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浜口倫太郎「ワラグル」

・好きな作家の新刊やまだ読んでいない本
・書評などで気になっていた本
・まだ読んでいなかった名作と呼ばれる本
・感想を書いたら直接反応してくれた作者の本
 などなど。

今回この本を手に取った理由は「よく記事を読む、noteもやってる作家さんの本」だったからだ。noteをやっていることは、本を読むきっかけになることもある。

「ワラグル」とは「笑狂」のこと。お笑いのことしか考えられない、お笑い以外の道では生きられない、生きる気もないという、正気から外れた芸人のことを指す。M-1グランプリをモデルにした「KOM(KING OF MANZAI)」という、年末に行われるお笑いの一大イベントで優勝を目指すお笑いコンビ二組の紆余曲折と、それに関わる放送作家についての作品。

私自身関西人なので、関西におけるお笑い(土曜日の昼は吉本新喜劇、二人集まれば漫才、関西人はボケやツッコミが上手)の空気は熟知している。だから作中の「普段どうせ玉出の売れ残りの値引きもんしか食べてへんやろ」といった台詞が説明抜きで理解出来てしまう。

私はこれまでの人生においてボケしか担当してこなかったが、素晴らしいツッコミ役に恵まれてきたと思う。ボケてボケてボケ続けるだけでいいと思っていた頃もあった。歳を取るにつれ、ボケ続けるだけの人間ではなく、的確なツッコミをこなせる語彙力、空気読み力、などを必要とされるツッコミの重要性が分かってきた。時は既に遅かった。

お笑い芸人が切磋琢磨して漫才グランプリナンバーワンを目指す物語、と思って読んでいると、放送作家も絡んできた。作者の浜口倫太郎さんは元放送作家であり、自身の作家生活の集大成とも呼べる作品であると語っている。noteの記事で制作舞台裏なども読めるので参考に。

いつ頃何の記事をきっかけに浜口倫太郎さんをフォローしたのかは覚えていないけれど、記事の蓄積があって、著作自体に興味を持つようになっていく。こういったプラス効果がnoteにしろSNSにしろあると思う。本は無限に近いくらいに出版されていくけれども、一人の人間が読める冊数は有限だから。並の本好きで年間100冊程度、熱心な読書家で300~500冊として、書籍の年間発行数は70,000点近く。年間500冊読む人でも0.7%しか触れられない。というかその年に出版される本ばかり読むわけではないから、パーセンテージは更に大幅に下振れしていく。出版=読まれる、というわけではない。出版社が広告費に金をかけて大規模な宣伝をしても、読まれる機会をどれほど上げられるか。

そういったことを考えれば、作家が無料で読める記事を常時発信し続ける、というのは、どのような広告よりも効果的だと思う。私はnoteで著者の記事に触れていなければ、名前も知らず、本を手に取ることもなかったと思うからだ。

当初私はKOMのチャンピオンを、出版業界に置き換えるならば芥川賞かな、と思いながら読んでいた。自分たちの漫才の方向性に思い悩む芸人たちの姿を、自分の作風や文体に悩む作家志望者になぞらえて読んでいた。近頃、こういう読み方をすることが増えてきた。伊東潤「武田氏滅亡」を出版業界になぞらえながら読んだりした。ただ大体そういうことを忘れて内容に夢中になりがち。

年を重ねて生き残っている芸人は僅かだ、という話がある。

「二十代の芸人はそれこそ星の数ほどいる。KOMの参加者が五千組だから。まあ若手芸人の数をざっと一万としようか。でもそれが五十代で活躍している芸人になると、両手の数ほどになってしまう」

「そこそこ面白い、若手の有望株だ、KOMで準決勝に進出した。そんな程度じゃ到底そこまで生き残れない。KOMチャンピオンですら、その位置に登りつめるのは難しいかもしれない。何せチャンピオンといっても、年に一組も誕生するんだからね。チャンピオンでもその席に座れないんだよ」

毎年新人賞で新しい作家は生まれ続ける。芥川賞作家ですら年間で最大四人誕生する。全員が生き残っていけるわけがない。生き残っているという定義は何かにもよるが、デビューしたからといって本を出し続けられるわけでもないし、読者を獲得し続けられるわけでもない。

KOM一回戦に出場する素人たちの様子には、書き始めて間もない創作者たちの姿を見るようだった。

 まず素人はネタうんぬん以前に、声が聞き取れない。腹から声が出ていないので、客にまで届かないのだ。
 舞台上の二人は青ざめ、傍から見ても足が震えている。目の縁には涙がたまっている始末だ。客席に笑いは一切ない。それどころか同情の目を注いでいる。演者の焦燥は客に伝染する。嘔吐するほど緊張していても、舞台では一切それを見せてはならない。それが芸人だ。

またこんな場面では、丸ごと「漫才」を「小説」に「芸人」を「作家」に置き換えて読むことが出来た。

 漫才という家は入り口は入りやすく、誰でも気軽に中に入れる。文吾のような一般客はその部屋で楽しむことができる。
 だがその部屋の奥にはもう一つ別の扉がある。そこをそろそろと開けると、果てしなく広い森が広がっている。芸人や梓達はこの森の住人なのだ。
 鬱蒼としていて、猛獣や蛭が襲いかかる危険な密林だ。ぬかるんだ地面に足をとられ、死の恐怖に怯えながら道なき道を進む。それはワラグルにしかできない。

何を書くにしろ、それほどの覚悟をもって書いているだろうか。
ただなんとなくキーを打ち、「こんな感じでいいだろ」で終わらせてないだろうか。
作中で「ニン」という概念に触れられている。その人にしかない、個性を生かした芸風。時流に乗った今風の流行り物を、自身の「ニン」と合っていないのに演じたところで、客には届かない。お笑いに限らない。小説であれ、絵であれ、映像であれ、仕事であれ、恋愛であれ、人生であれ。何より「ニン」から外れたことをすれば自身に無理な負担がかかる。

お笑い芸人や放送作家の話とも読めるし、上記のように自身の関わっている世界に置き換えても読める。お笑い好き、M-1グランプリ好き、放送作家を目指している人、などにもお勧め。しかし上記のように膨大な書籍出版点数の中では、時間と共に埋もれていってしまう。私が本の感想を書き続けているのも、少しでも良書が人の目に触れてほしいと思うからでもある。合わせて浜口倫太郎さんのnoteもどうぞ。


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