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赤の他人なのに深手を負ってしまう誹謗中傷っていう呪いに対抗する個人的な処方箋

悪口が嫌いだった学生(生徒)時代

学校に通っていた頃、悪口が嫌いだった。「悪口言うなら直接言ってこいや!不誠実か!」って思っていた。

今思うと悪口を言っている状態の人に対して、誠実さを求める自分が間違っていたと思う。

たいてい悪口や愚痴っていうのはガス抜きか暇つぶしだ。

「少し嫌な気分になったけど、改善を本人に求めるほど深刻じゃない話」をただ誰かに言いたいとか、
誰かをマウントしてとりあえず気持ちよくなりたいとか、
話すネタがないからとりあえず手頃なネタだから話したい、とかとか。

うん、ずいぶん人間らしい、呼吸をするような、さりげないことだ。

悪口は「お笑い芸人の下ネタ」みたいなもん

つまり悪口って「お笑い芸人がの下ネタ」みたいなもんなんですよ。

お笑い芸人の下ネタって、言っちゃえば「ネタ切れ」か「はしやすめ」にぶっこむ、アイデンティティも哲学もないもので、そこに確固たる信念はないわけで。
(真剣に下ネタやっている方はまた別です。ごめんなさい。)

言いたいのはどうでもいいボールを投げつけられてるだけってこと。

他人の一言で世界から否定された感じになるような。

なんだけど、だけれどだけれど、なんなんだろうね。悪口とか中傷とかディスってなんであんなに痛いんだろね?本質じゃないこと言われてもなんか痛いよね。

仮に架空の人物設定でネットをやったとして、それをディスられたとしても痛い気がするもん。

自分が「超信頼している10人」に褒められたことを、「赤の他人1人」に否定されただけで「プラス マイナス マイナス」くらいになっちゃいそうなあの破壊力なんなんだろね。

”食ったことないラーメン”を「不味い」って言うのと同レベル

これに苦しんでいる人が今も世界のどこかきっといて、それを思うと悲しい。悲しくてこの記事を書いた。

だって「食ったことないラーメンを不味いって言っているのと同レベル」みたいなもんなのに、悲しくて、すごくむなしいなーって思う。

だけれどなんだか傷ついちゃのが1ミリでも思い当たる節があるからなのかなあ。たったひとりにディスられただけで世界からディスられた感覚。そもそも自分を明確化することなんてできなくて、世界に明確な白も黒もなくて、完璧じゃなくてあたりまえなんだけど、尻尾を切られるのが痛くて仕方なくてね。

こんなに痛がるのは、苦しいしもったいないなって思うから、そんなときに頼りになる処方箋のようなマインドセットを提案できたらいいなあって思う。

誰の評価で自信を築くか

自分が築く自信を「誰からの評価をもとにつくるか」は選択ができる。

自分が信頼できない人からの評価で、自信を失うのはもったいない気がする。自分が信頼できる人の評価を信じて、自分っていう人間の評価や自信を決めた方が幸せだし、多分その方が正確な自分について知れる気がする。

生きているとノイズのように色んな言葉が入ってくる。そして、時には自分を見失ったり、時には勘違いしちゃったりする。

だけど、自分が受け取る言葉、受け取らない言葉は選ぶことができるはず。SNS時代だからこそ、「自分が自信をもって信頼できる人からの自分への言葉」を信じた方が、「きっといい状態の自分でいれるはず」って思うんだ。

一方で忘れないでおきたいこと

一方でどうでもいいノイズだと思っていた一言が、新しい自分を見つけるきっかけになることもある。「ラーメンを完食はしてないけど、もやしだけは食べた」みたいな枝葉の意見が、思いもよらない発見につながることがある。

完全に自分がきもちいいだけのクリーンな世界をつくりあげちゃうと、井の中の蛙になって、自分に酔っちゃって、将来は対話ができない痛い老害になっちゃうかもしれない。

蛇口の水をひねるように、調整しつつ。

だから、極端になると、逆に自分や周りを不幸にしちゃうってことは前提においた上で、
自分が苦しくなりすぎないように、幸せに生きれるように、例えるなら「蛇口の水をひねるように」自分が全身で受け取る否定や中傷の量や濃度を調整していければ、より心豊かに生きられるって思うんだ。

簡単なようでむずかしいけど、僕自身が、読んでくれた人が、「遠い誰かからの言葉で傷ついたとき」に少しでも「自分を助ける処方箋」になればいいな、と思って書きました。

長くなりましたが、ここまで読んでくれてありがとうございました。

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