見出し画像

北海道全土を巻き込んだ学生団体にライターとして所属して得た気付きと、現実について

下手の横好きであることは承知の上で、元々、文章を書く事が好きだった。Instagramのストーリーで流れてきた「ライター募集!」という文言に目を奪われ、活動内容も知ろうとしないまま、とんとん拍子で数日中に学生団体「Knows」へ飛び込んだのが去年の7月半ば頃。

「この一年は今までで一番短く感じた」というのは年末が近づく度に呟く常套句だが、それでもやはり大学生の一年というのはとりわけあっという間であるように感じられる。加えてコロナ禍を踏まえれば、2021年という光陰も矢の如し。この感覚はきっと僕だけのものではないだろう。

さて、僕の所属した学生団体「Knows」は、道内で活躍する大学生へのインタビューを軸に、「やりたい事が分からない」「挑戦したいが踏み出せない」といった悩みを抱える北海道の大学生にきっかけを提供するコミュニティメディアだ。先に述べたコロナ禍は、あらゆる人が本来得られていたであろう、あらゆる機会や繋がりを希薄にさせてしまった。1年をあっという間にさせてしまった。そんな今だからこそ、と昨年春頃に立ち上げられた次第である。

ライターとして所属する僕の役割は、活躍する大学生をインタビューして記事にし、読者に届けること。学生生活と並行させて、またメンバー同士で分担して大学生の話を伺ってきた。

「学生時代何かに打ち込んで、世の中に何かを生み出した」と書けば、確かに結果としてはそうだ。活動を知った友人たちは僕のことを応援してくれたし、きっと僕が高尚なことを成し遂げていると思っているかもしれない。

この文章を読むあなたもまた、僕が何かアクティブでエネルギッシュな人間であるとか、悩める大学生の背中を後押ししようとしているのだから立派な人間に違いないとか、そんなことをもしかしたら思ってくれているかもしれない。大変光栄なことなのだがしかし、どれもこれも全く見当違いなのである。

自信ありげに言うのも変な話だが、僕には、どこにでもいるようなありふれた大学生だという揺らがない自負がある。寝て起きたら講義が終わっていたりするのは日常茶飯事だし、専攻分野の学説をすらすらと唱えられる訳でもないし、レポートもバイトも全て放り出して、一ヵ月くらい無計画で旅行に飛び出したら一体どうなるだろう、と思うことだってある。この前もバイト寝坊したし。

ただ、活躍する大学生の話を直接聞くという仕事と向き合っていると、そんな卑近で凡庸な大学生の僕でも、流石にその情熱を受けて揺さぶられたりすることがあった。いい機会だから、ここにそれらを備忘録という形で残そうと思う。

■活躍する大学生に共通するフレーズは

教育で地域に携わる方。落語で地域に携わる方。けん玉で人の輪を繋げていく方。ネットで活躍する方。活躍の仕方も、性格も、価値観も、人生も、アプローチは大学生の数だけ違っていたにも関わらず、(若干の違いはあれど)彼らが口々に唱えるのは「自分の好きを突き詰めよう」というフレーズであった。

取材前になると都度、彼らの活躍や肩書きを見て、どこか自分とは遠い所にいる人のように感じて緊張してしまっていたのだけれども、いざ始まって彼らの人生を聞いてみると、初めは「好きな物」を自分の中に持っているだけだった。それは僕たち一人一人に好きな食べ物があるのと同じようなありふれたものだと思った。

彼らはその「好きな物」を通じて人間関係や価値観、軸を作り上げてゆき、そして輝かしい今がある…という流れになるのだけれども、

例えるならこれもきっと、サッカー部に入った人間にサッカー部の友達ができて、卒業が近くなった時にふと自分の歩みを振り返って「あんなもの、こんなものを得られたなぁ」と気付くようなありふれた経験と、本質は同じだと思う。

彼らが異なっていたのは好きな物を心の内だけに留めず、自分の武器へと昇華させて世界を広げていった、という点だけであるし、そんな訳で、勿論良い意味で彼らは何も特別な人間ではないし、今現在の活躍も多分、好きを突き詰めた結果のあらわれの一つにしか過ぎない。

この気付きは彼らと対話する前の僕の偏った物の見方や常識を壊してくれたし、ああ結局みんな等身大の大学生なのね、という強い安堵を覚えた。別に背伸びする必要もなかったし、かといって不必要に臆病である必要もなかった。手応えがあった時はいつも、自分らしく振る舞っている時だった。

だから、実は見落としているだけで、今は好きな物がまだある「だけ」の僕らにも沢山のきっかけが落ちているのかもしれないし、少しその気になってそれを拾うだけで僕にも同じような可能性が開けるのかもしれないし、そして、彼らも以前は僕と同じようなことを考えていたのかもしれない。そう思うと、とても励まされた気がしたし、この大きな発見もKnowsに加わらなければ見落としていたと思う。

■一番変わらなきゃいけないのは僕のはずだが、

Knowsの諸活動は書籍という形で実を結び、北海道の多くの大学生の手に渡り、一歩踏み出す彼らの背中を後押しした。それと同じ位に、Knowsの代表をはじめとしたメンバーもそうした声に背中を押されているはずである。

Knowsを手に取った大学生は変わった。携わるメンバーも変わった。うんうん、素晴らしいことだし、誇らしいことだ。

…ちょ待てよ(キムタク)。一番変わらないといけないのは、活躍する大学生と直接対話して、情熱的な言葉を目の前で生の声で受け取っているはずの僕なのではないだろうか?彼ら彼女らの話に「なるほど」「ふむふむ」と相槌を返して、仕事をこなす。それだけでよいのだろうか?

活動は永遠に続く訳ではないし、既に一旦のゴールを迎えた。それが終わった時、学生団体に所属するオフィシャルの僕ではなくて、一個人の人間として、プライベートの僕としても、何かを心の中に残さなくてはいけない。

折角掴んだきっかけを単なる学生団体内での仕事として終わらせてしまうのは惜しいから、活躍する大学生の声を直に聞いた者として、またそれを届ける者として僕は変わらないといけないのだと思う。ノブレス・オブリージュじゃないけれど。それに気付くことはできたが、きっかけを提供する側のはずの人間がこんな風に立ち止まっているとは、何とも滑稽なものだ。

思えば小さい頃から、嫌いな食べ物は最後まで残していたし、夏休みの宿題も最終日になってようやく解き始めていた。そんな風にして、次第に人生の大事な選択も、無意識のうち、後へ後へと蓋をして見ないフリをしてきたのかもしれない。それで気付いた。早いもので2022年、大学生最後の年を迎えた今、過去の僕の貯めに貯めた「いつかやろう」のツケが、こうして未来の僕に回ってきたのだと。

■ライターの活動は僕のこれからを良い意味で狭めた、と思ったが

好きなことを仕事にするべきか、そうでないか?

活動中に志した「書くことを仕事に」という僕の指針は、活動を終えてみて、また就活の終わりが見え始めるにつれ、もしかするとそれ自体が間違っていたのではないか、という一つの想像し難かった結論に辿り着いた。

鉄は熱いうちに打てだの、熱は熱い方から冷たい方に流れる、だとかという言葉が示すように、その物事に身を投じているうちは常にふつふつと滾っていられるのだけれども、その歩みをあるときふっと止めて後ろを振り返ってみると、好きなことで行きていく覚悟を持った時点で熱量を永遠に注ぎ続けなければならないことの難しさに改めて気づかされた。

物質の温度は常に冷えようとしている。熱とはエネルギーを持った状態であって、エネルギーは高いところから低いところへ伝わっていく……というのは理科のお話になるのだけれども、なんとまあ世の中、不思議に上手くできていること。人間も一緒で、物事には常に面倒臭さと飽き(=冷え)がついて回ってくるというのに、迂闊にそちらに流されてしまうと立ち上がりは大変遅くなってしまう。火や電気は起こす瞬間が一番労力を要する。先の理科のお話に従うなら、何もないところからエネルギーはまず生まれすらしない。無情である。

さて「好きを突き詰める」課程の真っ只中に今僕が居るとするならば、この能力が活かせるような仕事にやはり進んでいくべきなのだろうかとあの時は考えていたのだけれども、

きっと僕は、というか僕たちは、向き不向きがどうであれ、どんな仕事でも場所でも何とか上手いことやって生きていけるのだろうし、何千何万とある生き方の中から、何だかんだ折り合いをつけていって、飲み込んで、抱きしめて、最後には一つに絞れてしまうのだと思う。

僕が今恐れていることは、好きな物と向き合うというこの趣味のようなことが仕事、つまり義務になってしまうことで、好きだったあれやこれに費やす時間から目を背けたくなるような気持ちになってしまうことで、

僕のアイデンティティに修復不可能な亀裂が入って、僕という人間が根底から揺らいでしまわないか?ずっと保たれてきた僕の心の安寧秩序が脅かされてしまわないか?ということである。そもそも「好きを仕事に」というフレーズ自体、誰かが上手いこと僕のような人間を絡め取って陥穽に陥らせる為に産み出されたウソツキの言葉だとしたら…?

と自身の遼遠なる前途に憂慮し二の足を踏んでいる最中ではあるのだが、何か色々、僕はこのままで良いのだろうか?という問いと、自分を見つめ直す時間を得られたという点で、Knowsの活動は僕のこれからを大変良い意味で狭めてくれたと思っている。360度キョロキョロして落ち着きが無くなってしまうより、行き先がいつまでも決まらないことより、よっぽどいい。

■活動の意外な弱点

・押してあげるとこまでしか

「きっかけを提供するコミュニティメディア」。Knowsはその標語通り機会を提供することはできたものの、背中を押して支えてあげる以上の部分については、実際問題として難しいものがある。つまり、読んだ後のそれからを決めるのは読み手である僕たち一人一人になってしまう。

言うなれば、Knowsの役割はさしずめ補助輪や滑走路、羅針盤。操縦士は僕たち。繰り返しになるがそういう訳で、どの道にどう進むかの舵取りは最後には他ならぬ僕たち自身が成さなければならない。Knowsにおんぶにだっこの僕も、いよいよもって自分の足で漕ぎ出さなければいけないのだ。

・熱量の差

代表の口ぶりや今後の展望を伺うに、今回の活動は、代表が成し遂げたかった理想の完成形ではなかったし、もっともっと大きなスケールと熱量が必要だったのだと思う。

最終的に資金を出資していただく形になったことで、僕たちの活動にはいよいよもって明確な責任と社会的意義が生まれたし、僕も自分なりに最後までやりきる意志を持って臨んでいた訳だけれども、そもそもの意志のスタートラインの差があったんだと思う。抽象的になってしまうけれども、そこが僕という人間の意志薄弱さというか、今一つ抜けきらない理由というか、未熟なところだと思った。まだ受け身すぎた。ビビってた。

・「意識高い系」なゴールを回避したかったが

道内の大学全てに書籍を設置したことは、当然ながら道内の学生全ての目に留まったということと同じではない。本当なら無理くり手に握らせるくらいして触れてもらいたかったし、そうでないと僕たちの成し遂げたかった大学生の在り方には届かないと思う。

つまり、手に取る人と取らない人とに分かれてしまったその時点で結局、初めから現状打破の意識を持った学生だけが書籍を読んで、そうでない学生(僕たちのターゲット層が彼らであるのにも関わらず)には相変わらず「意識の高い人たちが参加して、意識の高い人たちが読む何だか分からないパンフレット」のように映ってしまう。よくあるこの構図を崩したかったのに、届けたい人にあと一歩で届かない。これが辛いところ。

■あとがき

綴りたいように綴らせていただきました。この記事はとにかく、書籍を作るメンバーもこんな風に悩んだり考えたりしている普通の大学生だよ、というのを吐き出したいが為に執筆したものです。

「Knowsを皆の成長のステップに使って欲しい」という言葉をメンバーから貰ったのもきっかけです。僕の記事をそのまま企画ページにするというわがままに携わってくれたメンバーの皆さん、そうでなくともKnowsメンバーの皆さんに一度、オフィシャルな僕とプライベートの僕との両方でお礼を述べる機会を作りたかったこともあります。

夜遅くまで校閲作業したり、特に意味もなく駄弁ったり、リモートワークながら、学校祭の準備みたいで楽しかったです。企業のCEOとの対談だとか、就活のネタとしても非常に強力なものになりました。ちょっとそれについては本旨とは逸れますが、何から何までありがとうございました。

他にもあんなことやこんなこと、と挙げたらキリがありませんが、もしも読者の方がこれを目に通す機会がございましたら、あなたと同じように、僕もKnowsから沢山の刺激を受けて成長できました、というのをお伝えしたかったのです。ありふれた僕の、ありふれた文章が、しかしそれでも読者の皆さん一人一人のお力添えになったのであれば感慨もひとしおです。


この記事が参加している募集

#スキしてみて

524,761件

どうしようもなく下らなくて、だけれど面白い何かに使わせて頂きます