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子どもの頃の思い出

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私の書いた記事のうち、主に高校生までの思い出に関するものをまとめたものです。但し、続き物については大学以降のものもこちらに収録しています。
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2023年11月の記事一覧

一人称

日本語にはたくさんの一人称がある。私、僕、俺、ウチ辺りはよく耳にするだろうし、おいら、某、儂といった古風なものや、女性だと自己の名で呼ぶ例もある。ここまで一人称が多彩な言語は珍しいという。記事を書くときは、フラットな目線で読めるよう、"私"という一人称を用いて記載しているが、今回は私自身が使ってきた一人称について綴りたい。

私が産まれたとき、母子手帳上の性別は男と記載された。余談だが、母子手帳の

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英語が得意でなくなったきっかけ

教師の言葉の影響力というのは存外に大きい。私は、とある教師の言葉がきっかけで英語が得意でなくなった。その教師だけのせいではないが、これは教育に関心のある私の戒めにもなるエピソードだ。
私は中学生の頃、それなりに成績も良く、いわゆる五教科と呼ばれる国語、数学、理科、社会、英語はオール5だった。相対評価であったことも関係あるだろう。その中でも、私の得意科目は数学と英語という認識であり、中学三年生の夏に

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仮病で学校を休んだ話

私は所謂5教科だと社会が苦手だが、実技科目はほとんど苦手だ。何故か音楽は得意な方だが、体を上手く使う必要のある科目は大抵苦手だ。
中学1年生の冬、家庭科では裁縫関係で何かを作るという内容の授業だった。私は単純作業は嫌いでは無いが、不器用で細かい作業が苦手だった。だから、その家庭科の授業が嫌で、ある日、熱があるからと学校を休んだ。次の週も、その次の週も家庭科がある日だけ休んだ。
流石に母は訝しんだよ

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祖母にも雪を見せたくて

祖母にも雪を見せたくて

これは私が小学校低学年か中学年ぐらいの頃の話。
今でも私は九州に住んでいるが、九州だと山の方でなければ雪は滅多に降るものではない。当時私の住む町でも、積もる程の雪が降るのは60年に一度、積もるといっても1cmあれば多い方といったレベルだ。
そしてある冬に、父の運転で雪の積もった所に行く事になった。足の悪い祖母は家に残ることになり、両親と私含む姉弟で出掛けることになった。

道中は省くが、父は車を走

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仮初の登校班長

仮初の登校班長

どれぐらいの人に伝わるか分からないが、私の住んでいた地域では、小学校に「登校班」という制度があった。同じ地区に住む児童を、5人~10数人の班に分け、上級生がその班の先頭と最後尾で監督しつつ引率するという制度だ。私が下級生の頃は、登校するときに道すがらにある赤や黄色、青といった様々な色のボタン(金属鋲)を踏みながら歩いていた。色と大きさで点数を決めていたが、その結果は帰ること頃には忘れている。登校の

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美術の授業で覚えていること

美術の授業で覚えていること

私は手先が不器用な方で、図工だの美術だのの授業はどちらかと言わなくても苦痛な部類だった。少なくとも何かの賞を取ったこともないし、先生から良い評価を受けた記憶もただ一度しかない。今回はその一度の記憶を綴る。

それは中学生の頃。何年生だったかは覚えていない。投影図法について学び、投影図法を使って絵を描いてみようという授業だった。私はキャビネット図、つまり、縦・横・奥行の比率を1:1:0.5で描く図法

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手話の思い出

手話の思い出

これは私が小学4年生の頃だっただろうか、私の住んでいた地区の公民館で手話を教わる機会があった。当時恐らく有名だっただろう歌謡曲に合わせ、その歌詞を手話で表現しよう、といったものだった。とはいえ、当時の私はその曲を初めて聞いたので、全然耳馴染みがないものであった。

週に1度だったか2度以上教わっていたのか覚えていないが、その曲を表現することをゴールとして、初めは五十音の手話である「指文字」を覚えて

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教育実習での思い出

私は大学で教員免許を取得した。そして、教員免許の取得には大抵、教育実習が必要となっている。教育実習では単に教壇に立つだけではなく、昼食であったり、部活動であったりと、生徒と関わる時間はたくさんあった。その中で、生徒と話したことの中で覚えていることがある。

私は、朝の会で「完全数」について話した。奇しくもその日は6月28日。それならこれをテーマにするしかないと選んだのだ。ただ、話の内容としては、完

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