英語が得意でなくなったきっかけ

教師の言葉の影響力というのは存外に大きい。私は、とある教師の言葉がきっかけで英語が得意でなくなった。その教師だけのせいではないが、これは教育に関心のある私の戒めにもなるエピソードだ。
私は中学生の頃、それなりに成績も良く、いわゆる五教科と呼ばれる国語、数学、理科、社会、英語はオール5だった。相対評価であったことも関係あるだろう。その中でも、私の得意科目は数学と英語という認識であり、中学三年生の夏には英語検定3級にも合格していた。

そして高校一年生の頃。担任の先生には歳の頃が私達と同世代の娘が居て、勉強が嫌だと学校を何日も休んだそうだ。それを見兼ねて、苦手な教科からは逃げてもいいんじゃないか、というようなアドバイスをして、その娘さんは学校へまた通うようになったということだった。先生はこの話からなにがしかの教訓を私達に伝えたかったのかもしれない。だが私は、先生がそう言うならと、その先生の教える英語の勉強の手を抜くようになった。英単語、成句、文法。授業にはちゃんと出ていたが上の空だ。当然、テストでも点が取れなくなり、英語は得意科目ではなくなってしまった。今でも高校レベルの語彙や文法はどうも苦手だ。

このエピソード自体はこれで終わりだが、私と英語の関わりについてはまだ続きがある。大学に入り、必修の教養科目にも英語があった。当然、レポートのような課題もある。そうして学生生活を過ごす中で、英語の講義を担当している教授と偶然学食で会う機会があった。そのとき、その教授からは私の英作文について褒められた覚えがある。なんでも、センスがあるとのことだ。

私は英語の語彙をたくさん持っていないので、知らない表現をするときには「こういう単語、ありそう!」と単語を造り出すことがある。要は、知っている単語に接頭語や接尾語をくっ付けて、新たな意味を生み出そうとする訳だ。今、知識が足りていなくても、英語で何とか表現したいという気持ちだけでも伝えたい。ネットで調べて翻訳するよりも、自分らしさを優先したい。そうした気持ちをその教授は汲み取ってくれたのかもしれない。

先生の言葉の影響というのは大きい。指導を受ける側のやる気を削ぐことも、やる気を出させることもできる。褒め過ぎても良くないが、厳しくして伸びる子どもは極僅かだ。指導に使う言葉というのは本当に難しい。

(補足)数年前に受けたTOEICの点数は440点ぐらいという惨憺たる有様だ。