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邪馬台国の所在地についての教科書の記述③

今年の4月から高校で使用されている「日本史探究」の教科書を入手しましたので、邪馬台国の所在地についての記述がどのように変わったかを調べてみました。

■山川出版社『日本史探究 詳説日本史』
邪馬台国の所在地については、これを近畿地方の大和に求める説と、九州北部に求める説とがある。
近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿中央部から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立してたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。
※奈良県桜井市の纒向遺跡は1970年代から発掘調査され、3~4世紀の100haにおよぶ大集落であることがわかった。2009(平成21)年に整然と配置された3世紀前半期の大型建物跡が発見され、のちのヤマト政権の王宮につながるものとして注目されている。

■清水書院『高等学校 日本史探究』
邪馬台国は、3世紀に中国で編まれた歴史書「三国志」のうち、いわゆる「魏志倭人伝」に登場する。(中略)邪馬台国の所在地については、近畿地方(畿内)とする説と、九州地方とする説を中心に、活発な論争が展開されている。

一方、「魏志倭人伝」は、魏の立場で編纂された史料であるため、一定の限界もある。
そこで考古資料が注目される。史料2に倭の女王(卑弥呼)が魏から銅鏡100枚を授けられたことがみえる。それに該当する可能性があるのが、前期古墳に副葬された三角縁神獣鏡である。
また、史料1に、247年ころに卑弥呼が死去し、直径100歩あまりの塚をつくったことがみえる。その有力候補に、奈良県桜井市の三輪山のふもとに立地する箸墓古墳がある。
さらに、箸墓古墳に隣接する纒向遺跡では、3世紀の巨大集落跡がみつかり、都市とみる意見もある。この遺跡では、列島各地の土器が大量に出土し、巨大な運河などの土木事業の痕跡も確認された。東西の軸線上には整然と配置された建物群があり、史料1の「宮室」の一部だとする見方もある。

上記史料1とは「魏志倭人伝」で、大倭や一大率などの倭国の政治制度、大人・下戸やあいさつの仕方など倭人社会の様子、卑弥呼の宮殿や墓についての口語訳で、
史料2は「魏志倭人伝」で、景初三年の朝貢、皇帝の詔書、金印や銅鏡などの下賜品についての口語訳です。

従来の教科書との比較では、山川出版社の教科書は、纒向遺跡についての説明が詳しくなり、畿内説がより強まっていることを示唆しています。正直なところ、最新の研究成果を反映して、もう少し踏み込んだ内容にして欲しかったのですが。

清水書院の教科書では、考古資料から畿内説でほぼ決まったかのような印象を受けます。しかし銅鏡100枚に該当する可能性がある鏡として、三角縁神獣鏡に絞ってしまっているのは勇み足ではないかと個人的には思います。ここは漢鏡5期~7期の鏡も候補に入れておくべきだと思います。

このシリーズの他の記事へのリンク
邪馬台国の所在地についての教科書の記述①
邪馬台国の所在地についての教科書の記述②


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