1《ONE》
僕は空を飛ぶことに魅せられたパイロットだ。空は限りがなく、果てしない。僕は果てなき大空を愛し、果てしなき空間を飛ぶことを愛する。
時空を超えて、世界にはたくさんの物語が同時進行している。一瞬ごとに枝分かれして、無数の別の世界に分かれていく。
織り機に張った経糸の間に、緯糸を通して織り物をつくる。時には手でゆっくり。時には機械のような強い力で。滑らかに進むこともあれば、激しい摩擦で熱を帯びることもある。
世界を一枚の布に見立て、それを広げたらどんな模様になっているのだろうか。
経糸、緯糸は複雑に絡まりあい、やがてタペストリーのような模様をつくる。僕と妻は空を飛びながら、この世界のどの模様に着地しようかと考える。
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「腰抜けめが! 吾輩に悪徳帝国の攻撃を無視しろ、だと?」
僕たちが着地したのは月夜の屋外で、深い山の中にある草原だった。周囲にはテントが貼られ、見張りの番のたいまつの光が布に反射し、あたりを照らしている。キャンプファイヤが輝き、馬のいななきや酔っ払いの怒号があちこちから聞こえてきた。広場の中央に太陽を象ったと見える高い柱があり、その周りを何千人もの男が興奮状態で踊っている。
男性たちは首の周りにたくさんの銀の飾り物をつけており、躍動する舞に合わせ、それらは激しく打ち鳴らされた。
傷を負い、疲れ切ったように見える男たちは長い刀を振り回している。
その目は憎悪で充血し、剥き出しになった敵意が、身体全体を覆っているようだった。
「西の諸国に禍いあれ。精霊の言葉を呼び起こすのだ!」
鎧 剣 盾 旗 馬 火 鮮血。なんだか、狂っている。
炎と闇の中で、僕は身震いした。なんてところに飛び込んでしまったのだ!
僕と妻は互いの手を取り、無言で顔を見合わせた。
「この野郎!」
僕たちに気づいた一匹の獣のような人影が長い刀をギラつかせ、襲いかかってきた。
襲いかかった男は僕の体を突き抜けて倒れたが、すぐに立ち上がり、身を翻してこちらに飛びかかってきた。もう一度、彼は僕の体を突き抜け、再び地面を蹴って一回転した。彼は頭をふり、瞳の奥は憎悪に満ちているものの、何が起こったのか理解できていないようだった。
何度か僕の体を通過した後、男は僕を睨みながら動きを止めた。
「なぜ効かぬ…亡霊か?」
それは見知らぬ言語だったが、なぜか理解することができた。
「こちらの言うことがわかるか」
男は臨戦態勢を崩していない。頭上に振りかぶった刀が、かすかに震えている。
「あなたと戦いたいわけじゃない」
「嘘をつけ。強欲な西洋人め。嘘はもうたくさんだ!そうして、お前たちは我らの全てを奪っていったんじゃないか」
この純朴そうな、しかし堂々とした精悍な顔つきの戦士の目には、驚くほど迷いがなかった。彼がもし人を殺すことがあっても、それは何かの信念に基づくもので、断じて偶然ではない。
それにしても、出会ったばかりの西洋人をいきなり斬りつけるとは何事だろう。野蛮な戦士の血がそうさせるのだろうか。
彼は目に入るもの全てを破壊するようで、僕にはその残虐性が理解できなかった。
「なぜなんだ?」
「なぜ?」
「なぜ、そんなに殺戮と破壊を好む?…理由もなく!」
軽蔑しきった声が返ってきた。
「ふん、理由はないだと? 精霊は我に、異端者を根絶やしにせよ、と命じた。西洋人の連中と、間抜けなあやつり人形を皆殺しにせよと。精霊の力で罪深き人間どもを浄化せよと。」
「我は勇敢な山の戦士、シャンだ。天、地、家の精霊に守られている。精霊は万物に宿り、精霊によって我らは生かされている。精霊の言葉の前にかしずかぬものはおらぬのだ」
どうしてそこまで盲目的になれるのか。
男の目には知性が宿っていたが、怒りにより、狂気の渦に飲み込まれてしまったようだった。
−
妻が口をはさんだ。
「あなたは、怒りに支配されている。…もし、怒りから力が生まれると考えているなら、それは悲しいことだわ。精霊が恐怖をあがめる人々に恐れられているなら、愛をあがめる人々に愛されることもできるはずよ」
「なんだと!女め!」
シャンは振りかぶった長い刀を大きな椅子に振り下ろした。椅子はこなごなになって、ふっとんだ。
「精霊は我に、愛せよ、などと命じてはおらぬ」
怒りは恐怖のしるしなのだろうか。逆上する人間は何かを失うことが怖いと、僕は本能的に知っている。彼は何を恐れているのだろう。これほど猛り狂う人間を、僕は見たことがなかった。
「どうして、そんなに怯えるんだ?」
「貴様、よくも!このシャンが、怯えているなどと!」
外の暗闇が、うめき始めていた。いたるところで、閃光がひらめいていた。
「敵が来たぞ!ついに、その時が来たんだ」
彼の仲間が叫び、シャンを含む大勢の戦士が、刀を手に飛び出していった。興奮した人々が巨大な集団となって、広場へと殺到していく。シャンの姿は、すぐに見えなくなった。
群衆が僕たちの身体を次々とすり抜けていく。
僕たちはなすすべもなく広場に立ち尽くし、悪夢が現実になるのを茫然と見ているしかなかった。
長い刀を持った軽装の戦士達に向けて、巨大な大砲から火が放たれる。それは雷のように鳴り響き、ゴォ、ゴォという音が重い地響きのように聞こえてきた。
やがて僕たちは、ホイールローダーがゴミを集めるかのように、人が折り重なって倒れるのを見た。
同時に、轟音がとどろき、大地が震えた。
僕たちの視界は溶けていった。
時は18世紀。アヘン戦争に至る長い導火線に火をつけたのは、互いの歴史など文化を何も知らない二つの集団の不幸な合流であり、若者の貪欲と、知恵のありがたみを捨てた金銭ずくの老人との馴れ合いだった。
極東に到来したヨーロッパ人は、満州族の中国官僚の世界観をひっくり返した。隷属的なところがこれっぽっちもなく、中国が発明した火薬を使って中国にあるどの武器よりも強い大砲を作り、エネルギーと新たなアイデアに満ち溢れていたのである。
事態は悪化の一途を辿り、ついに戦争の火蓋が切られた。戦争そのものは完全に一方的な展開だった。攻撃の前線は、長いナイフを巧みに操る700人の四川先住民族に委ねられた。彼らは中国人部隊をおぞましい大量の戦死へと真っ直ぐに導いた。アヘン戦争の敗北によって、中国は門戸をこじ開けられ、国境を越えてアヘンが雪崩れ込み、1世紀以上に及ぶ経済苦難、社会の崩壊、外国からの侵攻、内戦、革命の荒波へと飲み込まれることになる。
(文献2)より引用、一部改編)
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空に戻った僕たちはコックピットの中で、随分長い間、黙りこくっていた。
「なぜなんだ?」
「大量殺人の何がそんなに素晴らしいんだ?」
人が死ぬのを見るために、この世界を訪れたんじゃないはずだ。絶望から凶暴に駆られ、到底叶わない勝利を信じ、塵のように散っていく命。至高の愛とは、自らの生命を破壊することではない。
「精霊の声に従うと言っていたわね」
「その精霊というのは、邪悪な神ではないのか? 人を殺せと教えるのが、正しいことと思うかい? あのシャンという男は、悪魔に魂を売り渡し、命を捨てて突撃して…、ああなってしまったんじゃないか…? バカげているよ。西洋人を憎むより、友好的な関係を築いた方がよっぽど生産的だよ、そう思わないかい?」
妻はそれには答えなかった。何かを考えているようだ。
僕は毎日、ロザリオを持って瞑想し、仕事の前と後、食事の前に祈り、寝る前には聖書を読む。そこに書いてあるのは愛の言葉だ。愛の言葉は、ぽっかり空いた心の穴を埋めてくれる。僕は愛と光に溢れた言葉に夢中になった。そこには敵を炎と刃で撲滅せよなんてことは、一言も書いていない。人を愛せと書いてあるのだ。あの精霊の言葉を信じた彼らが、この教えを知っていたら、悲劇は起こらなかったのではないか。
「僕だけではなく、人は皆、光の子のはずだろう? 僕が神から愛を受け取ったように、今度は世界にそれを分け与えるべきだと思うんだ。そうすれば、戦争など起こらない。人間はなぜ進化しないんだ」
黙っていた妻が、やっと口を開いた。
「人間には愛があるわ。どんな人間でも。だから、きっとあなたの真意は理解されるでしょうし、愛されるでしょうね」
「でもその神の言葉を、世の中に伝えるとして、」
「愛と自由は、本当に、恐怖と隷属を終わらせるかしら?」
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僕はいらいらした。
「何が言いたいんだ」
「神の言葉を口にする人たちによって恐怖と隷属を強いられている人は、メッセージを歓迎するかしらってことよ」
「すぐに歓迎はしないだろう。でも、光を埋れさせるわけにはいかないよ」
「あなたは光を護る?」
「当然だ」
「ではもし、あなたのメッセージを歓迎しない誰かが、あなたを敵であると認識したらどうなるかしら? 彼らは自分の立場が脅かされるのを恐れ、自分と周りを守るため、あなたのところに押し寄せてくるかもしれないわ、武器を携えて。
あなたはどうする?」
「逃げるしかない」
「その後を追われ、追い詰められたら?」
「戦う必要があるなら、戦うしかないだろう。光を護らなきゃいけないんだ」
妻はため息をついた。
「こうして戦争が始まる」
やめてくれ。
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実際、妻の言うことは、すべてその通りだった。僕も彼らと同じ立場にあれば、同じことをしていただろう。お互い、護るべきものがあるのだ。
シャンは、何かに怯えているように見えた。自分が生きる規範としてきた信念を「間違っている」と銃で脅されたら、誰もがそれを護らなければと思うのではないだろうか。
僕は生まれて初めて経験する葛藤に、ひどく混乱していた。妻の言葉が胸をゆっくり押し込むように、心の底に届く。
「愛と自由は、恐怖と隷属を終わらせるかしら?」
語るべき言葉、歌うべき歌。それは、どんなものだろう。僕はわからなくなったし、もう僕にできることは何もないように思えた。ただ一つ確かなのは、シャンに対する僕の気持ちが嫌悪から共感へ変わろうとしていたことだった。
好きになれないどんな人間にも僕の知らない真実があって、それを学べば、何かが変わる気がする。
−
地球の裏側で行われている違法なアヘン貿易についてはほとんど知らないイギリスでは、遠く離れた植民地から集められた莫大な富によって、夢のようなティーガーデンが作られていた。
また、おそらくは、国家の広範囲に及ぶ植民地支配の企てと好対照をなし、遠い地球の果てに行ってしまった最愛の人との悲痛な別れや、その人を待ちわびる気持ちと表裏一体を成すのだろうが、イギリス人は類まれな家庭生活の才能を発達させた。人生の先行き不安を追い払おうとするように。
(文献2)より引用、一部改編)
「さあ、アフタヌーンティーにしましょう」
イギリスの上流家庭で、優しい声が響いた。
温かいスリッパや、パチパチと音を立てて燃える暖炉の火、ふかふかのソファ、良質な本、気のおけない仲間たち、湯気を立てているお茶。
ピアノの横の飾り棚にはたくさんの盾や勲章。
「わたし、昨日もお父様のために祈ったのよ。お父様をお護りくださいって。元気で無事に戻れますようにって」
小さなマリアはピアノのある応接間で、庭師が朝持ってきてくれたバラを軽く撫でながら、微笑んで言った。
「そう、それはいいことね」
そこにいる母親も、姉も、使用人も、皆が笑顔だ。
生活は大体において楽しく極めて快適だった。刺繍したリネン類にはしみ一つなく、彼女の好きな柔らかくて甘い食べ物も、いつも有り余っていた。
大好きな父親がそばにいない、ことを除いては。
さあ、炉の火を掻立て、鎧戸を固く閉じ、カーテンを下ろし、ソファを暖炉に近寄せて、煮えたぎる湯沸かしが、しゅうしゅうと音をたて、湯煙を吹き上げる中、快い気分にさせるが、酔いを招かない好個の飲み物、茶をすすりつつ、屋内での楽しい夕べを享受しよう
(林英二訳『ウィリアム・クーパー詩集〜「課題」と短編詩』、慶應義塾大学法学研究会、1992年)
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「出来事は、でたらめに起こるわけじゃないの。どの出来事にも、それなりの理由があるのよ」
空に戻り、妻が言った。
僕たちはこの旅で、ある出来事の表と裏を見たんだ。いつだって、世界は無数の人生が同時進行している。
どの出来事も、一枚の果てしなく続く織り物の一部、一つの模様に過ぎない。どこを通り、どこを通らないかで、その後の世界が変わっていく。僕たちが通り過ぎると、そこにある模様ができる。
その模様は、歴史として永遠に残る。
とある戦争と平和の模様に着地した時、僕たちは絶望するだろうか。それともそれが伝えるメッセージを学びとるだろうか。それともより利口になり、他の道へと進むだろうか。
攻撃が最大の防御なり、と信じて選択した人もいる。無力な自分には止めようがない、と思い込んだ人もいる。何かに気づきながら、攻撃や防御などとは無縁の人生を送る人もいる。
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僕は考える。
彼らの中に、少しでも自分の面影を見なかっただろうか。たとえかすかでも、自分の記憶と共鳴しなかっただろうか。
人間の一生なんて、だいたい未完成で終わるものだ。それを誰かが補うように世界は進む。
無数の出来事や人生は、やがて一枚の織り物になる。
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山奥の修道院で老人が祈りを捧げる時、世界のどこかで銃撃戦が始まる。人々が神に向かってひれ伏す時、嵐がどこかの村を飲み込む。寺院で読経が響く時、逃げ惑う人々は命からがら国境を越える。
だけど、同じ瞬間、温かいシチューを作って家族を待つ人がいる。一つのパンを分け合って食べるきょうだいがいる。情熱的な音楽に愛をささやくカップルがいる。同じテレビ番組を見て笑う友がいる。
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僕たちはみんな、大切なものに巡り合うべく、道を進んでいく最中なのだろう。僕たちはこの場所にとってどんな意味があり、またこの場所は僕たちにとってどんな意味があるのか?
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僕たちの相違と見えるものの底をつないでいる、繊細な、でも確かな一本の糸。
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「1」 (O N E)
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【引用・参考文献】
1)リチャード・バック著、平尾圭吾訳;ONE、TBSブリタニカ、1990.
2)ヴィクター・H・メア、アーリン・ホー著、忠平美幸訳;お茶の歴史、河出書房新社、2010.
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※嶋津亮太さんの「教養のエチュード賞」に参加します。
追記
この作品は、リチャード・バック「ONE」のオマージュ作品です。
「ONE」では、リチャード夫婦が飛行機に乗って時空を超え、様々なパラレルワールドを旅します。パラレルワールドで出会う人々は、リチャード夫妻の分身とされており、「自分が選ばなかった人生を歩んでいる人」として登場します。
わたしは他人と不可分とまではいきませんが、本文中に書いたように「嫌悪から共感」への過程で、人間には共通の何かがあるのではないか、と感じています。それを、「ONE」の世界に乗せて書いてみたかったというのが、今回この作品を書いた理由です。
題材は、アヘン戦争から取りました。
文献には「攻撃の前線は、長いナイフを巧みに操る700人の四川先住民族に委ねられた」とあります。イギリスの大砲に対し、長いナイフ一本で戦おうとした人々。そこにどんな想いがあったのか、わたしには想像することしかできませんが、もしかしたらこのような背景があったのかもしれない、と思いを巡らせていました。
「四川先住民族」が、どの少数民族のことを指すのかは明記されていません。ただ、検索したところ、山岳民族で、刀を離さず、堂々として狩が得意な民族がいるとわかりました。その民族はアニミズムを信仰しており、万物に精霊が宿ると考えているそうです。そこでその民族をイメージして、話を作ることにしました。(名前の「シャン」というのは中国語で「山」という意味です。)
一点だけ、強調しておきたいのですが、この作品を通じて、何か特定の宗教や民族を批判したり、持ち上げたりするつもりはありません。また、宗教自体への嫌悪もありません。
なぜ戦争は起こるのか、なぜ人は憎み合うのか。その裏で、何が起こっているのか。本当の意味での、愛と自由とは。
戦争も何も経験していないわたしが考えるには少し壮大すぎるテーマでしたが、原作の「ONE」を読んでどうしても書いてみたくなりました。そのぐらいわたしにとって「ONE」の世界は衝撃でした。
嶋津さんの企画がなければ、絶対に書いていないし、考えていないテーマだと思います。普段のnoteであれば躊躇するところですが、この企画、そして主催者の嶋津さんであれば、自由な創作の形態を歓迎していただける、と感じての挑戦でした。
前回の池松潤さんの「リライト金曜トワイライト」に参加させていただいたのも大きかったです。ここでリライトに挑戦したことで、さらにオマージュ作品への挑戦へと繋がっていきました。創作の楽しさの幅が、ぐんと広がったと思います。
まさに、「ONE」。人と人が繋がり、相違と見えるものの中に、確かな一本の糸を感じます(ちなみに原作のONEを「1」にしたのは、より言語に関係のないつながりを表現したかったからです)。
このご縁に感謝いたします。読んでいただき、ありがとうございました。
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