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邪馬台国の所在地についての教科書の記述①

【邪馬台国の場所は日本史の教科書でどのように書かれているのか?】


現在、高校で使用されている日本史の教科書をいくつか調べてみました。
調べた中では、下記の教科書において、邪馬台国の場所はまだ判明していないが、畿内説が有力になっていることを示唆する記述になっています。
なお、教科書のシェアとしては、3つで75%くらいを占めます。

山川出版社『詳説日本史B』
邪馬台国の所在地については、これを近畿地方の大和に求める説と、九州北部に求める説とがある。
近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿中央部から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立してたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。
※奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。

東京書籍『新選日本史B』
倭の女王卑弥呼がいた邪馬台国の所在地については、近畿地方とする説と北九州地方とする説があり、歴史学や考古学だけでなく、国語学や民俗学の分野もまじえて長い論争がくりひろげられてきた。
最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘結果や、漢の鏡の出土分布から、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつあるが、いまだに確実な証拠がえられたわけではない。
邪馬台国がどこにあったかは、古代国家の成り立ちを考えるうえでさけて通れない課題であり、今後もさらに議論をよぶことであろう。

清水書院『高等学校日本史B』
邪馬台国の所在地については、畿内説と九州説が対立している。
畿内説をとると、3世紀の段階で畿内から九州までを支配する統一政権が誕生していたことになり、九州説をとると、邪馬台国は地方政権の域を脱していなかったことになる。
また、初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。

教科書はその性質上とてもコンサバなスタンスであり、専門家の間で説が固まってから教科書に反映されるまで何年も要すると言われてます。したがって、いずれの教科書も現時点では抑制的な記述に留まっているようです。
一方、学習参考書の中にはもう一歩踏み込んだ記述をしている参考書も出てきてます。

山川出版社『詳説日本史研究』
邪馬台国は、「魏志」倭人伝の記載をそのままたどると九州の南海上に存在したことになる。したがってこれを合理的に解釈するには、九州説の場合は倭人伝の距離の記載を、近畿説の場合には方位の記載を修正することが必要となる。このことは、「魏志」倭人伝には史料としての限界があることを示しており、この問題の解決には、多くの状況証拠を提出しうる考古学の役割が大きい。次節に述べる古墳については、出現の当初から近畿を中心に分布することが知られている。従来、古墳の成立については、4世紀のこととされてきたから、3世紀前半の邪馬台国問題と直接関係しないと考えられてきたが、最近では、古墳の出現年代が3世紀後半までさかのぼると考える研究者が多くなり、少なくとも考古学の分野では、近畿説をとる研究者が多くなりつつある。

この「詳説日本史研究」という参考書は山川の日本史教科書に準拠した構成になっており、執筆者も教科書とかなり重なります。
教科書の書き換えは、一度に大きく変えるのではなく、改訂の度に少しずつ記述を強めていくようなので、次回の教科書改訂では参考書並みの表現に変わっているかもしれません。
学術研究で固まった説をなるべく早く教育に反映させることが理想ですが、一方では慎重さも必要なので、現在の改訂状況は判断が難しく微妙なバランスだと思います。

このシリーズの他の記事へのリンク
邪馬台国の所在地についての教科書の記述②
邪馬台国の所在地についての教科書の記述③

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