は中国鏡を入手できなかったことになり、それは邪馬台国が魏や帯方郡に相手にされなかったことを意味します。
・すでに述べたように、3世紀中頃の伊都国や奴国は初期ヤマト政権の傘下にあったと考えられているので、伊都国や奴国は倭人伝に記載がない国の連合に入っていたか、あるいは倭種の国の連合に入っていたことになってしまう。
・伊都国や奴国が他の九州勢力に統治されていた痕跡はないので、伊都国や奴国は邪馬台国連合に入ってなかったことになってしまう。

九州の邪馬台国と畿内の初期ヤマト政権が並立していたという仮説がありえると思ってる人が九州説論者に多いかもしれませんが、ちょっと深く検証してみると、考古学的事実と矛盾が多過ぎて、ツッコミどころ満載の珍ストーリーになってしまいます。

反論8:短里なら九州でピッタリの距離になる

短里という距離単位は存在しません。また、九州にピッタリにもなりません。
一部の九州説論者が主張している短里の理論的根拠とされているのが周髀算経の一寸千里の法です。
夏至の日に8尺の棒を立てて南中したときに影の長さを測ると1尺6寸になり、南北千里の地点ではそれぞれ1尺5寸、1尺7寸になると周髀算経に書かれていて、
そこから計算すると1里は76mになるというものです。
夏至の日に影の長さが1尺6寸になるのは北緯35度のところなので、時代背景から場所は洛陽と推測できます。
しかし、南北千里の地点で本当に計測したか極めて怪しいものです。

理由1:周髀算経には二十四節気における影の長さが書かれているが、夏至と冬至以外はすべて間違っています。
これは、実際には影の長さを計測しておらず、机上で計算したことを意味します。
「春分の日の影の長さ=(夏至の日の長さ+冬至の日の長さ)÷2」という稚拙な計算をしてます。
洛陽においてさえ計測していなのに、洛陽の南北千里の地点で計測したとは到底考えられません。

理由2:短里を前提にするなら、尺も短尺、寸も短寸でなければならない。
したがって、1短寸の影の長さの差は数ミリとなってしまい、影の長さの計測方法として非現実的です。
8短尺の棒の代わりに80短尺の棒を使えば影の長さの差は十分に計測可能ですが、周髀算経には8尺の棒と書かれているので、80短尺の棒を使って計測したという仮定はありえません。

理由3:洛陽の南北76kmの場所は山岳地帯であり、一直線に行くことはできないし、到着することさえ困難です。

以上の理由により、南北千里の地点での影の長さは実測ではないと考えるべきです。

では、南北千里の地点での影の長さ1尺5寸や1尺7寸はどのようにして書かれたのでしょうか?
蓋天説という古代中国の宇宙観を前提にして机上で計算したものと思われます。
太陽は地上から80,000里の高さにあり、夏至の日に太陽が真上に来る場所は洛陽から南に16,000里の所と考えられていました。
図で示したように、夏至の日に8尺の棒を立てると影の長さは1尺6寸になります。
つまり、高さを8尺とすると、16,000里の距離は1尺6寸の長さに相当するという考え方です。
16,000里:1尺6寸=1,000里:1寸となります。(資料22)

洛陽から南に1,000里の地点だと、太陽が真上に来る場所はそこから南に15,000里のところになります。
距離1,000里に対しての影の長さは1寸なので、南に1,000里の地点では影の長さは引き算で1尺5寸になるという稚拙な計算です。
これが一寸千里の法です。

22.周髀算経

↑ 資料22:一寸千里の法の計算方法

それでは次に、魏志倭人伝の行程で短里が当てはまるかどうかを検証してみます。
魏志倭人伝の行程の中で最も長い里数が書かれている区間は、帯方郡から狗邪韓国までで7,000里となっています。
帯方郡があった沙里院市付近から狗邪韓国の金海市まで、海岸から1kmあたりの沖を航行したときの距離を出してみました。
魏志倭人伝によるとリアス式海岸である朝鮮半島を沿岸航行したことになってますが、図では航路をショートカットしてるので、実際の距離はもっと長かったはずです。
ショートカットした航路で距離を測っても帯方郡から狗邪韓国まで1,170kmあり、これが7,000里なので1里は約170mになる計算です。
短里76mの2倍以上になり、誤差範囲とは言えない値になっています。(資料23)

遺跡ベースで2つの場所が判明してる唯一の区間である伊都国から奴国までの100里で検証します。
現代の直線的な道路を使った場合でも23kmですが、当時は自然の地形が障害になってたら迂回していたので実際の距離はもっと長かったでしょう。
この区間の1里は230m以上で、短里76mの3倍以上の長さになります。(資料24)

一方、一支国から末盧国は1000里となってますが、実際の距離は50km程度で、この区間の1里は50m程度になる計算です。
このように魏志倭人伝の1里あたりの長さは区間によって異なり、短いところで50m程度、長いところでは230m以上になり、一定の規則性もありません。

以上のように、短里には理論的根拠もないし、魏志倭人伝の行程で検証しても短里は当てはまりません。
里で表記されているが、里とは違う長さの距離単位が存在してたという主張は、荒唐無稽な作り話です。
短里とは、20世紀に日本人が日本で創作した架空の距離単位です。
魏志倭人伝の里数は司馬懿の功績を称えるために実際より大きな数字になっていますが、一定の比率を乗じたのではなく、単に不正確なだけという結論になります。

23.短里1km沖

↑ 資料23:帯方郡から狗邪韓国までの距離

24.伊都国から奴国

↑ 資料24:伊都国から奴国までの距離

反論9:畿内が九州を飛び越えて大陸と交渉するのは不可能だ。

畿内と北部九州が敵対していたのではありません。
すでに述べた通りですが、3世紀には西日本各地から北部九州にかけて広域の政治連合ができていました。
大陸との交渉窓口は北部九州にあり、畿内から北部九州に人が来てたのです。
とくに奴国は畿内勢力の北部九州への進出を積極的に受け入れ、3世紀中頃には那珂八幡古墳を築造するなどして、九州で真っ先にヤマト政権の傘下に入った国です。

25.3世紀前半の人の動き

↑ 資料25:3世紀前半の人の動き

26.弥生時代交易ルート(2)

↑ 資料26:3世紀の交易ルート

反論10:考古学者の年代推定が信用できない。

現在では古墳時代の始まりの時期は3世紀中頃から後半と推定されており、日本史の教科書にもそのように書かれてます。
・山川出版社『詳説日本史B』:3世紀中頃から後半
・東京書籍『新選日本史B』:3世紀後半ごろ
・清水書院『高等学校日本史B』:3世紀なかごろ
具体的に言うと、これは箸墓古墳の築造時期のことです。
この年代推定は畿内説側の主張ではなく、邪馬台国論争によるものでさえなく、純粋に日本の古代史研究の問題なのですが、九州説論者の中にはこの日本史研究の成果に異議を唱える方もいます。

私は古代史好きのただの素人ですから考古学者の土器編年のような専門的なことは分かりません。
ですので、C14年代測定法の資料から検証してみようと思います。
C14年代測定法では、測定された炭素年代は様々な要因によりそのままでは使えないので、実年代に置き換える較正曲線が用意されています。
この較正曲線は新しい測定結果をもとに定期的にアップデートされ精度を上げていってるようです。
IntCal13、IntCal20、IntCal09、JCalの較正曲線を添付しましたが、注目すべきは矢印で示した曲線の落ち込み部分です。
この落ち込み部分は較正曲線がアップデートされても大きな変化はありません。
この時期に該当する土器様式は奈良県の場合、布留0〜布留1の過渡期とのことです。
したがって、布留0〜布留1の過渡期が西暦270年前後になるのは確定で、3世紀における定点とすることができます。(国立歴史民俗博物館研究報告「古墳出現期の炭素14年代測定」)
箸墓古墳は布留0古相なので西暦270年より古いのは確定で、あとは何年遡るかだけの問題で、10年遡れば西暦260年、20年遡れば西暦250年となります。

画像6

↑ 資料27:IntCal13およびIntCal20の較正曲線

画像7

↑ 資料28:IntCal09およびJCalの較正曲線

もう一つの信頼度の高い測定結果が纒向遺跡の大型建物跡の近くで出土した桃の種で、新聞等で大きく報道されてました。
十分な量、個数があるので測定誤差が少なく、試料汚染も少なく、古木効果もなく、海洋リザーバー効果もないためです。
庄内3式土器と一緒に出土したので、庄内3式期の年代を自然科学の方法で測定したものです。
このときの年代推定はIntCal13で較正してたので、西暦135〜230年という実年代になり、大きな矛盾はないものの、庄内3式土器の標準的な土器編年より古い年代になる可能性もありました。
最近、較正曲線がアップデートされ、IntCal20で較正すると、西暦230〜240年の可能性が最も高くなります。またJCalでは西暦240年前後の可能性が高くなります。

この結果と西暦270年定点を合わせて考えると、箸墓古墳の築造時期は西暦250年あるいは260年で矛盾はありません。
考古学者の標準的な土器編年もIntCal20でのC14年代測定法と整合性があると思われます。

反論11:狗奴国は熊本県で確定だから、その北は筑紫平野になる

畿内説では狗奴国を久努国とみなし、九州説では狗奴国を熊本県に比定することが多いようです。
九州説では一般的にその根拠として、音韻から狗奴国を熊襲に結びつけて、狗古智卑狗を菊池彦に結びつけるようですが、考古学的な観点からは矛盾している点があります。
熊襲と想定される球磨郡は免田式土器の分布域ですが、菊池市ではほとんど出土せず北部九州の文化圏に入ってます。
3世紀の時点で球磨郡と菊池市が同じ国だとは考えられないのです。
邪馬台国の位置は魏志倭人伝の方角と不一致になるか、日数と不一致になるかのどちらかですが、狗奴国を熊本県に比定するのは日数との不一致が前提になります。
また、音韻からは、「kuna」(狗奴国)は「kuma」(熊襲)より「kuno」(久努国)の方が近いでしょう。
狗奴国を熊本県に比定するのはイメージ先行に過ぎず、実際には根拠が極めて乏しいものです。

反論12:三角縁神獣鏡は中国では1枚も出土していないのに日本では500枚以上出土していて、古墳での副葬の扱いも雑。
呉鏡の系統の国産鏡であり、卑弥呼の鏡ではない。

すべての三角縁神獣鏡が魏の皇帝からの下賜鏡だとは主張してません。
現時点では、最初期の三角縁神獣鏡が下賜鏡の候補の一つであるとしか言えません。
したがって、500枚以上出土してるから卑弥呼の鏡でないという反論は的外れです。

三角縁神獣鏡が中国製なのか日本製なのかはまだ結論が出てませんが、魏鏡の系統であることは確実になってきてます。
神獣鏡はかつては江南の鏡と考えられていましたが、華北においても神獣鏡が出土するようになって、三角縁神獣鏡が呉鏡の系統だという主張は根拠を失いました。
その上、魏鏡の系統である証拠が次々と出てきました。
・鈕孔が長方形の形になっているのは魏鏡の製作技法
・魏鏡とまったく同じ銘文のある三角縁神獣鏡が存在すること
・景初や正始といった魏の元号が入った三角縁神獣鏡が存在すること
三角縁神獣鏡が中国製であろうと日本製であろうと、畿内勢力が魏と交流があったことを示すものです。
もし三角縁神獣鏡が中国製なら、畿内勢力と魏の間でモノの交流があったことを意味し、もし日本製なら、継続的なヒトの交流があったことを意味します。

なお、魏鏡ほど多くはありませんが、呉鏡も日本列島に入ってきてます。
呉の年号の入った鏡や江南に多い重列式神獣鏡などです。
当時はまだ東シナ海横断ができなかったので、呉の領域から沿岸航行で魏の海岸沿いに北上し、楽浪郡や帯方郡を経由して日本にもたらされたと思われます。

このシリーズの他の記事へのリンク
邪馬台国の場所を推理する①【はじめに】
邪馬台国の場所を推理する②【畿内説の主な根拠】
邪馬台国の場所を推理する③【魏志倭人伝との整合性】
邪馬台国の場所を推理する④【畿内説への反論(1/2)】
邪馬台国の場所を推理する⑥【まとめ】
邪馬台国の場所を推理する⑦【九州説はなぜ成り立たないのか?】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?