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手で書くことの喜びを再確認

朝起きたら朝日を浴びる習慣をつけようと、湯呑に和紅茶を入れ、家の駐車場と道路を隔てる柵に腰をかけながら朝日を浴びた。しかし、人目につく交差点が目の前にあり、歩行者や車に乗る人々からの視線が気になってものの3分程度で家の中へ戻った。家のベランダだと、隣の家にさえぎられて朝日が入ってこないため、仕方なく駐車場に出たが、もっとゆっくり人の目につかなず日の光を浴びられる場所が欲しい。

1人暮らしと比べて、実家暮らしは他者の雑音が耳に入る。その時に不快感を感じる時が多いが、それはおそらくその人に何らかの嫌悪感を抱いている証拠であるが、同居している以上はどうにかしてこの問題に対処せねばならないと思っている。

朝日の話に戻るが、朝の散歩はいいのかもしれない。今日もいいかもしれないと思いながら紙にボールペンでそのことを吐き出しているうちに、執筆の方が楽しくなってしまい、この記事を書くに至っている。

自分の行動は「流動性」が決めていると思う。t=n+1の自分の行動は、t=nからの滑らかな移行のしやすいさにより決まっている。今日の場合は、朝にサイレントタイム(デジタル機器になるべく触れず、自分を焦らせないでゆったり過ごすこと)を実践してみたのだが、得るものが大きかった。

まず、デジタル機器に限らず情報のインプットなしで執筆にとりかかると、思いのほか捗るということが分かった。捗るというのは、自分のオリジナルな思考がどんどん進んでいくという意味で言っている。たぶん、何か先に情報を入れてしまうと、その情報を基礎にして自分の執筆スタイルや思考を方向付けられてしまうのだろう。

それから、無地の用紙に縦書きでつらつらと文章を書いていくことが自分は好きだということが分かった。紙に書くという「手触り」が自分にとって大事で、さらに縦書きの方が時間の流れを感じやすく、どんどん思考も前に進む感覚がある。

効率性を考慮しても、手でペンを動かして書いていくという過程を省きたくはない。でも手書きだけというのはそれはそれで現代の便利ツールを全く使わないのも何かしっくりこない。だから、下書きは手書きにして、清書はタイピングしていくという二段階の工程を踏むことがいいんじゃないかと今日実体験を通して感じた。

その他の気づきとして、今までは他者に見せると考えたときに、その完全性を気にしすぎて書くことそれ自体の敷居を自分で高くしていた。

でも、書くことが好きなのであれば他者に見せずに書けばいい。書くことは楽しい。書くことは個人的な快楽を得る手段にしていい。そこに手段や文体の制約は気にしなくていいし、配慮もいらない。

手書きはあくまで個人的な快楽を得るために何の制約もなく自由に書き、それを公開する場合はnoteなどデジタル媒体に清書することで文体や論理性などを整える。別に公開しなくてもいい。でも書くという体験の喜びは感じたいから手書きの執筆活動はなるべく続けたい。



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