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人は馴染んだ世界を出にくいものなのか

YouTubeで、統合失調症のドキュメントみたいな動画を少しだけ見た。
50代後半で、「世界が憎い、間違ってるのはオレか世界か?」みたいなニュアンスのはなしだった(統合失調症のすべてが、そういう風になるというはなしではないけど)

「あなたは今日からしあわせを選べる」みたいなタイトルの本は、本屋の精神世界のコーナーへ行けばすぐ見つかるけど
実際は、人の(世界の)感じ方を明日からすべて入れ替えるというのは、そんなに簡単なことでもないのかもしれない

感じ方は、実際かわると思う。
変わらないものもあるけど
変わるものもある。
粕漬けの魚とか、山海漬けみたいなものを子供のころは避けていた
今では、そんな嫌いではないし、山海漬けにいったっては、やや好物に変わった
おでんというものも子供のころは、なぜ、日本人はこのようなものを好むのか理解できず、多少、我慢して食べていたが
大根のおいしさに開眼してからは、少なくとも、嫌いではなくなった。
異性に関しても、若いころは、芸能人とか、ややルックス至上主義みたいなところがなくもなかったけど、
ある程度年齢が上がってからは、接触の機会がまずない、向こうがこちらを認知することはまずないだろう異性に、どっぷりハマることは基本なくなった。

悲惨な境遇は、なぜ生涯を通して変わりにくいのかというと
多分、人の(世界)の感じ方があんまり変わらないからだ
統合失調のダブルバインドというヤツは
ある現前する何かが、好意なのか悪意なのか50/50で区別がつかないということだ。
親が、気まぐれで首尾一貫性に欠けた対応してしまうと、そうなりやすいという仮説だけど
親も、神ではないのだし、子どもとの相性その他もある

厳密に言えば、地上のすべてのギフトは、50パーセントくらいは何らかの悪意を含んでるのではないか?
ただ、それをどう受け取るかなのだ。
人生の早い段階で、世の悪意(?)を感じ取った個人は、その後の人生に障害が生じやすいのかもしれない
ただ、それも自殺や、刑務所を簡単に出てこれない犯罪者にでもならなければ
つきはなした言い方になるけど
その中にしかギフトはないのかもしれない

苦痛がでも気持ちいい、というのはマゾヒズムと呼ばれているが
これも、ひとつの感じ方で
たとえば、ドストエフスキーみたいな文豪は、生涯これを引きづったとみてよく
ドストエフスキーのおもしろさは、このあたりにも謎のひとつがあるのだろう
でっちあげに近い形で政治犯として、最初は死刑を言い渡されたドストエフスキーは、のちに恩赦による減刑を受けたが、それでも、40歳近くまでは、島流しに近い境遇にあったともいえる。

感じ方や受け取り方は、厳密には変わる、というより変わり得るとは思う。

でも、50代になって、統合失調の症状を引きづってる方のドキュメントを少し見て
人は馴染んだ世界を抜け出しにくいものなのかもとは思う。

馴染んだ世界の彼岸が、日本がバブルのころまで追いかけてた、フェラーリー・ベンツ・お金持ち・タワマンといったような財物シンボルでは、実はなかったということに気づいてしまった日本人の何割かは
でも、彼岸の世界が何かも分からず(モデルとして与えられていないため)
たまに、政治状況に怒りを感じるものの、政治改革の先にこそ彼岸があるのかもよくわからないでいる

馴染んだ世界というのが間違いであれば
馴染んだ世界の受け取り方でもいうか……

50をすぎても、統合失調という世界の受け取り方があまり変わらない様子のドキュメントをYouTubeで見て
人は、馴染んだ世界を出にくいものなのかなぁと思った次第でした



おわりに、ドストエフスキーのアマゾンリンクを付します。
『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などの代表作がありますが
このあたりの作品に、ドストエフスキーのマゾがよく表れてると思います。

💎ドストエフスキーのマゾな面白さはこれ!


タイトルがビミョーにマゾだと思うけど……
よかったら本棚に
僕は、前者は40代のときに
後者は20代の引きこもりのときに読みました。

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