機会を与えてくれるのは家族だと気づいた
どうも、遠藤(@ryosuke_endo)です。
唐突ですが、ぼくは正直、ても人に誇れるような人間ではありません。
仕事が抜群にできるわけでも、突出した学歴や成績があるわけでも、優れた人格者というわけでもない。
精神的に屈服、というか屈折してしまった時期もあります。
しかし、それがなんだったのか、というよりも、それを今後の人生にどう活かしていくかの方が大切なことなんだと教えてくれたのは家族です。
そして、家族の存在自体がぼくにとって、かけがえのない『機会を与えてくれる存在』であるということに誇りを持てていることの方が重要なんだ、ということに気づけました。
人はいつでも、どこまでいっても、孤独な存在なんだと思います。
それは限りなく、ぼくの中では間違いのない、疑いようのないことであり、揺らぐことはありません。
ぼくはぼくという個別に存在し、生きている存在です。
これは、以前のエントリにも書いてありますが、家族とはいえ、他人だという考えに基づきます。
血の繋がりがあろうがなかろうが、家族という個別の集団だとしても、個々は個々であることに違いはない。
ぼくのパートナーである妻も、ぼくの遺伝子を継ぐ子どもも、生活を共にしていますが、それぞれに孤独であることも、よく考えれば間違いないんです。
けど、その孤独を孤独だと認識することが必要で、認識したところから、その孤独を埋めることが可能になるんだとわかります。
生活を共にすることを選択し、それを守ろうとする意識は儚く、脆くもあるけども、強固なものであると実感することができ、家族であるということを認識し、孤独という空白を埋めることができることにもつながります。
『家族なんだから』
この一言は、呪縛であり、呪いだ。それはぼくにとって、錨(イカリ)であり、錘(おもり)でしかないと感じたことも過去には確かにありました。
ぼくの自己満足を達成するためには、そも錘を解かなければならないのではないか、なんて真剣に考えたこともありましたが、今ではなんと愚かなことを考えたのだろう、と思います。
ぼくと両親と弟との人生から始まり、ぼくの人生になり、ぼくと妻の人生になり、ぼくと妻と子どもの人生になり、そこに子どもが増え、さらに増える予定。
特に子どもがうまれ、増える中で感じているのは、家族の中での話題や赴く方向、全てにおいて妻と2人の頃よりも幅が増えていること。
そして、そこに生きる中で、ぼく自身のあり方についても、よくよく考えることになっています。
別にカッコつけたい訳ではないですが、1人の養育者でありながらも、彼らと最初に生活を共にする友人として、きちんと向き合って行けるようになりたいと強く思います。
そんな環境であれば『家族なんだから』という言葉も悪いものではないです。
家族がいるからこそ、ぼくは「こうでありたい」「こうなりたい」という選択肢を抱くことができており、これは一人のときに抱いていた夢や希望、理想や願望よりも、遥かに心地がよいと感じます。
また、それが叶った際に喜んでくれる対象が増えていること、そのことにぼくはすごく喜びとうれしさを感じています。
一人のときにしたいと思っていたことよりも、ぼくが何かをできるようになったとき、家族に対して提供できることが増えるようになるということを意味します。
それはぼくにとって、もっとも大きなやりがいになっているわけです。
それは、家族とともに時間を過ごすことができているから。だからこそ、機会を与えてくれているのが家族という存在なんだ、ということを実感するに至ってます。
正直、結婚だとか、養子縁組だとか、そんな形式的な書類ですんでしまう関係性のことではなく、もっと奥底にある感情と感情とが奏でる機会の提供というのは、よいものです。
おそらく、これを実感している方は多くいるとは思います。
誤解を恐れずに書けば、上で書いたような書類ですんでしまうことに囚われる必要はまったくないんですよね。
もちろん、制度上、事実婚や、その間に生まれた子どもには日本の社会制度上、不利な状況であることは否めません。
しかし、他人と共同で生活をし、その人に対して提供できることが増える機会をもらえるという状況を作れるのであれば、それはひとつの幸せなんだと思います。
ぼくは制度に乗った上で、その幸福感を享受できていることをうれしく思いますし、それを抱かせてくれている家族たちにも感謝したいと思います。
本当にありがとう。
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