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日日自炊自足【休みの食事 と 休みのこと】

夫なし。子は独立。
自炊の習慣で自分の必要をみたす、50代ひとり暮らし。
アレルギー対策に 油をやめ(家にある油はラー油のみ)、お肉、乳製品、卵、小麦粉、お米や砂糖をなるべく減らした(い)食生活。

「家族のためのご飯」を卒業した献立の記録 と 自分を観察する日記。

金曜日は仕事が終わって一旦家に帰ってから、ジムへ行った。
近頃は週2回のノルマを、金曜・土曜で駆け込み消化するのが恒例になっている。
帰りにジム近くのマーケットで総菜を買う。見切り品のパセリが50円で売っていて、干してみようと買って帰る。
週末はどうやら暖かいらしいという情報を仕入れ、どこかへ行こうと思うも思いつかず、結局娘に「明日家にいる?」なんて連絡してしまう。
こういう時のために「行きたい場所100個」とか書き出しておこうと思うのに、結局やらない、やれない。

そうまでして行きたいこともしたいこともないのなら、やっぱり娘の家にへ行って家事でも手伝ってやったほうがいいだろうと思ってしまう。
行くところがないからそう思うのか。そう思うから行きたいところが思いつかないのか。

土曜日早朝ジムへ行き喫茶店でモーニングを食べ、読書。
9時過ぎに店を出て自宅を通り越して、開いたばかりの図書館で予約本を受け取り帰宅。
着替えて化粧をして家を出る。という清々しい朝だったのに

娘の家で昼食を食べた後、娘がお孫様を怒り倒し・・。
これが長引きまして、わたしが2人のお孫様を連れて公園へ行き。
帰ると娘はリビングで毛布にくるまって出てくる気配なし。
ようやく少しずつ顔を出したと思ったら、涙声で義実家や旦那さんや生活の愚痴が止まらない。

疲れてるんだよね。疲れたと言ったところでどうにもならないからだましだましやるんだけど、小さなきっかけで全部の我慢が湧き出しちゃう。
誰かに言ってもどこかに書いても、やっぱりどうにかなるなんてことはなくて、愚痴を言ったことにまで自己嫌悪。

その新たな自己嫌悪を含んだ感情を、また同じ場所に丁寧にたたんでしまう。その繰り返し。
わたしが行かなければ、娘家族には違う今日があったのかもしれないな。
やっぱり「行きたい場所100個」を書き出してみよう。

日曜日も天気が良く、どこかへ出かけたい気持ちがわいてくる。
「あ、映画観に行こう。」
先日書いていた、興味を持ったうちの1本が電車で数駅の映画館で上映していた。朝のんびりしてしまったけれど、まだ間に合いそう。

瀬尾まいこさん原作の映画「夜明けのすべて」
月に一度、PMS(月経前症候群)でイライラが抑えられなくなる藤沢さんはある日、同僚・山添くんのとある小さな行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。
だが、転職してきたばかりだというのに、やる気が無さそうに見えていた山添くんもまたパニック障害を抱えていて、様々なことをあきらめ、生きがいも気力も失っていたのだった。
職場の人たちの理解に支えられながら、友達でも恋人でもないけれど、どこか同志のような特別な気持ちが芽生えていく2人。いつしか、自分の症状は改善されなくても、相手を助けることはできるのではないかと思うようになる。

感想を書くことは得意ではないのだけど、思ったことを・・
藤沢さんは「迷惑をかけてしまう」ことに対する保険のように(わたしの感覚)、社内の人にお菓子を配る。
それは飴みたいに大袋の中のひとつではなく、わざわざ買った個包装の洋菓子や和菓子。
会社の人はみな藤沢さんより年上で「恒例になると大変だから、いいのよ」と気遣ってくれながら「でも好きだから嬉しい、ありがとう」と言って気持ちよく受け取ってくれる。
それは藤沢さんの「そうせずにはいられない」も同時に受け取ってくれているようでもあった。
入社してもう何年かたっている職場。ずっとこうしてきたのかな。

そういう藤沢さんが山添くんの家でリラックスしているように見えたのも、帰り際にポテトチップスの残りを「食べていい?」と袋に口をつけて流し込むのも、会社帰りに忘れ物をしたといって引き返す山添くんに「一緒に行こうか」なんて言わずにいられたのも

見切り品のパセリを干す。

最初の山添くんの印象が良いものではなかったからこそ、なんじゃないかと思える。

いや、でも

そもそも使っていなかった自転車を強引に山添くんに押し付けたり、経験もないのに髪を切ってあげたり、道でみかんを食べ歩いちゃう藤沢さんは元々、過剰に人に気を使ったり商品の箱詰めをひたすら真面目にする、控えめなタイプではなかったのかもしれない。

迷惑をかけてしまうという前提のもと身につけた、社会の中で生きるための技術だったのかな。
いくつかの大変なことを「でも、みんなそうか」と言ってやり過ごしたり、PMSがなければ立てることもあったかもしれない目標を「持ったことがなくて」という藤沢さんに、悲壮感は見えない。そういう自分にすっかり慣れていて、本人にとっては至って当たり前のことという感じの表現にも見える。
藤沢さんにとっての目標は、このまま平穏無事に働き続けること、なのかな。

パニック障害で飲食店に入れない、電車に乗れない山添くん。
藤沢さんのように明確な描かれ方はしないけれど、きっとたくさんの悔しい思いをしてきた、いや今もしていて・・どうにか元の会社に戻りたいと考えている。
でもそれが無理だということはわかっていて、だけどそう言っていないと挫けてしまいそうで「戻りたい」を希望にしているんじゃないかって思ったりもした。

コミュニケーションをとることで自分を守ろうとする藤沢さんと
人と距離をとることで自分を守ろうとする山添くん。
そういうふたりが互いの状態に気が付いて、無理せず助け合う関係になっていく。
でも相手が話すこと以上の詮索はせず、何かが起こる前から心配したりされたり、そんな居心地の悪い親切みたいなものはなくて、何かが起きた時に無理なく今自分にできることを
ほんのちょっとの「そうだったら助かるな」みたいなことをする。
自分を犠牲にしてまで優しくとか助けなきゃという義務感はなくて、お返しや変にへりくだるようなシーンはなくて。そういうのがいい。

それで症状が治まったり痛みや発作の程度が変わるわけではないけれど、でも、これまでとは何かが違う。

電車に乗ることができない山添くんは、年末年始もひとり暮らしの家にいる。
でも元の会社の上司が正月料理を持って子供との外遊びに誘ってくれたり、訪ねてくれる元同僚もいる。

藤沢さんもことあるごとにお母さんが食べ物の入った大きな段ボールを送ってくれたり、転職を相談できる友達もいる。

関係が長くても深くても、何でも言えるわけじゃない。
助けたり助けてもらったりするのは、家族じゃなくてもいいし、友達や親友、恋人じゃなくてもいい。
と思ったら、ほんの少し 楽になる。(当事者でもないのにこう書いてしまっていいのかわかりませんが)


そんな映画でした。

好奇心が消える前に観に行けてよかった。




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