嫌だとはっきり言える子どもって素敵じゃないか
「算数の宿題なんてしたくないよ」
「トマトなんてまずいから食べたくない」
「1日に1時間しかゲームできないなんて嫌だ」
子どもというのは自由でわがままな生き物だ。
自分の欲望に素直で、嫌なことからは簡単に目を背けようとする。
そういった行動に手を焼いている保護者の方がどれほどいることだろう。
しかしこうした子どもたちも、成長するにつれて欲望を抑えるということを覚え始める。
先生に怒られないために宿題をしたり、健康のために嫌いなものを食べたり、受験勉強のためにゲームの時間を減らしたりするようになる。
「辛抱」するという力を習得し成長していく。
この力は生きる上で必要不可欠なものだ。
常に今の楽しみを優先していては、いつか破滅するから。
つまり、未来への投資として「辛抱」をするわけだ。
しかし僕は、多くの日本人がこの力を鍛えすぎるがあまりに、誤った使い方をしてしまっている気がしてやまない。
誰かが嫌な思いをする気がして、自分の本当の気持ちを言えない。
部活の先生の期待を背負って、したくないキャプテンを引き受ける。
上司から強制された嫌な仕事を断れなくて長時間残業する。
果たしてこれは未来のために必要な「辛抱」だろうか。
いや、自分を苦しませるだけで特に自分にメリットをもたらさない、ただの「我慢」だ。
「我慢」と「辛抱」は全く違う。
嫌だと思うのは決して悪いことじゃない。
本音を発することは弱音を吐くことと同義じゃない。
だから、自分のためにならない「我慢」などやめてしまおう。
大人になると子供の頃にはできなかったことができるようになる。
しかし同時に、子どもの頃にできていたことができなくなっていることもある。
子どもは大人に劣る存在?
子どもは大人に何かを教えてもらう存在で、大人は子どもに何かを教える存在?
僕はそうは思わない。
たまには大人が子どもから学んでもいいんだよ。
子どもがはっきり「嫌だ」と言えるのって素敵じゃない?
僕は子どものそういうところをどんどん見倣っていきたい。
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