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邪馬台国の場所を推理する⑥

【まとめ】

魏志倭人伝の行程記事から邪馬台国の位置を特定することは不可能なので、魏志倭人伝で最も重要で最も信頼性の高い皇帝の詔から
「邪馬台国はどこにあるか?」=「倭国を代表して魏と外交交渉をやっていたのはどの勢力か?」と置き換えて、3つの根拠を提示しました。
・纒向遺跡 → 畿内を中心にした広域連合の証拠
・北部九州で出土する畿内系土器と前方後円墳 → 3世紀前半には畿内勢力が北部九州に到達していた証拠
・3世紀の中国鏡 → 畿内勢力が魏との交流で主導権を握っていた証拠

3世紀には列島規模の政治連合ができていてその中心は畿内にあり、伊都国や奴国もその政治連合に入っていて、畿内が魏や帯方郡との交流の主導権を握っていたのだから、
魏と外交交渉をやっていたのは畿内勢力と考えるのが妥当という結論です。

その上で、邪馬台国は具体的にどこかというと以下のようになります。
・卑弥呼の宮殿は? → 纒向遺跡の中で庄内式期に造営されていた範囲
・卑弥呼の墓は? → 箸墓古墳
・邪馬台国の範囲は? → 近畿第Ⅴ様式土器の分布範囲
・30国の邪馬台国連合は? → 畿内系土器が流入し、その後、纒向型前方後円墳が築造された地域
・卑弥呼の鏡は? → 魏代に製作された内行花文鏡か方格規矩鏡、あるいは画文帯神獣鏡、あるいは最初期の三角縁神獣鏡のどれか

現時点で畿内説の根拠と考えてるものを個人的にまとめてみましたが、今後も少しずつ書き足したり、修正もしていくつもりです。
一般には馴染みのない用語を山ほど使っているにもかかわらず、最後までお読みいただきありがとうございました。
建設的な批判、具体的で根拠を提示した反論は大歓迎です。
おかしいところを指摘いただくことで調べ直して、理論を強化できると思いますので。

このシリーズの他の記事へのリンク
邪馬台国の場所を推理する①【はじめに】
邪馬台国の場所を推理する②【畿内説の主な根拠】
邪馬台国の場所を推理する③【魏志倭人伝との整合性】
邪馬台国の場所を推理する④【畿内説への反論(1/2)】
邪馬台国の場所を推理する⑤【畿内説への反論(2/2)】
邪馬台国の場所を推理する⑦【九州説はなぜ成り立たないのか?】

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