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気が利かない、おっとこ飯

そもそも、その日はお粥を炊いておけばよかったのです。私は料理人だから、冷蔵庫にあるもので適当に作っておくよ、という自惚れがいけませんでした。料理は愛情と言いますが、そのとおりです。誰が、いつ、どんな気持ちでそのご飯を食べるのか。それを想像することは料理の技術よりも大切です。それができていない、ひとりよがりの料理は、たいがい人に食べてもらうこともできずに、自分のもとに戻ってきてしまう運命なのです。

その日は妻が親知らずを抜く日でした。

妻と私は同じ歯医者さんに通っていて、私もその歯医者さんで親知らずを抜いてもらったことがあります。私の場合は上の歯で、しかも、わりとまっすぐはえていたので、麻酔の注射はチクリと痛かったですが、施術じたいはあっという間でした。一応、痛み止めも処方されて飲んだのですが、痛みが訪れることもなく、20分程で出血も止まり、びくびくしていた自分がばからしいと思った程でした。

そんな話をしていたこともあってか、妻は多少の緊張はありつつも、まあ大丈夫でしょうと安心している様子でした。正確に言えば、大丈夫だと自分に言い聞かせて、安心しようとしているといった方があっているかもしれません。やはり、歯を抜くのですから、いつものような明るさはなく、どことなく少し落ち込んでいるように見えました。もともと背の低い妻が、その日はいつもよりもさらに小さく見えました。

「自分でご飯を作れる自信がないから、お昼ご飯を作っておいてくれる?」と言い残し、うつむきながら歯医者に向かう妻が歩いたあとは、もののけ姫に出てくる「ししがみ様」が歩いたあとのように、どんよりとした空気がそのままそこに漂っているようにみえました。

そんな妻とは対照的に、私は意気揚々としています。普段は家の中に虫がでた時と、高いところにある物を取るとき以外で、私を頼ることなんてない妻が、めずらしく私を頼ってきたからです。そんなことはいくら過去を振り返ってみても思い当たるふしがありません。だから今日くらいは落ち込んでいる妻の為に、ここは一肌脱ごうではありませんか。これは料理人としてではなく、夫としての腕の見せ所なのです。そう意気込んで、私は冷蔵庫の扉を開けて中を覗き込みます。

冷蔵庫の中には、昨日娘が食べ残したふりかけご飯や、いつかのホットケーキが入っています。その他には、3パックでワンセットになっているお豆腐や、バタベラが差し込まれたままのバターのパックが雑然と入っていました。その中から私は一つずつ食材を手に取り、賞味期限をチェックしていきます。そして、封が開いた5枚入りのハムの残りと、ラップに包まれた冷や飯と、透明なプラスチックのパックに入った信州長野県産のキムチを取り出します。それと、扉の内側の上段から卵を2つと、野菜室から生姜と長ネギを取り出しました。

料理人の悪い癖です。いつも厨房で賄いを作る時のように、冷蔵庫の中に残っている材料で、パパッと美味しいものを作らないといけないと思ってしまう思考回路。今思えば、私はこの時点ですでに、親知らずを抜いた後の妻の気持ちに寄り添う事を忘れ、美味しいものを作らないといけないという、自分の料理人としてのプライドに寄り添ってしまっていました。

さっそくフライパンにごま油を引き、みじん切りにした生姜を炒めます。生姜のいい香りが漂い始めたら、そこにハムと長ネギを入れて炒めます。更に刻んだキムチを投入すると、なんとも言えない食欲を刺激する香ばしい香りがしてきます。フライパンの中身を一旦お皿に移し、溶き卵と、レンジで温めなおした冷や飯をフライパンに入れ、炒めていきます。卵でご飯全体をコーティングするイメージで強火で炒めていきます。ご飯が炒まりパラパラになってきたら、先程の具材を戻し入れ、塩胡椒と、フライパンの鍋肌にちょっとだけ醤油を垂らし、焦がし醤油の香りをつけたら完成です。

一口味見をしてみると、生姜の爽やかな辛味と、キムチの程よい酸味が後を引きます。たまらずもう一口余分に味見をしてからお皿に盛り付けます。あら熱をとってる間に洗い物を終わらせて、軽くラップをかけ、私は仕事に出かけました。

今日は朝から妻の為に腕を振るったし、なんだかよいことをしたなと、私は足取り軽く出勤しました。ディナータイムの準備と仕込みをしていると、抜歯を終えて、家に帰った妻からラインが届きました。「やばい、血が止まらない。今は、麻酔が効いているが、これから痛むらしい」。そして、「辛いものと、酸っぱいものは食べないように言われた」とのことでした。それと、「歯に詰まりやすいものは避けるように」とも。

「辛くて、酸っぱくて、歯に詰まりやすい食べ物」を想像したとき、真っ先に頭に浮かんだのは、私が今朝、妻のために作っておいたごはんでした。

「ああ、やってしまった。」私はなんて気が利かないんだろう。とりあえず妻に謝ろう。「ごめん、食べられないよね。」とラインで送信しました。

するとしばらくして「今からお粥炊きます。」と返信がありました。


仕事を終えて家に帰ると、頬を腫らした妻が不貞腐れた様子でリビングのソファに座り、ノートパソコンで韓国ドラマを見るともなく眺めています。「ただいま」と言ってみたものの返事はなくて、「おかえり」を言う代わりに、チラッと一瞬目を合わせたと思ったら、またパソコンの画面に戻っていきました。言葉を発したくないくらいの歯の痛みと、頭痛で何も食べられていないようです。妻の周りには、朝と同じようにどんよりとした空気が漂っていました。決して悪気はないのですが、あまりの打ちひしがれた様子に、私はついつい笑ってしまいました。

妻は怒りをあらわにするほどの元気もなく、呆れたといった様子で、「気の利かない男」とだけ一言吐き捨てて寝室に去って行きました。

私は冷蔵庫の中から手付かずで残っているキムチチャーハンを取り出し、電子レンジで温め直します。そして、グラスに注いだ缶ビールを一口飲み、スプーンでチャーハンを口に運びます。

「うまっ!」

それはまさに、自分好みの味付けになっていたのでした。



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