片岡大右物語(4)進撃の亜インテリ
「レターパックで現金送れ」はすべて詐欺です。
これまでの記事で、読者にも片岡大右のイカサマ、ペテンの手口がだいぶわかってきただろう。
自分に都合のいい話をネットや社会学の文献から拾ってきて、小山田圭吾に無批判に結びつけ、「どうです、似てるでしょう」と大見得を切るのだ。
「自分はだまされない」と思っている人ほど詐欺に引っかかりやすいように、「自分はインテリだ」と思っている人ほど、この手の学者のヨタ話にコロっとだまされるのだ。
「小山田圭吾はいじめを見ていただけだし、被害者は誰も自殺してないから責任ないよ」
こんなふうに小山田圭吾を擁護する人が現れたら、あなたはどう思うだろうか。
しかもそれを主張しているのが東京大学の非常勤講師で、岩波書店がそんな論文を堂々と掲載してるのだとしたら。
じつはこれこそ、片岡大右が自信作だと自画自賛する連載第4回目「『いじめ問題』への囚われのなかで」の要旨なのである。
小山田圭吾と「大津市中学生自殺事件」は何の関係もない
片岡大右がエクストリーム擁護のために今回拾ってきた文献は、北澤毅・間山広朗編『囚われのいじめ問題――未完の大津市中学生自殺事件』(岩波書店、2021年)である。おおかた岩波書店の担当編集者から、「片岡先生、ちょうどいい本がうちから出てますよ、ぜひ、これ使ってください」とでも教えられたのだろう。
芸能人気取りでステマでもやってんのかね。
この本は副題に「未完の大津市中学生自殺事件」とあるように、小山田圭吾とは何の関係もないし、この本の編著者らが小山田圭吾について何か調査研究したわけでもない。
しかも、同書で扱う「大津市事件」は他のいじめ事件とも「決定的に異なる」特殊な事例であることを、編著者みずから断っている。
この共同研究のもとになった北澤毅『「いじめ自殺」の社会学』(世界思想社、2015年)によれば、「いじめ自殺」が大きな社会問題となったことはこれまでに何度かある。なかでも、一九八六年の鹿川裕史君事件、一九九四年の大河内清輝君事件、二〇〇六年の北海道滝川市事件、そして二〇一二年の大津市事件。
ここで注意してほしいのが、北澤毅の研究対象は「いじめ」問題ではなく、いじめ苦が動機で自殺した「いじめ自殺」事件だということである。
そのなかでも、「大津市事件」は被害者が遺書を残さずに自殺したため、「いじめ」と「自殺」との因果関係がわからないという、さらに特殊な事例なのである。
こうした重要な前提を、片岡大右は明示していない。
北澤毅が『「いじめ自殺」の社会学』で書いていることを引用しよう。
つまり、北澤毅は「いじめ自殺」問題の研究者であり、被害者が自殺した「大津市事件」を共同研究した『囚われのいじめ問題』もまた「いじめ自殺」についての研究書なのである。しかも遺書のない自殺というケースである。
片岡大右は、こんなものを小山田圭吾の事案と結びつけるのだ。
殺人まで犯したカラヴァッジョと小山田圭吾を並べたかと思えば、今度は「いじめ自殺」の研究書である。もう、なんでもありのメチャクチャである。
こじつけもここまで度が過ぎれば、逆に立派である。
遅れてきたカルスタ
片岡大右が参考文献とした『囚われのいじめ問題――未完の大津市中学生自殺事件』(岩波書店)そのものの問題点について解説しよう。
この共同研究者らの立場は、社会構築主義と呼ばれるものである。一般常識に照らせば、たいていの事象や現象は客観的・物理的に存在していると考えられている。しかし社会構築主義はこの見方を逆転させ、それらは人々の認識によって社会的に構築されているものだとみなす。
北澤毅『「いじめ自殺」の社会学』の次のような記述が、この立場を端的に表している。
「マスメディアは『事実』を報道しているのではなく、報道することで『事実』を作り出している」(P96)
「私たちは実態に即して定義をしているわけではなく、定義をすることで実態(=事実)を作り出しているのだ」(P129)
現代思想になじみがない読者からすると、常識を否定されるなかなかに刺激的な考えだろうが、カルチュラル・スタディーズ(カルスタ)などの文化相対主義に覚えがある者からすれば、「いまさらカルスタかよ」とあきれてしまうのではあるまいか。こうした文化相対主義は一時流行したが、ソーカル事件をきっかけに様々な批判にさらされ、今ではすっかり廃れてしまった。
それはともかく、北澤毅が社会構築主義の立場で何を目指しているのかというと、「いじめを動機とした自殺」をなくすことである。
いじめを苦に自殺するということが現在では疑いなく受け入れられているが、これは1980年代以降にマスコミによって作られた事象である。いじめが自殺と結びつくのは、「酸素がなくなれば蝋燭の火が消える」といった物理的な因果関係とはちがう。いじめられた生徒は、「いじめは死に値するほどの苦しみだ」という言説によって、自殺へと導かれているのだ。
したがって、この「いじめ言説」をなくせば、「いじめ自殺」はなくなる。
要約すればこんな感じだが、これを刺激的な議論だと思う人もいれば、トンデモ本だと思う人もいよう。
それはさておき、小山田圭吾とは何の関係もないよね。
正確を期すために、結論部分を引用しておこう。
いじめは傍観者も悪い
たいていの現象は人々の認識によって社会的に構築されたものであるという立場である「社会構築主義」の弱点は、その主張もまた社会的に構築されたものに過ぎないではないかというパラドックスを招いてしまう点である。
つまり、どの言説もしょせん「仮説」に過ぎないのであり、相対主義の立場からは、支配的な言説をひっくり返すことはできても、自らの言説の正しさを立証することはできない。客観的・物理的な正しさを否定しているがゆえに、何が正しいかということは決定不能なのである。
片岡大右が引用しているように、北澤毅・間山広朗編『囚われのいじめ問題』では、1986年のいわゆる「葬式ごっこ」事件を再検討した結果、これは「いじめの四層構造論」に当てはまらないケースであったという。だが、いじめはあった。同級生にも教師にも見えないところで、被害少年には上級生から身体的な暴力が繰り返されていた。したがって、「葬式ごっこ」が自殺の中心的な原因ではなく、おそらくこの暴力的ないじめが原因だろうということである。
そこで片岡大右は、「いじめは傍観者も悪い」という俗説を広めた「いじめの四層構造論」は無効なんだから、傍観者だった小山田圭吾にも罪はないよね、といったアクロバットな擁護を展開するのである。それとこれとはちがう。
自殺の中心的な原因にはならなかったかもしれないが、「葬式ごっこ」をやった者にも傍観者にもやはり何らかの責任はある。あたりまではないか。
北澤毅らの共同研究は「いじめ自殺」を対象としているため、そこを掘り下げることはしていないが、被害者がそれを理由に自殺していないからといって、いじめが許されるわけではない。
いじめ苦を動機とした自殺は戦前からある
『広辞苑』(岩波書店)には、初版から1983年の第三版に至るまで「いじめ」という言葉がなく、これが立項されるのは、1991年の『広辞苑』第四版からである。
片岡大右はこのように述べて、あたかもそれ以前にはいじめがなかったかのように読者をミスリードしている。こんなヨタ話を信じる馬鹿もいないと思うが、ネタ元の北澤毅『「いじめ問題」の社会学』も似たようなことを述べているので、はっきりと否定しておこう。
かつて「いじめ」という言葉はもっと広い概念をカバーしていて、その中には現代であれば、「ドメスティック・バイオレンス(DV)」や「児童虐待」と理解される事件も含まれていた。だが、「DV」「児童虐待」といった新しい概念の登場によって分化していき、それにともない「いじめ」という名詞がそれ単独で独特の意味を帯びるようになった。特に、1980年代初頭の校内暴力からいじめへと社会問題化される中で、「いじめ言説」が形成されてきたのではないか、と北澤毅は同書で推測している。
ここまでは妥当だと思えるが、1980年代に相次いで起きたいじめ自殺事件が社会問題とされることで、「いじめは死に値するほどの苦しみを生み出し、自殺の原因になり得る」といういじめ認識が成立した社会になった(P123)、というのはどうだろうか。
いじめられている生徒は、こうした「いじめ言説」のせいで、自分の置かれている状況は死に値するほどの苦しみなのだとかえって意識させられ、自殺へと誘導される。したがって、「いじめ苦」と「自死」とを切り離すことが、「いじめ自殺」をなくす手段であると北澤毅は考えるのである。
だが、管賀江留郎『戦前の少年犯罪』(築地書館)は、一章を割いて「戦前はいじめの時代」だと論証している。その元となった「少年犯罪データベース」にも、「いじめ事件」というカテゴリーで多くのいじめ自殺の存在が報じられている。
つまり、1980年代以降に構築された「いじめ言説」がなくても、いじめを苦に自殺した人は戦前にも大勢いたのだ。したがって、北澤毅のいう「いじめ言説」がなくなれば「いじめを動機とした自殺」がなくなるというのは幻想であり、いじめそのものを苦にして自殺する人は存在し続けるだろう。
被害者が自殺しない「いじめ」は許されるのか
片岡大右が悪質なのは、「いじめ自殺」に焦点を当てることで、被害者が自殺していない小山田圭吾のいじめ問題を軽く見せようとしていることである。
しかもその「いじめ自殺」さえ、教育社会学者・伊藤茂樹の調査や厚生労働省の統計を引用することで、軽い問題だと思わせようとしている。いわく、いじめに起因する自殺は、「子どもの自殺の中ではごく一部の、どちらかと言えば珍しい自殺」である。実際には子どもたちは、いじめよりもはるかに高い頻度で、学業上の問題や、親子関係の問題や恋愛問題のために自殺し続けている。
ではなぜ、先に引用した北澤毅らの共同研究は、「珍しい自殺」であるはずの「いじめ自殺」にこだわるのか。子供たちの自殺をなくしたいというなら、まずは多数を占める学業上の問題や、親子関係の問題や恋愛問題を動機とする自殺をなんとかすべきではないか。それらの自殺には、「いじめ言説」に相当する社会的に構築された「言説」の影響はないのか。「いじめを死に値する苦しみとみなす言説空間」があるなら、「恋愛問題を死に値する苦しみとみなす言説空間」もありはしないか。
元来、いじめそのものを苦に自殺することも、恋愛問題そのものを苦に自殺することも、あたりまえにあるはずである。
つまり、死に値する苦しみ、すなわち自殺の動機は人それぞれである。したがって、何が自殺の動機となるかはわからない、まして遺書のない自殺については、誰もその本当の動機を知ることはできない。
北澤毅らが調査した「大津市中学生自殺事件」はこのような遺書のない自殺のケースであり、裁判では証拠をもとに事実認定がされるため、いじめが動機であると認められないことは当然の結果である。しかし、減額されたとはいえ加害者に賠償命令の判決が出されたということは、最高裁判所の裁判官もいじめがあったことは認定しているのである。ただ、それが自殺の直接の原因になったかは、遺書がないため、わからないとするしかない。
片岡大右が仰々しく「大津市の中学生は『いじめ自殺』をしたのか」などと取り上げるまでもない、妥当ともいえる判決である。片岡大右がこのケースに焦点を当てるのは、あれほどマスコミが「いじめ自殺」だと大騒ぎした「大津市事件」だって、じつはいじめが動機で自殺したわけではなかったんですよ、とあたかも「いじめ」なんて子供同士ではよくあることだという印象を読者に植え付けたいがためである。
こべにがTwitterで書いているように、「沢田くんって小山田の二倍くらいデカいんだよ体がwへこたれないのよ蹴られても」という認識である。
だがしかし、被害者が自殺しなければ、いじめてもよいのか。
「村上清のいじめ紀行」で小山田圭吾は沢田君について次のように語っている。
こうしたことをされても沢田君は、自分がいじめられていると認識できていないのだろう。したがって、「いじめを死に値する苦しみとみなす」こともできなければ、それを動機に自殺することもないであろう。
だからといって、このいじめは許されるのか。
むしろ、性の知識のない幼女や知的障害者に対する性的暴行と同じで、非対称な関係性を利用した、より卑劣で残酷な虐待である。
さらに、複数の加害者が一人の生徒をいじめている場合、加害者と被害者との間には深刻な認識のズレが生じていると、北澤毅は指摘している。
クレイムメーカーが事実を作り出す
片岡大右が悪質なのは、いじめや「いじめ自殺」をなくすために取り組んできた教育学者たちの仕事を都合よく切り貼りし、小山田圭吾のいじめを擁護するために用いている点である。これは教育学者たちの願いや思いを踏みにじる行為であり、自説に都合の良い理論だけをかすめ取るやり方には、地道な調査研究を積み重ねてきた教育学者たちへの敬意すら感じられない。
おそらく、片岡大右のこんな論文に名前を出された教育学者たちは迷惑していることであろう。
たとえば、北澤毅の『「いじめ自殺」の社会学』を取り上げておきながら、その社会構築主義の肝というべき考え方は無視している。これは片岡大右に読解力がないのか、意図的に隠しているのか、ともかくその部分は片岡大右にとって都合が悪いことは確かである。
日本大百科全書の「構築主義」の解説には次のようにある。
なお、英語のclaimとは、「(正しいこととして)主張する」という意味であり、和製英語のクレームみたいに「苦情」や「理不尽な要求」という意味では使われない。
北澤毅の述べるところによれば、1980年代以前には問題とされなかった「いじめ自殺」が、それ以降急に注目されるようになったのは、新聞やテレビによる「いじめ自殺」報道が加熱することにより、社会的に「いじめは死に値する苦しみだ」という「いじめ言説」が構築されたからである。
「いじめ自殺」を問題視したマスコミがクレイム申し立て活動を開始し、市民ばかりか文部科学省大臣までもがクレイムの受け手となることで、「いじめ自殺」の社会問題化が一気に加速していった。
「マスメディアは『事実』を報道しているのではなく、報道することで『事実』を作り出している」という社会構築主義の肝は、こうした因果関係を逆転させた考え方にある。
そこで、こべに軍団がさかんに主張している、キャンセルカルチャーという問題について考察してみよう。
森喜朗会長を辞任に追い込んだクレイム申し立て活動
2021年2月3日、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長(当時)の森喜朗・元内閣総理大臣が、女性蔑視発言を行った、と朝日新聞デジタルが報道した。するとたちまち批判の声が上がり、人権団体や女性団体が森喜朗の辞任を求めての抗議活動を開始する。
そのすさまじい抗議の実態は、「WAN(女性と女性の活動をつなぐポータルサイト)」でまとめられており、まさにこうした団体が「女性蔑視発言問題」のクレイムメーカーの役割を担っていたことがわかる。
「森会長の処遇の検討を求める有志」は、オンライン署名サイト「Change.org」を使って署名活動を行った。
「有志」のメンバーは、田代伶奈(哲学教師 / 株式会社FRAGEN 代表)、永井玲衣(哲学研究者 / D2021)、辻愛沙子(株式会社arca CEO)らで、「賛同人」には、浜田敬子(ジャーナリスト)、佐治洋(ChooseLifeProject代表)、津田大介、坂本龍一、コムアイらの名前がある。
男性たちが呼びかけ人になっての署名活動も行われた。「女性蔑視発言をした森喜朗氏の辞任と、男性社会の見直しを求めます」というもので、津田大介はこちらの「賛同人」にも名を連ねている。さすが、メディア・アクティビストらしい八面六臂の活躍ぶりだ。
「WAN」のサイトから、抗議活動に参加した団体の名前を書き出してみよう。
「日本スポーツとジェンダー学会執行部」「石原都知事の女性差別発言を許さず、公人による性差別をなくす会」「新日本婦人の会」「北京JAC(世界女性会議ロビイングネットワーク)」「日本婦人団体連合会」「一般社団法人ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン」「国際婦人年連絡会」「国際人権NGOヒューマンライツナウ」「ふぇみん」「高槻ジェンダー研究ネットワーク」「国連 NGO・国際女性の地位協会」「認定 NPO 法人日本 BPW 連合会」「全国フェミニスト議員連盟」「平塚らいてうの会」「矯風会」「岩手ウィメンズネット」
ほかにも、土井香苗がディレクターを務める「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は、森喜朗会長の発言を「金メダル級の女性蔑視」と批判するネット記事を掲載した。
先般、立憲民主党からの資金提供が発覚したあのネットメディア「Choose Life Project」も田代伶奈、永井玲衣、辻愛沙子、コムアイ、小島慶子、たかまつなな、望月衣塑子(新聞記者)、亀石倫子(弁護士)らを出演させて「緊急企画 Don’t Be Silent #わきまえない女たち 」という番組を配信した。
これは別項にて論じるが、立憲民主党からの資金提供を受けていた「Choose Life Project」がこの件に深く関与していたこと、および、森喜朗を激しく糾弾しておきながら、一方で、北尾修一や中原一歩のヨタ記事を嬉々としてリツイートしていた津田大介や、小山田の謝罪文を「読みながら泣けてしまった」という坂本龍一や、DOMMUNEに出演して小山田圭吾を擁護していた亀石倫子の存在は、しっかり記憶しておいてもらいたい。
亀石倫子は、2019年7月の参議院議員選挙に、立憲民主党公認で立候補している(落選)。
きっかけとなった発言は、「女性入る会議は時間かかる」というもので、森喜朗とすれば軽いジョークのつもりだったに違いない。ところが、それを問題視する団体がクレイムを申し立て、そのクレイムによって人々が「問題だ」と認識することで「女性蔑視」が社会問題として構築されたのだ。
こうしたすさまじい抗議を受けて、森喜朗は2月12日、辞任を表明した。女性蔑視発言から、わずか10日ほどの出来事である。
作られたキャンセルカルチャー神話
森喜朗会長の辞任から5か月後に、今度は小山田圭吾の雑誌インタビュー記事での発言が批判にさらされる。これも抗議の声を受けて、小山田はオリ・パラ開会式の作曲担当を辞任する。
「日テレNEWS(2021/7/19)」によれば、組織委員会側は小山田圭吾を続投させる意向だったが、事態を重く見た首相官邸が動いたことにより辞任が決まったという。
ところが、ほどなく、小山田圭吾は不当なキャンセルカルチャーの犠牲となったかわいそうな被害者だと主張する者たちが出現する。こべに軍団である。
こべに軍団の主張は、小山田圭吾は「孤立無援のブログ」というデマブログの悪意によって捏造された大昔のアングラ雑誌記事をもとに、やってもいないいじめで批判され、すべての仕事を失った。中原一歩のインタビューも受けて謝罪文も出し、この25年間ずっと罪悪感を抱えて、懺悔しつづけ、その気持ちを音楽に反映してたのに許してもらえず、殺害予告を受けて7キロもやせて、障害児のための活動をサポートしながら学びなおして、禊もすませたのだから、仕事に復帰させろ、というものである。
しかし、森喜朗の辞任については、誰からもキャンセルカルチャーだという声は上がらなかったし、今も聞かない。これも冷静に検証すれば、森喜朗はすぐに謝罪しているし、その発言も「女性入る会議は時間かかる」と一部を切り取られて報道されたのだ。
この程度の発言で辞任させられた、と言いたいのではない。これが女性蔑視発言であることは間違いない。17を超えるフェミニスト・人権団体が街頭での抗議活動を含む猛烈な糾弾を行ったのも当然のことだ。こうした団体が錦の御旗を振りかざし、森喜朗を権力の座から引きずり降ろしたことに、人々は痛快な思いで喝采を送ったのだ。
同様に、小山田圭吾による『クイックジャパン』(第3号)での、「ダウン症の人ってみんな同じ顔じゃないですか?」といった数々の発言も「障害者蔑視」であるのは間違いない。なぜこんな人物がオリンピック・パラリンピックに関わるのかと、人々は怒りの声を上げたのだ。当然のことである。
ところが、こべに軍団というクレイムメーカーが登場し、過去の言動で仕事がキャンセルされたのは問題だ、と騒ぎ立てることによって、人々の間に「問題だ」という認識が広がり、小山田はキャンセルカルチャーの犠牲者だという「事実」が作り出されたのである。
はじめに、小山田圭吾が不当なキャンセルをされたという事実があり、こべに軍団が抗議の声を上げた、というのではない。逆である。こべに軍団がクレイムを申し立てたことによって、キャンセルカルチャーという事実が新たに作られたのだ。
「マスメディアは『事実』を報道しているのではなく、報道することで『事実』を作り出している」という、これこそが社会構築主義の肝である。
片岡大右が社会構成主義の立場を採るのであれば、そこまで書かなければ嘘である。皮肉なことに、それは自らもまたクレイムメーカーとして、「事実」を作り出すことになるのだ。小山田圭吾と同じく森喜朗の辞任も、「インフォデミック」による不当なキャンセルである、というのならまだ一貫性がある。しかし、そうではあるまい。
そして、現在の認識から過去の事実に改変を加えるこうした社会構成主義は、容易に歴史修正主義に結び付き、小山田圭吾は障害者を差別してもいないし、いじめてもいない、という偽史が作られていくのである。
岩波書店とDOMMUNEは歴史修正主義者の祭典
岩波書店が掲載した片岡大右の論文が醜悪であるように、昨年末にネット配信されたDOMMUNE「小山田圭吾氏と出来事の真相」は、まさに歴史修正主義者の祭典と呼ぶべき醜悪なものだった。
この番組がもとにした資料が、子育てブロガー「こべに」のまとめサイト、南山大学講師の大月英明が572円で自費出版したAmazon Kindle本、立憲民主党の宣伝を請け負っている広告代理店社長の中原一歩が週刊文春に書いた記事、ということだけでもそのデタラメさがわかる。
なにがファクトチェックか。片腹痛い。
宇川直宏は同サイトで次のように書いている。
森喜朗を糾弾したフェミニスト・人権団体にも同じことが言えるのか?
こうしたメディアが垂れ流すフェイクニュースとは、これからも闘っていかなければならない。
森喜朗が女性蔑視発言で辞任したように、小山田圭吾は障害者蔑視発言で辞任したのだ。小山田圭吾の障害者蔑視発言は、ファクトとして『ロッキン・オン・ジャパン』と『クイック・ジャパン』に掲載されており、誰でも読み検証することができる。これこそがファクトである。
片岡大右や宇川直宏、そしてDOMMUNE「小山田圭吾氏と出来事の真相」の出演者のように、自分のイデオロギーで過去の出来事を都合良く解釈したり,誇張や捏造された「事実」を歴史として主張する立場を、歴史修正主義という。(百科事典マイペディア)
「マスメディアは『事実』を報道しているのではなく、報道することで『事実』を作り出している」という社会構築主義の考え方は、それが歴史修正主義へと結びつくことの危険性への戒めとして読まなければならない。
つまりこれは、メディア批判でもある。
あらためて書くまでもないが、森喜朗と同じく小山田圭吾は、自分のやったことに対する正当な報いを受けたのだ。
https://twitter.com/jenaiassez/status/1449182754629820428
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