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天野純希「燕雀の夢」戦国大名の父親たちの物語

戦国時代の大物大名たち、の父親たちの物語。

「下刻の鬼-長尾為景」上杉謙信の父
「虎は死すとも-武田信虎」武田信玄の父
「決別の川-伊達輝宗」伊達政宗の父
「楽土の曙光-松平広忠」徳川家康の父
「黎明の覇王-織田信秀」織田信長の父
「燕雀の夢-木下弥右衛門」豊臣秀吉の父


実の息子に追放された武田信虎の話は何となく知ってはいたが、その後信玄よりも長く生きたことまでは知らなかった。他のどの父親も志半ばだったり、息子のために死んでいったりするなど、悲壮感があるのに、信虎の話だけはコメディタッチで書かれている。それでいながら、最後の最後には孫にいい所見せようとしたり、笑いながら読んでいて急に涙ぐんでしまった。

ラストに置かれた木下弥右衛門の話を読んでいる最中、横で息子がおやつを食べながら、「パパにあげる」といってポテチを差し出す→あげると見せかけて手を戻す、を繰り返していたのだが、そんなことは気にならないくらいに感動してしまった。

他の父親たちが元々名のある人物であるから、史料は豊富に残されている。その点木下弥右衛門については、出自も怪しく、秀吉自身が存在を抹消しようとしていた節もあるため、フィクションの要素が強くなっている。いかようにも調理が出来る食材というわけだ。

他の話を読んでいるうちに、戦国時代のからくりもうっすらと見えてくる。
代々続く争いの歴史に触れるうちに浮かんできた疑問がある。

・どうしてこんなに戦い続けるのか?
・どうして今ある領土で満足出来ないのか?

戦が起これば人は死ぬ。民は疲弊する。田畑は焼き払われる。
なぜ全国の守護大名及びその臣下たちは、他国と争い、領土を広げたがったのか。
それはきっと

・現状維持では経済が回らなくなるから
・だって他国が攻めてくるから

なのだろう。
「南海の翼-長宗我部元親正伝」では、元親は土佐を平定したものの、それだけでは家臣たちに与える恩賞が回らなくなった。そこに至るまでのあれこれもあり、土佐以外の四国の土地を手に入れていく。戦続きで疲弊した四国の地ではやはり経済が回らなくなり、本州への侵攻も考えざるを得なくなっていく。
元親の夢は破れるわけだが、逆に破れずに朝鮮出兵をした秀吉の顛末は周知の通りである。
天下統一を果たした。それでは戦は終わりにしましょう。では、食っていけなくなったのではないか。

うまい具合に話が秀吉に繋がった。
木下弥右衛門は、足軽ながら手柄を立て、出世していく。だがある時の戦闘で足に深手を負い、その後は家族に養われながら隠居して過ごす。そこに、自身がかつて描いた夢の遥か先のところまで行った息子秀吉が現れ、馬上から冷たい視線を弥右衛門に送る。
あまり書きすぎるとネタバレになってしまうのでこの辺りで止める。

それまでの話は、戦場で兵士を指揮する側の人物が書かれていた。
だが「燕雀の夢」では、戦場の末端で真っ先に殺し殺されする人たちのことが書かれている。視点の変換があり、当時の人たちが、戦場が、身近に感じられる。

読書生活を再開した折に、「同じ作家の本は続けて読まない」という自分ルールを設定した。あっという間にそれは破られたが、今回のように同一作者三連続、というのは初めてだ(青空文庫で読める作家の短編などを除く)。

面白いのは当然だが、作者本人がTwitterで反応してくれるのも嬉しい。

昔、読んだ本の感想をブログで書いていたことがある。
だがある時、読んだ本の内容をほとんど覚えていないことに気が付いた。
アウトプットした瞬間に、自分とその本との関係は終わりを告げたかのように、忘れてしまうのだ。
何だかもったいなくなり、やめてしまった。

今は、別の意味でこのような文章を書き、読書メーターもつけている。
作者本人またはその遺族、出版社に、「この本は読まれてますよ」というメッセージのつもりで記録し、書いていく。
自分の書いた文章がきっかけで、その本を読んでくれる人がいるかもしれない。一冊の売り上げになるかもしれない。作者のモチベーションを上げる材料になるかもしれない。次の名作が生まれる種になるかもしれない。

この辺りは稿を改めて書いた方が良さそうだ。

もちろん他の話も良いのだけれど、それらを読んだ上でたどり着く、木下弥右衛門の物語、傑作である。

そういえば、自分も父親だ。
「ああ、私も父なのだ」なんて感慨に耽る瞬間なんてあまりないけれど。



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