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邪馬台国の所在地についての教科書の記述②

『もういちど読みとおす山川新日本史』という本が先日出版されましたので読んでみました。
この本は高校の教科書『新日本史』(山川出版社)をベースに書かれた社会人向けの日本史教科書という位置付けです。
また執筆者も高校の教科書『新日本史』と同じです。
この本では邪馬台国の所在地について以下のように記述されていました。

■山川出版社『もういちど読みとおす山川新日本史』(2022年)
邪馬台国の所在地には、大和を考える近畿説と、九州北部を想定する説とがある。
近畿説をとれば、3世紀には近畿から九州北部におよぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、九州北部説をとれば邪馬台国連合は九州北部を中心とする地域政権で、日本列島の統一はさらに遅れることになる。
所在地については容易に結論は出ないが、古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国連合が直接つながる可能性が高くなった。

邪馬台国の中心部とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。
この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。
巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域だったと考えられる。
この地には帆立貝型の独特な古墳がみられる。
これは前方後円墳に先行し、山陰地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)などの弥生時代後期の大型墳丘墓や、吉備地方中心に墳丘に立てられる特殊壺・特殊器台など、各地の文化の特徴を継承している。

参考として現在の教科書での記述を再掲いたします。

■山川出版社『詳説日本史』(2016年検定)
邪馬台国の所在地については、これを近畿地方の大和に求める説と、九州北部に求める説とがある。
近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿中央部から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立してたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。
※奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。

2つの書籍でポイントとなる部分を抽出するとこうなります。
・「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国連合が直接つながる可能性が高くなった(もういちど読みとおす山川新日本史)
・(纒向遺跡が)邪馬台国との関係で注目されている(詳説日本史)
明らかに前者の方が畿内説寄りの表現になっています。

学習指導要領が変更されて、来年4月からは高校の授業で「日本史探究」という科目が新設され、日本史の教科書も改訂されるようです。
日本史の教科書の定番と言えば、山川の『詳説日本史』ですが、今回の『もういちど読みとおす山川新日本史』で古代史部分を執筆した大津氏は来年から使用される改訂された『詳説日本史』の執筆者でもあります。
したがって両者は整合性が取れた内容になっていると推測できます。
来年4月から使用される「日本史探究」の教科書で邪馬台国の所在地がどのように記述されているか注目したいと思います。

このシリーズの他の記事へのリンク
邪馬台国の所在地についての教科書の記述①
邪馬台国の所在地についての教科書の記述③


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