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盾・剣・薬・毒・夏

さて、なにから書き始めればいいのでしょうか。今は初夏。強くなり始めた日射しが、あらゆるものを彩度高く染め上げています。風は花の香りを含み、海は鼓動のように浪を高く打ったのです。


ことば、というものについて考えます。ことばは自身や自身の大切な人を守るための盾として用いられることもある一方、自身や他者を傷つけるためのナイフとして用いられることもある。とはよく言ったものですが、さて、詩の言葉とはどちらに属するでしょうか。


まあ、どちらもでしょう。盾や、薬草として用いることもあれば、剣や、毒草として用いることもあるでしょう。攻撃性を持つ言葉が悪い、とは言えないと思います。おだやかな言葉で話すことを強要されるとき、ひとは尊厳を損なわれます。一方、武器だけを振りかざすひとは、見ていてどこか危なっかしい、ばかりでなく、実際に危うい。


詩とは、よく切れるナイフを持って果実や野菜や鮮魚を切って、効能のある薬草で味付けをし、おいしく味付けをして、差し出す。そういう行為を含んでいると思います。もちろん、それだけではないと思いますけどね。滅びかけの心を守るためには、溢れんばかりの薬草の蜜をじゃぶじゃぶと心にそそぐこともあるでしょうし、尊厳が損なわれそうなときには、ナイフの輝きをちらと見せることもあるでしょう。


そのバランスを、どう取るか、それが詩人の個性となり、技量となるのでしょうか。それは誰に、何を差し出したいのか、ということにもつながっているのだと思います。ひとつ、さっぱりと切れ味の良い一編を、ご紹介させてください。


満員電車のなかで
したたか足を踏まれたら
大いに叫ぼう あんぽんたん!
いったいぜんたい人の足を何だと思ってるの


生きてゆくぎりぎりの線を侵されたら
言葉を発射させるのだ
ラッセル姉御の二挺拳銃のように
百発百中の小気味よさで


    茨木のり子『おんなのことば』『おんなのことば』童話屋一九九四年より一部引用


いきてゆくぎりぎりの線を侵されたら、言葉を発射させる。ラッセル姉御の二挺拳銃のように、百発百中の小気味よさで。ああ、人間が生きることにおいて「いきてゆくぎりぎりの線」を侵されることが、幾度あるでしょうか、浪が打っても、花が香っても、凄惨な暴力は数知れず人を襲うでしょう。その時に、適切なことばを、小気味よく発射できればいいのに、と思わざるを得ません。「あんぽんたん!」という一語のために、私は幾度足を踏まれなければならないのでしょうね。


とにかく、最後の線を侵されたとき、抵抗の言葉を持たないというのはとても苦しいことです。私の過去もそのようなものでありました。今は方々で齟齬ばかり起こしてしまう日々で、そちらの方で反省が絶えないのですが。まあ、一方的にぶん殴られていた日々よりマシです。


そうなのです、言葉とは時に盾であり、剣なのでしょう。時に薬草であり、毒草なのでしょう。剣や毒草などとしての言葉は頻用すれば自らを損ないますが、抵抗の言葉は失われたくない、とも思っています。


私が詩を書いている理由の一側面も、そんなところにあるのかもしれません。


夏になりますね。お読みいただいている皆さんも、どうか最高の夏となりますように。熱中症などにはお気をつけて。波も花も高らかに発する季節です。私も楽しんでいきたいです。


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