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『オールド・クロック・カフェ』5杯め「糺の天秤」<全文>

 <登場人物>
桂子‥‥‥‥カフェ店主
時任正孝‥‥宇治市役所市民税課係長
原田澄‥‥‥正孝が助けた老女
徳光糺‥‥‥澄の元許婚
伊藤直美‥‥澄の孫
瑠璃‥‥‥‥泰郎の娘・桂子が姉のように慕う
泰郎‥‥‥‥カフェの常連・ガラス工芸作家
環‥‥‥‥‥瑠璃の親友・二月に時のコーヒーを飲み、元恋人の翔を追って
      ナミビアに行った。(4杯め「キソウテンガイを探して」)
翔‥‥‥‥‥環の恋人・ナミビアで植物の研究をしている。
祐人‥‥‥‥環の父
綾‥‥‥‥‥環の母
八木さん‥‥正孝の部下
亜希‥‥‥‥店舗コーディネーター・昨年春に時のコーヒーを飲んだ
      (1杯め「ピンクの空」参照)

 その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、つくばいの傍らで桔梗が揺れている。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。
 そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。

Old Clock Cafe

6時25分のコーヒー       ‥‥500円
7時36分のカフェオレ      ‥‥550円
10時17分の紅茶         ‥‥500円
14時48分のココア        ‥‥550円
15時33分の自家製クロックムッシュ‥‥350円

 なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止め、開け放たれた格子戸から中をいぶかしげにのぞきこむ人がいる。
 いらっしゃいませ。ようこそ、『オールド・クロック・カフェ』へ。
 あなたが、今日のお客様です。

第1話「An Old Lady(1)」

「だいじょうぶですか」
 正孝はアイロンの折り目も正しい時計柄のハンカチをさしだす。
顔をあげた老女は、一瞬、驚いたように両手で口をおさえ、頬を紅にそめて
「ただすさん」とつぶやき涙をはらはらとこぼした。

 大文字が過ぎても暑さがいっこうにやわらげへんと思っていたが、ようやっと朝晩には秋のけはいが微かに風にのるようになった。耳をつんざくほどうるさかった蝉の鳴き声が、気づくと鈴虫のふるえるような涼やかな音色に代わっている。だが、まだ肌にまとわりつく暑さがよどんでいた。
 京都市役所への出張会議を終えた正孝は、遅いランチをとろうと八坂さんの朱塗りの鳥居の前で折れて東大路を南に下った。もちろん『オールド・クロック・カフェ』でランチをとるために。三条か四条あたりの店ですませたほうが宇治に戻るにはええけど、たまには寄り道も許されるやろ。
 宇治市役所市民税課係長の正孝は「真面目が服を着てる」と評されるくらい生真面目だけが取り柄で、カフェの常連の泰郎には「ほんま肩凝るやっちゃな」といわれる。これまでなら勤務時間中に寄り道するなど正孝の行動指針にはなかった、それを。このくらいええやろ、と思えるようになった自らの変化に、正孝はいっこうに気づいていない。
「なんか係長、最近、変わりはりましたね」
 先日、隣の席の八木さんに言われ、正孝はあわてた。
「ど、ど、どの数字がまちごうてた?」
 デスクトップパソコンに額をくっつけて画面をスクロールする。
「数字はいつもどおり嫌みなくらいぴったりです」
 心底ほっとした表情を浮かべて八木さんのほうを向く。
「なんていうか、色がついてきた感じがするんです」
「は?」
 ああ、また、八木さんがおかしなことを言いだした。彼女はときどき突拍子もないことを言うため正孝とはたいてい会話が噛み合わないけれど、業務以外のことで正孝に話しかけてくる珍しい人物だ。
 地味で目立たず誰の記憶にも残らないほど自らの印象がうすいことを正孝は心得ている。気づかんうちに服装が派手になってたんやろか、と首をかしげる。
「おもしろみが出てきたいうか、やっと人間になったいうか、肩の突っ張り棒が抜けたいうか‥‥」
 八木さんは顎に人差し指をあてながら勝手にまくしたてる。けっこう失礼なことを言われている気もするが、訳のわからないおしゃべりは無視するに限る。正孝は眼鏡の奥の細い目をしばたき、グレーのアームカバーを肘まで引っ張った。

 東大路を左に折れて八坂の塔へ続く石畳の坂道を歩みながら、先日の八木さんとのやりとりが浮かんで正孝は苦笑する。これも暑さのせいやろか。それとも寄り道をすることへの罪悪感やろか。首筋とこめかみに拭いても拭いても滲む汗をハンカチでぬぐう。九月の声を聞いてもまだ京はぬるく暑い。すでにハンカチを三枚も消費した。
 残りは時計柄の一枚だけだ。
 六月十日の夜に『オールド・クロック・カフェ』で桂子の誕生日と瑠璃の結婚一周年記念パーティが開かれた。その引き出物として配られたのが、時計柄のハンカチだ。桂子は、正孝が師匠と呼んでいるカフェの先代オーナーの孫娘で現店主でもある。瑠璃は常連の泰郎の娘で、昨年結婚したばかりの新婚さん。見た目も性格もまるっきりちがうが、ふたりは姉妹のように仲が良い。桂子はすらっと背が高く涼しげな目もとで笑うとえくぼが浮かぶ。カフェの店主という立場もあるのだろうが、どちらかというと控えめだ。瑠璃は小柄で大きな瞳が愛くるしく黙っているとビスクドールのようにかわいい。だが人を選ばずにずけずけと物をいう。そして、どうも正孝をからかっている節がある。パーティの席でも。
「桂子さん、お誕生日おめでとうございます」
 正孝が花束を渡すと、桂子が礼を言うよりも早く瑠璃が
「桂子さんじゃなくて、桂ちゃん。ほら、言うてみ」
 桂子の後ろからさっと現れる。手にもったグラスは空だ。
「けい……、けい……」
「む、無理です。桂子さんでは、あきませんか」
「瑠璃ちゃん、正孝さんが困ってはるやん」
 瑠璃はくすくす笑っていた。瑠璃の隣に上背のある男性が歩み寄った。夫の啓介だ。
「正孝君ですよね。瑠璃からしょっちゅう聞いてます」
 すぐさま正孝は名刺を取り出し
「宇治市役所市民税課の時任正孝と申します」
 と直角に頭を下げた。
「いやあ、話に聞いてたとおりやな」
 正孝のかくかくした挨拶に啓介がうれしそうに破顔すると、「な、言うたとおりやろ」と瑠璃がまたくすくす笑った。

 まさか平日のこの時間帯に瑠璃がカフェにいることはないと思うが。あの人なつっこい笑顔でくすくす笑われると、どう対応したらいいのか、正孝にはわからなくなる。
 『オールド・クロック・カフェ』への路地を曲がる手前で八坂の塔を見あげた。瓦が陽射しを反射して光る。五重塔の均整のとれた姿をなでるように視線をおろして、塔へと続く石段に老女がうずくまっているのに気づいた。少し様子がおかしい。朽葉色のきもの姿で日傘を脇に置き、石段に背をもたせてぐったりしている。熱中症やろか。慌てて坂を駆けのぼる。
「だいじょうぶですか」
 声をかけると驚きを顔に貼りつけ、ひと言「ただすはん」と意味不明な言葉をつぶやいて涙をこぼした。それほどしんどいのか。ペットボトルのお茶はすでに口をつけている。まだ使っていない時計柄のハンカチを渡し、
「すぐそこにカフェがあるんです。ぼくも行くところなんで、そこで休みましょう。さあ、乗って」
 と背を向ける。
「いややわ。恥ずかしいから、かんにんして、ただすさん」
「熱中症をあなどってはいけません。一刻も早く涼しい場所で水分をとらんと。はよ、乗ってください」
「そうどすか。ほな、すんまへん」
 老女を背負い立ち上がろうとして、正孝は二三歩よたよたとふらつき、街灯の鉄柱をつかむ。
「だいじょうぶどすか」
 老女の心配する声が情けなかった。

第2話「An Old Lady(2)」

 カラ、ガラガラ……ガラ。
 格子戸の音がおかしい。建付けが悪くなったのだろうか。カウンターに腰かけ文庫本を読んでいた桂子は顔をあげる。のっぺりとした風が隙をついて滑り込み、カウンターの上にさげているガラスの風鈴が、ちりん、とひとつ声をたてた。近くの茶わん坂で工房をかまえる泰郎さんの作品だ。もう暦の上では秋なのでしまわないといけないが、清澄な音色が気にいっていて、もう少しもう少しと架けたままにしている。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 くるっぽー、くるっぽー。
 店の壁に所狭しと掛けてある三十二台の柱時計が、時間でもないのに騒ぎたてたとたん。
 ガタ、ガシャン。
 派手な音をたて半分だけ開いた格子戸にぶつかりながら、小山のような塊が無理やり押し入って来た。開いた戸口から射しこむ光がまぶしく、桂子はちょっと目をすがめる。白い光を背負って浮かびあがった輪郭で、きもの姿の人が負ぶわれているのだとわかった。二歩三歩とゆらゆら左右に揺れる。慌てて駆け寄ったがまにあわず、ガクンと小山が沈む。かろうじて負ぶわれている老女だけは支えた。
「だいじょうぶですか」
 とっさにふだんより半音階高いキーの声が出た。
 老女を負ぶっていた男性は土間に片膝をついていた。手はまだ後ろで組んで老女の尻を支えている。
「桂‥‥子さん‥‥すみません。おばあさんを‥‥支え、て、くれはりますか」
 喘ぎ声で顔をあげたのは、正孝だった。桂子が驚く、平日のこんな時間やのに。
「正孝さん。どないしはったんですか」
「説明は、あ、あとで。熱中症‥‥かもしれへん。水を」
 桂子はカウンターの内に走り、冷蔵庫からレモン水を取り出し塩をひと匙まぜる。正孝は老女を前庭側のテーブル席の椅子に座らせていた。正孝の背も汗でカッターシャツが貼りついている。桂子はクーラーの温度を下げた。
「桂子さん、帯のほどきかた、わかりはりますか」
 正孝が老女の背を支えて水を飲ませながら尋ねる。
 桂子は盆をテーブルに置き、すばやく帯締めと帯揚げをほどく。
 正孝は冷やしたお手拭きを老女の首にあてながら少しずつ水を飲ませていた。
 帯をはずし胸の締め付けをゆるめたからだろうか、老女の顔にいくぶん生気がもどってきていた。
「そや!」
 正孝が急に素っ頓狂な声をあげ、桂子も老女もびくっとする。
「八坂の塔の階段でぐったりしてはったんです。あそこで待ち合わせしてたんかもしれん。探してはったらあかんから、ちょっとメモ残してきます。ガムテープかなんかありませんか」
 言いながら戸口に向かおうとした正孝は、急に手をつかまれぎょっと立ち止まる。
「行かんといて、ただすさん」
 老女が両手で正孝の右手をつかみ、また、はらはらと涙をこぼしている。
「行かんとって」
 正孝と桂子は顔を見合わせる。
「うちが行ってきます。八坂の塔の階段ですね」
 桂子は広告の裏紙にささっと走り書きをすると、カフェエプロンのポケットにガムテープを突っこんで駆け出す。
 また、さっと風が入って、ちりん、と風鈴が鳴る。
 老女は正孝の手を両手で握りしめ額に押し付けている。正孝はあいている左手で背をぽんぽんと撫でるようにたたきながら、
「だいじょうぶ。どこにも行きませんよ」と、その耳にささやきかけた。
「ほんまに?」
 握る力をゆるめて見あげた老女に、正孝はうなずいてみせる。
「いややわ。はしたないこと、してしもて」
 老女はあわてて正孝の手をはなし、いたずらが見つかったみたいに両手を背中に隠す。正孝は向かいの席に腰をおろした。
「ご自宅の電話番号はわかりますか」
「ここに」
 老女は斜めがけにしていた布製のショルダーバッグの蓋をあげる。フラップの内側に白い布が縫い付けられていて、「原田澄 090-24××-××××(伊藤直美)」と赤い糸で刺繍されていた。
「原田澄さんですか」
 尋ねると、こくんとうなずく。
「直美さんは、娘さんですか」
「孫どす」
「直美さんに、澄さんはここにいらっしゃると連絡してもかまいませんか」
 また、こくんとうなずく。
 スマホに番号を入力して正孝は立ち上がる。スピーカーをオンにして澄にも聞こえるように話すほうが誠実かとも思ったが、確かめたいこともあって正孝は席をたった。
 スマホから聞こえたのは明るい娘の声だった。事情を話すと何度も「すみません、すみません」「えらいご迷惑をかけて」とあやまる。「すぐに迎えに行きます」とせきこんだが、熱中症ぎみであることを話し、しばらく様子をみてからまた連絡すると伝えた。直美によると、澄は軽い認知症らしく、ときどきふらりと出かけて迷子になるそうだ。
 電話を切って澄の前に座る。顔色がずいぶんよくなっている。
「ただすさん、柱時計がこんなにぎょうさん……」
 なぜじぶんが「ただすさん」と呼ばれるのか気になってはいる。だが、いつものように名刺を渡してまちがいを正す気にはなれなかった。
「ぜんぶで三十二台もあるんですよ。先代のオーナーが集めたそうです」
 まあ、と澄は目を輝かせる。目尻にも額にも頬にも幾重にもしわが波打っているのに、窓から差しこむ陽に照らされたその顔は童女のようにみえて正孝は目をこする。
 外から戻ってきた桂子が、盆にグラスと湯呑をのせてきた。
「桂子さん、すみませんでした」
 正孝は立ち上がって直角に頭をさげる。
「正孝さん、今日は有休でもとらはったんですか」
「京都市役所で出張会議やったんです」
 答えながら正孝は腰をおろす。
「せっかくやからランチはカフェでと向かってる途中で、八坂の塔の階段でうずくまってる澄さんを見つけました」
「ほんならお腹すいてはるんとちゃいます? 何をお作りしましょ」
 桂子は正孝の前にレモンの輪切りの浮いたグラスを置く。メニューは正孝がそらんじているため置かない。
「玉子サンドとモカを」
「かしこまりました」
 正孝のオーダーを受けると、桂子は澄のほうを向く。
「おかげんは、どうですか」
「おおきに。もう、だいじょうぶどす。えらい迷惑かけてしもて」
「お水をお取替えしますね。こちらはあったかいほうじ茶です。もし、お腹がすいてはったら‥‥」
 と言いながら、桂子が澄の前にグラスと湯呑を置き、メニューを渡そうとしたときだ。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 柱時計のひとつが、突然、くぐもった声をあげた。

「あ、鳴った」
「ひょっとして、こ、これが、時のコーヒーの‥‥」
 正孝が早口でまくしたてる。
 はい、と桂子がほほ笑む。
 がたん、とテーブルに膝をぶつけ正孝が立ちあがる。
「ど、ど、どの時計が鳴ったんでしょう」
 桂子は正孝の斜め後ろの壁にかかっている柱時計を指さす。
「七番の時計ですね」
 ゴン。
 正孝は振り返ろうとして、こんどは膝をゴブラン織りの椅子のアームにぶつける。二人の様子に澄はきょときょとしている。
 正孝は椅子に座りなおすと、テーブルに身を乗りだし澄に話しかける。
「こ、ここのカフェには、と、時のコーヒー‥‥時の忘れ物を落とし‥‥あれ?」
 ぷ――っ。くすくすくす。
 ふだん無表情な正孝が興奮してしどろもどろになってるのがおかしくて、桂子は吹きだしてくすくす笑う。
「正孝さん、落ち着いて。うちが説明します」
 桂子は盆を胸に抱えたまま、澄のほうへと向き直る。
「澄さん、そこの壁に二本の木がからまったような柱時計があるのが見えますか」
 澄は斜め上の壁を見あげ、こくんとうなずく。
「あの時計が、澄さんのことを気に入ったようです」
 えっ、と澄が首をかしげる。
「うちの店には『時のコーヒー』いう、ちょっと不思議なコーヒーがあります。それを飲むと、時のはざまに置いてきた忘れ物を思い出すそうです」
「忘れ物?」
「その方にとってはたいせつな思い出やけど、無意識に記憶に蓋をしてしまっているもの、でしょうか」
 桂子が丁寧に話す。
「誰でも飲めるわけではなくて、時計が飲む人を選ぶんです。今、あの時計が鳴ったでしょう。あの七番の時計が澄さんを気にいったみたいです」
「七番の‥‥時計」
 その時計は、朽葉色の二本の樹木が互いに枝を伸ばして一本の木になっているようだった。澄は遠い日のどこかでよく似た何かを見たような気がして頭を振る。
「時計には一台ずつ番号がついていて、その番号の豆を挽いて淹れるのが、時のコーヒーです。時計の時刻も忘れ物に関係してるそうですよ」
 二本の木から伸びる枝に縁どられるようにしてある文字盤は、三時四十五分を指している。
「この時刻に心当たりはありませんか」
 澄は首をふる。
「ぼくは週末ごとにずっと通ってるんですけど、まだ時計が鳴ったことがなくて、時のコーヒーを飲んだことがないんです。澄さんがうらやましい」
 正孝が興奮を抑えきれない声でいう。
「ただすさんが、そういわはるんやったら。そのコーヒー、いただかさせてもらいます。ほんの今しがたのことでも忘れてばっかりやさかい、忘れ物がぎょうさんありすぎて時計のほうが困りはるんちゃいますやろか」
 澄は、ふふふと、やわらかに笑う。
 桂子が店を継いでから時計が鳴ったのは七度めだ。不思議なコーヒーの説明をすると、多かれ少なかれとまどうか、怒り出したお客さんもいた。こんなふうにたおやかに受け入れてくれたのは澄がはじめてだ。
「澄さん、お腹はすいてはりませんか」
 正孝が尋ねる。
「へえ、少し」
「じゃあ、ミックスサンドも追加でお願いします」
「かしこまりました」
 桂子は正孝をまねて直角に頭をさげてみる。目の前の二人のやりとりが初ういしい恋人のようで、桂子は笑みがこぼれてしかたなかった。

第3話「Fifth Cup of Time Coffee」

「お待たせしました、七番の時のコーヒーです」
 澄の前に白磁のコーヒーカップが置かれた。あらわれては消える湯気にのって淹れたてのコーヒーの馥郁とした香りがただよってくる。歳をとるごとに嗅覚だけでなくさまざまな感覚もしだいにゆるくなってきているけれど、この幾層にも折り重なった深い香りは澄の胸をあたたかくした。
 澄は子どもたちが幼いころ、ぜんざいをよく炊いた。あずきを鍋でことこと煮て、豆が指でつぶれるくらい柔らかくなったら砂糖をさっと混ぜる。戦後の物のない時代、砂糖も贅沢品だったからほんの少しだったけれど。ふんわりとした甘い匂いがぱあっと立ちあがる。その瞬間が好きだった。
 白磁の碗からただようコーヒーの香は、あずきの炊きあがる寸前の、あの角のとれたまあるい匂いに似ているように思えた。
 ――ただすさん。
 と、澄は心のうちで目の前の男性に呼びかける。
 黒縁の眼鏡をかけ背筋を伸ばして座っている人は「ただすさん」にまちがいないと思うのだが、その「ただすさん」がどこの誰だったかが、はきと思い出せないでいる。古い知り合いのように思う。けれど、この男性は髪も黒ぐろとして皺もない。また夢を見てるんやろか。近ごろは夢とうつつとの境めが、二色のアイスクリームがなめらかに溶けてまざりあうように、だんだんあいまいになっている気がする。二つの時間を同時に見ているような。時空の隔たりが溶けて無効化していくような。それが歳をとるいうことなんやさかい、しかたない。でも「ただすさん」と心のうちで呼びかけるたんびに、胸のここらへんがきゅうとなるんはなんでやろ。
 澄はぼおっと向かい席を見る。視線に気づいた、ただすさんは
「澄さん、この玉子サンドおいしいですよ」
 ひと切れつまんで澄の皿にのせる。また、胸がきゅうっと縮む。
 澄は頬が上気してくるのをごまかすように、白磁のカップを手に取り、時のコーヒーをゆっくり啜った。
 ――ああ、おいしい。胸がぽかぽかする。
 澄はほおっと息を吸いながらまぶたを閉じた。

* * * * *

 澄の意識は気づくと高い位置にあって、緑ひと色の水面みなものような何かをとらえていた。そこに赤や黄に紅葉した葉が積み重なり、みるみるうちに一反のあでやかな錦が織りあがった。すると、さあああっと一陣の風が吹いて反物は舞いあがり羽衣のごとくたなびく。やがてさわさわと葉擦れの音をかき鳴らし、反物の柄であったはずの紅葉がほどけ一枚一枚の枝葉となって息吹を取り戻すと、眼前には半ば紅葉した深い森が広がった。白い木漏れ日が幾筋も射しこむ。
 森のなかの小径を黒い詰襟の学生服が行く。その半歩後ろを淡い梨地に紅葉の裾模様のきもの姿の背がためらいがちに歩く。
 澄はそのきものに覚えがあった。
 戦局が厳しくなるにつれ、贅沢は敵という世相のなかで、たくさんのものを手放した。そのきものは澄が最後まで守った一枚だった。
 ――普段着やったもんぺではなく、あのきものを着てるいうことは。
 青年は遅れがちの女性を気づかって立ち止まり、振り返る。
 ――ただすさん。
 澄の記憶がはらはらとほどける。風が落ち葉を躍らせる。
 ああ、そや思い出した。ここは下鴨さんのご神苑の糺の森で、背筋を張って振り返ったあの人は、許婚いいなずけの徳光糺さんや。
 許婚いうても父親どうしが友人で、澄が生れた折に半分冗談まじりで交わした口約束にすぎない。けど物心ついたころから、おまえの許婚の糺君だ、といわれて育った。
 うちには許婚がいる――そのことが、幼い澄を誇らしくさせた。
 糺は澄よりも五つ年上の無口な少年だった。澄も口数は多いほうではない。互いの父親に連れられて家を行き来することはあっても、縁側に並んで腰かけ飴玉をなめながら庭を眺めて終わることのほうが多かった。それでも隣に糺がいるというだけで澄にはうれしかった。
 ――うちは糺さんのお嫁さんになるんや。
 なんの疑いもなく、そう思い込んでいた。

 京都帝大法学部の学生だった糺さんに赤紙が届いたと父から聞かされ、澄は泣き崩れた。それから三日後のあの日、珍しく糺のほうから「会いたい」と連絡が来た。指定されたのが糺の森だった。
 その日、糺はいつになく饒舌だった。
「澄ちゃんは、糺の森の七不思議を知ってる?」

 御蔭通りに面した下鴨神社の参道入口で午後二時の約束だった。澄は遅れないように出かけたが、糺はすでに待っていた。
「お待たせしてしもて」
 かまへんよ、というと糺は読んでいた本を閉じてすたすたと参道に入った。澄はその三歩後ろを歩みながら、最後の一枚の晴れ着に糺が気づいてくれなかったことに少しがっかりし足もとに視線を落としていた。
 どすん。
 うつむきかげんで歩いていた澄は、糺にぶつかり驚いて顔をあげる。
「すみません、よそ見してて」
 澄がまた後ろに下がろうとすると、糺は
「そない離れて歩かれたら話ができません。ぼくも歩くのが速すぎた。気遣いが足らんて、よう母に叱られる。並んで歩きましょう」
 当時、女性は男性より三歩下がって歩くものとされていた。澄がためらっていると、ほら、と糺がうながす。
「ほな、失礼して」
 子どものころのように隣に並んで斜めに糺を見あげる。黒縁眼鏡の奥の目が笑う。
 糺の森の七不思議を巡って小径を歩みながら、「ぼくの名前は、糺の森から付けたんやそうです」と語る。糺の家は出町柳にあって下鴨神社への尊崇も篤く、また裁判官の父は己の職業への誇りから、男児を授かったら糺の森にあやかり「糺」と付けようと心に決めていたそうだ。世の中を糺す人になるようにと。
「ここで遊んで育ったし、名前もいただいてるし」
 糺は佇んで森をぐるりと眺めまわす。
「この森はぼくの心がいつでも還って来る場所でもある」
 出征を控えた糺の心に去来しているものを推し量るには、女学校にあがったばかりの澄はまだ幼く、涙をぐっと飲み込むぐらいしかできなかった。泣いてはあかん、泣いてはあかん、と胸のうちで繰り返した。
 神社のあざやかな朱塗りの楼門が見えてきた。門の左手前に小さなお社がある。糺は迷うことなくそちらに向かう。
「七不思議のなかで、ほんまに不思議なんはこれ」
 糺はやしろの隣にそびえる木を見あげる。紙垂しだれが飾られていてご神木であることがわかる。
「連理の賢木さかきいう樫の木でね。ほら、木の幹が分かれて、隣の木とつながって一本になっとるの、わかるやろか」
 二本並んだ木の片方が糺の背ぐらいの高さで二股に分かれ、そのうちの一本の幹が隣の木に寄り添うように伸びてくっつき一本の木になっている。
「これで四代目らしい」
「四代目?」
「この木が枯れたり倒れたりすると、糺の森のどっかでまた連理の賢木が生れると云われてる」
 まああ、と澄は目を丸くしてご神木を見る。うちも糺さんと、こんなふうになれたらええのに。澄がぼおっと見あげていると
「澄ちゃん、今日は渡したいものがあって来てもろたんや」
 糺から葉書大の写真を手渡された。
「まずは澄ちゃんが欲しがってたもの」と、糺が手渡す。
 学生服で口を真一文字に結びこちらを見つめている。わざわざ写真館で撮ったことがわかる一葉だった。澄はそれを両手で胸に抱きしめる。
「それと、これを預かってもらえんやろか」
 斜めにかけたかばんから黄色い布にくるんだものを取り出す。両手に乗るほどの大きさの真鍮の天秤だった。
「ぼくは弁護士になりたいと思うてる。天秤は公正と平等の象徴で弁護士記章にも刻まれてる。ギリシャの正義の女神テミスが手にしてるのも天秤。値打ちのあるもんちゃうけど、ぼくがこうありたいと思う心の象徴やから、澄ちゃんの手に置いていく」
 言いながら澄の掌に乗せる。
「それから、これも」
 封筒を一通さしだす。表には「澄様みもとへ」と書かれている。裏返すとしっかり封緘されていた。
「ぼくが帰って来んかったら、そんときに開けてほしい」
 澄はもう涙をとめることができない。
「待ってます。ずっと待ってます。無事に帰られるまで、うちは‥‥うちはずっと待ってますから」
 糺はそんな澄を見つめて寂しそうに笑み、連理の賢木さかきの枝先を見あげる。この原始の森ではまだ若い部類の木なのだろう。先端は周りの古木の葉陰に守られている。糺は視線を戻すとポケットからハンカチを取り出し、涙で顔を引き攣らせている澄に渡す。ポケットのなかの懐中時計に手がふれた。
 糺は懐中時計を取り出し蓋を開ける。針は水平に開いて三時四十五分を指していた。それを涙に濡れる澄の前にかざす。
「澄ちゃん、ほら。時計の針が天秤みたいや」
 澄は霞がかった目で文字盤を見る。ほんの少し右側が下がっているけれど、黒縁眼鏡の奥の目は偶然の一瞬に、子どものように誇らしげだ。澄は涙をぬぐってほほ笑み返す。時が止まってほしいと心から願った。
「秋の日は鶴瓶つるべ落としいうから、さっさとお参りをすませて送っていくよ」

 さあああっと一陣の風が吹いて、二人の足もとの落ち葉が躍る。小さな渦は大きな螺旋を描いてくるくると天へと舞いあがり、たちまち画面全体を席捲し、宙に浮いた澄の意識は、紅葉の大きな渦を真上からとらえる。しだいに渦が画面の縁へ縁へと軌道を大きくするにつれ、中央に円状の空間が広がる。そこに時計の文字盤が現れた。長針と短針が水平に開いて三時四十五分を示している。まばたきをすると、針は真鍮の天秤の支柱と皿に幻じ、紅葉が左右の皿に一枚ずつはらりと舞い落ちて釣り合った。

第4話「Memory」

「糺さんにうてきました」
 澄は目覚めると向かい席の正孝と目があった。黒縁眼鏡の奥の細い目。この人は、あの日の糺さんにほんまによう似てはる。
「糺さんのことを思い出さはったんですか」
 澄はうなずき、
「糺さんはうちの許婚でした」
 今見た記憶について語りはじめた。
 つかえながらも訥々とつとつと語る澄の声に、時を刻む時計の音が和する。紅葉がひそりと落ちるように澄の言の葉が降り積もる。
 時のコーヒーが見せた光景を語り終えると、澄は正孝を見つめぽつりとこぼした。
「それやのに、うちは‥‥」
 澄はぐっと思いを飲み込む。
「糺さんから預かった天秤をどこにやったか思い出せんのどす」
 正孝はなんと返したらいいかわからず押し黙る。
 澄はほどけた記憶の縁から数珠つなぎで思い出したことを語りはじめた。

 翌晩、澄の父が仕事から戻る時間をみはからって糺はやってきた。
 灯火管制が敷かれて仄暗い座敷に糺の姿がぼうと浮きあがる。
 昨日とは打って変わって無口な糺に戻っていた。「お預かりした天秤は茶箱に入れて、たいせつにしまってます」と言っても、ああ、と返ってくるくらいで、あれこれ話かけても芳しい反応がなかった。
 父が座敷に現れると、糺はすぐさま両手をつき頭をさげる。
「お願いがあってまいりました。澄さんとの婚約を白紙に戻していただけないでしょうか」
 え‥‥澄は聞きまちがえたかと思った。
「なんで、うちはお帰りにならはるのを‥‥待って」
 混乱して言葉が喉でつっかえる。それでも言いつのろうとする澄を父は手で制し、畳に頭を擦りつけたまま微動だにしない糺をしばし見つめる。
「糺君、すまん。君の深慮に感謝し、謹んで婚約の解消をお受けする」
 父も両手をついてこうべを垂れた。ひしゃげた蛙のように這いつくばる不動の二人を前に、澄は畳に突っ伏して泣き崩れ、糺がいつ帰ったのかも気づかなかった。

 婚約が解消されても、意地みたいになって下鴨さんへ三日を空けずにお参りに通いました。手紙もぎょうさん書きました。けど書いても書いても、一通も返信はありませんでした。糺さんの写真を胸に抱いて、恋焦がれて苦しうて苦しうて。糺さんがおらんようになってから、うちはようやく糺さんに恋したんやと思います。手が届かんようになってはじめて。恋いうのはおかしなもんどすな。
 糺さんが出征しはって一年になるちょっと前に終戦を迎えました。うれしかった。これでお嫁にいけると。けど糺さんは三月みつき経っても、半年経っても復員しはらへん。きりきりしながら待ち続けました。
 一年を過ぎたころに、父から原田の家に嫁ぐようにいわれました。今とはちごうて家長である父のめいは絶対どした。うちも待つことに疲れきってたんやと思います。せやから諦めを背負って云われるがままに嫁ぎました。
 夫の誠二郎は、無口な糺さんとは正反対の明るい人で、からっぽのうちの心を春風みたいに撫でてくれました。すぐに長男を授かって、長女と次女も生れて。子育てにせわしい日々を送るうちに糺さんのことは、時の波にさらわれすーっと消えてしもて思い出すいとまもなかった。忘れよう思うて忘れたわけではなかったけど。許婚やったお人を忘れてたいうんは‥‥無意識に記憶に鍵をかけたんやろね。
 夫とは恋焦がれて一緒になったんではないし、照る日もあれば陰る日もありましたえ、けどおおむね結婚生活は幸せやった。せやから、なんで今になって糺さんのことを。あの天秤をどないしたんか。あれを返せということやろか。
 澄はうっすらと涙を浮かべる。
 それは、正孝も思った。澄の結婚生活が幸せだったのなら、なんで古傷を掘り返さなあかんのかと。七番の時計を見あげる。正孝は澄に時のコーヒーを薦めんかったら良かったんやろかと思い始めていた。

「おばあちゃん、迎えに来たよ」
 からからから。
 格子戸の音を立てて明るい声が入ってきた。澄の孫の直美だ。
 うわぁ、と素直な驚嘆が感嘆符つきでもれ、店内の柱時計を見回す。
「なにこれ、すごい!」
 陽が射したわけでもないのに、店内がぱあっと明るくなった気がした。
 はしゃぎたてるのでも、派手な格好でもなく、どちらかというと楚々としている。けれど、そこに佇んでいるだけで周囲の空気が明るくなったように思え、正孝は眼鏡の奥の目をこする。
「えっ、糺さん?」
 目が合った正孝に直美が驚き、テーブルまで足早に近づく。
「直ちゃん、あんたなんで糺さんを知ってるの?」
 直美の反応に澄のほうが驚く。
「おばあちゃん、なんで泣いてるん?」と、かがんで澄の頬の皺にとまっている涙をハンカチで拭う。
 正孝は立ち上がって名刺を取り出し直角に頭をさげる。
「電話させてもろた時任正孝です」
「おばあちゃんを助けていただいて、ありがとうございます」
 正孝をまねて直美も直角に頭をさげる。
「澄さんの涙のわけは、ぼくが説明します」
 澄を八坂の塔の階段で見つけたくだりからはじまり、澄が時のコーヒーで見た記憶やそこから思い出した昔日のあらましを話した。糺から預かった天秤をどこにやったか思い出せず、澄は涙しているのだと。
 正孝は居ずまいをただし深々と頭をさげる。
「ぼくが澄さんに時のコーヒーを薦めてしまったために、泣かせてしまって申し訳ありませんでした」
 顔をあげた正孝に、直美がにこりと微笑む。
「その天秤、うちが持ってます」
「えっ!」
 澄と正孝が同時に声をあげ、正孝は思わず身を乗り出し膝をテーブルで強打した。
「なんで直ちゃんが」
 澄の驚愕に直美が、ごめん、おばあちゃん、と謝る。
「三年前やったかな。おばあちゃんの妹の、ほら、里子大叔母ちゃんって山科におるやろ。あの人から渡された。家の整理をして見つけたんやって」
 それは小ぶりの茶箱に収まっていた。
 蓋を開けると黄色い布に包まれた何かと、封筒とセピア色の写真が入っていた。布の下から現れたのは、鈍い飴色に光る真鍮の天秤だった。祖母が嫁ぐ前に大叔母に預けたものだという。
 祖母には幼いころから許婚がいたのだと初めて知った。その人は終戦後もなかなか復員されなかったため、祖母は原田の家に嫁いだのだと。
「お姉ちゃんはね、糺さんが復員されるのをずっと待ってはったんよ。せやけど、父さん、直ちゃんからしたらひいおじいちゃんがね、勝手に縁談をまとめてしもて。糺さんいうのは、この写真の人」
 褪色した写真には、厚い黒縁眼鏡をかけて口を真一文字に結んだ人が写っていた。
 直美は向かい席の正孝の顔をまじまじと見つめる。
「写真の糺さんに‥‥時任さんが似てはるんです」
 形の良いアーモンドアイを丸くしていう。
「そんなに似てますか」
「眼鏡の印象が強いだけかもしれませんけど」
 直美はちょっと首をかしげて笑う。
「大叔母ちゃまはね、はじめ、おばあちゃんに返そうと思ったんやて」
 でもね、と直美は続ける。
「おじいちゃんの看病でたいへんな時期やったから。おばあちゃんの心を揺らしたくなかったそうよ」

 祖母は嫁ぐ前日に里子に茶箱を渡したそうだ。
 ――嫁ぎ先に元婚約者にまつわるもんを持っていくわけにはいかん。糺さんへの気持ちは置いてく。せやけどこれは糺さんの大事なもんなん。悪いけど預かってもらえんやろか。
 嫁ぐ姉の覚悟に里子はうなずくことしかできなかった。その後、姉は三人の子に恵まれ幸せな家庭を築いたため、里子は茶箱の存在をすっかり忘れていたらしい。
「お母さんに渡そうかとも考えはったみたい。でも、母親に実は好きな人がいてましたなんて、ええ気せんやろうと思たんやって。それで、孫の私に」
 いまさら返しても、と思ったと大叔母はいう。
 ――お義兄にいさんとは仲のええ夫婦やったからね。せやけどお姉ちゃんが糺さんに恋してはったんも幻やない。うちの棺桶に入れられてもあかんやろ。どうするかは、直ちゃん、あんたに託すわ。やっかいなこと押し付けて、かんにんえ。

「そんなわけで、うちが持ってる」
 澄が直美の手をとって、ありがとうと押しいだく。
「糺さんは復員されなかった‥‥いうことやろか」
 正孝がひとり言をつぶやき思案する。
 それを耳にした直美は「もう時効やし、いいかな」とぽつりとつぶやいて、澄、正孝と交互に視線をすえる。
「糺さんは‥‥おばあちゃんが嫁いだ三か月後に復員されたそうです」
 静かに事実をうちあけた。
「えっ!」
 澄と正孝が同時に声をあげる。
「せやけど、ひいおじいちゃんが、『澄には絶対に言うな、糺君の話は今後いっさいするな』て箝口令を敷いたんやって。知らんかったんは、おばあちゃんだけみたい」
 なんということ。澄は思考まで絶句する。けっきょくお父さんに操られとったんやろか、うちの人生は。脳内が白く茫とかすむ。
「なんで里子さんは糺さんが復員されたときに天秤を返さなかったんでしょう」
 正孝が理詰めで問う。
「うちも訊きました」
 ――お姉ちゃんがあんなに待ってた糺さんが、嫁ぐのと入れ違いで帰ってきはって。あまりな運命に茫然としてしもて。天秤のことまで頭が回らんかったんよ。
 里ちゃん、ごめん。糺さん、かんにん。
 涙が澄の頬の皺を縫って流れる。
 あと三か月待ってたら、糺さんとの未来があったんやろか。
 誠二郎さんと笑いながら積み重ねてきた時間は、確かな重みをもって澄の掌に今もある。平凡で愛しい日々。それらを手放す‥‥できるやろか。澄は頭をふる。
「その天秤と写真、ぼくも見させてもらうわけにはいきませんか」
 直美は澄の横顔をちらりとうかがう。
「ええ。うちからもお願いします。いっしょに見てくれはりますか。糺さんによう似た‥‥ええっと、なんてお名前どしたっけ」
「正孝ですけど。糺さんでもいいですよ」
「ほな、糺さんにいてもろたほうが心強い」
 澄は七番の柱時計に目をやる。
「忘れ物は‥‥記憶いうてはりましたなあ。けど、うちは記憶だけやのうて、ほんまに忘れ物をしてたんどすな。気づかせてくれておおきに」
 澄は時計に向かって深々と頭をさげる。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 二本の木が文字盤を支えている柱時計は、連理の賢木さかきに似ていることに澄は気づいた。

第5話「Treasure」

 澄は嫁いでから宇治で暮らしていたが、三年前に夫の誠二郎が亡くなったのを機に北野白梅町にある次女の家で暮らすようになったそうだ。軽自動車を運転しながら直美が語ってくれた。澄は疲れたのだろう。車に乗るとすぐに寝息をたてはじめた。それをミラーで確かめ直美が続ける。
「娘時代を過ごした市内で暮らすようになったせいもあると思うんですけど。おばあちゃん、ふっと昔に戻ることがあるみたいで、出かけて迷子になるんです」
 今日もどこに行こうと思ってたんやろ、と首をかしげたのがミラーに映る。
「助けてもろたんが、糺さんにそっくりの時任さんでよかった。あの茶箱をどうしたらいいか、悩んでたんです」
 赤信号で停車すると後部座席を振り返ってにこりと微笑む。
 信号が青に変わったちょうどそのとき正孝のスマホが鳴った。八木さんからだ。
「係長どこにいてはるんですか。課長がお怒りですよ」
 しまった、役所に連絡するのを失念していた。ありえない失態だ。
「ご、ごめん、八木さん。もと宇治市民の一大事なんや。本日は役所に戻りませんと課長に言うというてもらえんやろか」
 直美に聞こえないよう口もとを手で覆う。
「了解です。課長には適当にごまかしときます。係長の初さぼりですか。いい傾向ですねえ。なんか楽しなってきました」
 八木さんが妙にうれしそうなのが気になったが、正孝は無視して通話を打ち切った。彼女がなにを喜んでいるのかが、さっぱりわからない。

 とんとんとんとん。
 こきみよい足音をたて直美が二階から降りてくる。手には想像していたよりも小ぶりの茶箱を抱えていた。
 杉板は煤けて黒ずんでいる。
 ――半世紀を超える時空のかなたから現れた茶箱。
 柄にもなくロマンチックな言葉が脳裡に浮かんで、正孝は苦笑する。
 だが、そんな壮大な比喩が詩的陶酔ではなく、この茶箱にふさわしく思えてならない。ほんまに時間軸のはざまで忘れられてきたのだから。
 澄が上蓋をとる。内貼りの銀色のトタンが、傾きかけた午後の陽に反射して光る。その光が澄の表情を明るくし、一瞬、皺によれた澄の顔に直美の笑顔がオーバーラップして正孝はどきりとする。澄が若返ったような錯覚にとらわれ正孝は目をしばたく。
「糺さん、どうぞ」
 蓋をとった茶箱を正孝の前へ押す。また正孝と糺を混同している。だがそんなことは、もうどうでもいいと正孝は思った。
 箱のすきまに収められていた写真を取り出した。気になっていた一枚だ。
 詰襟の学ランに学生帽を目深にかぶり口を真一文字に結んだ青年が、時間の皮膜の向こうからこちらを見つめている。厚いセルロイドの黒縁眼鏡が青年の顔を印象づけていた。当時の写真を繰ればきっと似たような写真は枚挙にいとまがないだろう。眼鏡以外これといった特徴のない自分とそっくりなのだと感じた。とはいっても糺さんは弁護士をめざすくらいの秀才だから、なんの取り柄もない自分とは大違いなのだが。
「ほんまによう似てはる」
 セピアに褪色した糺と目の前の正孝を交互に見比べ、澄は写真を胸に抱いた。
 正孝は布にくるまれた天秤を慎重に持ちあげテーブルに置く。布を取るようにうながしたが、澄は首をふる。直美も正孝に、お願いしますという。
「では、僭越ながら失礼します」
 丁寧に断りをいれてから、正孝は布をはずした。
 これが糺さんの天秤か。
 半世紀も眠っていたにもかかわらず、真鍮の支柱も、支柱から伸びる腕も深い飴色の光沢をたたえて鎮まっている。腕の左右に同じ真鍮の皿が細い鎖でぶら下がっている。これといった飾りはなく、シンプルであることが「公正と平等」の精神を象徴しているように思えた。
「ああ、これや」
 澄の喉の奥からもれたつぶやきが空気を揺らす。それきり澄は口をつぐんだ。胸のうちで時間が巻き戻っているのだろうか。
 静寂があたりをつつむ。レースのカーテン越しに長く伸びた西陽が、真鍮の天秤を照らす。かすかに揺れていた天秤の両皿がゆっくりと空気を乗せて止まった。
 正孝は箱の底に残っていた茶に変色した封筒を取り出し、澄に手渡す。
「糺さんは復員しはったけど、もう封を開けて手紙を読んでもええと、ぼくは思います。当時の糺さんの心が、ここにしたためられてる思うんです」
「うちもそう思う」
 直美も澄をうながす。
「老眼が進んでこまい字がよう見えんのどす。糺さん、読んでくれはりませんか」
 澄がすがるようなまなざしを正孝に向ける。直美がペーパーナイフを正孝に渡す。手紙の封を開けるのは役所仕事で慣れているとはいえ、長い歳月と想いを封じた手紙を開けるのだ。ナイフを握る手がふるえた。
 白い料紙に万年筆で一画一画正確に記された文字が、教科書のようにきちんと並んでいた。所どころ歳月に滲んでいる。澄に一度見せてから、ひと言ひと言、正孝はゆっくりと読みあげた。

 これを読んでいるということは、私は君のもとに戻らなかったのでしょう。貴方とは親の決めた許婚でした。それでも私は君のことを好いていました。生涯の伴侶は貴方しかいないと心に決めていました。貴方と私が連理の賢木になることが叶わなくとも、私は貴方に幸せでいて欲しい。それだけが願いです。私に操を立てるような愚かなことはせず、どうか天秤の片皿に乗る人を見つけ嫁いでください。その方と幸せの分銅を積んでいって欲しい。君の幸せを衷心より願っています。

                             徳光 糺
小川 澄様 みもとに

 読み終えた正孝は細く長く息をはく。張りつめていた肩からようやく力が抜けた。
「うちの片思いではなかった」
 澄の目尻に涙のたまがひと粒たゆたう。その粒が震えながら限界まで大きくなると澄の頬にこぼれた。
 半世紀、沈黙していた時が流れたのだ。そう思ったとたん正孝の心と口がしぜんと動いた。
「澄さん、次の土曜日にこの天秤をもって糺の森に行きませんか。ぼくを糺さんと思ってくれたらええ。もう一度、糺の森でデートをしましょう。それからこれを糺さんに返しましょう」
 澄は、ええ、ええと幾度も繰り返してうなずき、「おおきに」と少女のように微笑んだ。

第6話「Time Flies」

 桂子はカウンターに腰かけて、店舗コーディネーターの亜希が届けてくれた雑誌『ウミネコ』のページをめくっていた。A5サイズでこれならコーヒーを飲みながら読むのにちょうどいい。さまざまな猫にまつわる話が載っている。亜希は昨年の春に時のコーヒーを飲んで以来よく仕事のあいまに寄ってくれる。「こういう作り手の想いがこもった雑誌が注目されてるの」と教えてくれた。
 瑠璃ちゃんが猫好きだから喜びそう、と思ったら。
 ちりん、とひとつ猫の鈴みたいに風鈴が鳴った。風がすっと忍び入る。
 からからから。
 格子戸の開く音がして「桂ちゃん、おはよう」と瑠璃が顔をのぞかせる。
「さっき泰郎さん、帰りはったよ」
 茶わん坂でガラス工房を営む泰郎は瑠璃の父親で、毎朝、『オールド・クロック・カフェ』で過ごすのが日課だ。
「ふらふら帰ってく背が見えた」
 いいながら瑠璃は店内を一瞥する。
「今日も正孝さん、来てへんの?」
 週末になっても正孝が通ってこないことが、常連のあいだでちょっとした話題になっている。瑠璃は後ろを振り返り「来てないわ」と格子戸の向こうにいう。
「ごぶさたしてます」
 藤色の暖簾を分けて入ってきたのは、環だった。
 えっ、桂子はとまどう。環は二月に時のコーヒーを飲んで恋人だった翔を追ってナミビアに旅立ったはずだ。どうして日本に? 
「カウンターでええ? それとも、あの古時計の前の席にする?」
 瑠璃が振り返りながら環に訊く。
「カウンターでいいよ。十六番の時計に挨拶だけしてくる」
 十六番は店で唯一の置床式の時計だ。後ろの壁の中央に風格をまとって鎮座している。環は十六番の時のコーヒーのおかげで翔と復縁した。桂子はそれを思うと、自分が何かしたわけでもないのに胸のあたりがほかほかする。
 とりあえず二人の前に京番茶を置く。
「この番茶の燻された香りをかぐと京都に帰ってきたなあと思うわ」
 環はにっこり微笑み「ちょっと急だけど」と言いながら、カウンター越しにグリーティングカードを差しだす。
「実は再来週の土曜に結婚式を挙げることになって」
「翔さんとですよね。おめでとうございます。どこですか?」
 尋ねながら、桂子はカードを裏返す。
「あ、瑠璃ちゃんと同じ聖アグネス教会ですね」
 聖アグネス教会は平安女学院のチャペルで、瑠璃は一年前にここで結婚式を挙げた。瑠璃と環は平安女学院の同窓生だ。
「あれ? 環さんと翔さんだけのお式じゃないんですね」
 二人の名前の下にもうひと組のカップルが記されている。
「それね、うちの両親なの」
 ええっ! 思わず声をあげてしまい、桂子は口を押えながら瑠璃にちらりと視線を走らせる。
「母が出ていった話、瑠璃から聞いてるみたいね」
 桂子はどう受け答えしていいのかわからず、すがるようなまなざしで瑠璃を見る。
 環の母親は、環が八歳のときに娘と夫を捨ててアメリカに渡った。そのことが環の心を縛っていたと、瑠璃から聞いている。
「両親が復縁したの。それもあの時計と‥‥」
 環は体を斜め後ろに引いて、古老のような古時計を眺める。
「瑠璃のおかげかな」
「環もようやくうちの偉大さを認める気になったか」と瑠璃ちゃんがおどける。
「ところで、正孝君は何してるん?」
 瑠璃は淹れたてのコーヒーの薫りに目を細めながら尋ねる。
「なんか調べものをしてはるみたい」
「何調べてんの?」
「人探しをしてはる」
「人探しぃ?」
 瑠璃が語尾をはねあげる。
「徳光糺さんいう人を探してはる」
「ただす、ってどんな字?」
 環が紅葉柄の京焼のコーヒーカップをおいて尋ねる。
「糺の森の『糺』やそうです」
「うちの祖父と同じね。祖父は清水糺やけど」
「なんでまた、その人を探してるん?」
 正孝が熱中症の老女を助けたこと、その老女が時のコーヒーを飲んで戦争にいった元許婚を思い出したこと、預かっていた天秤を返したがっていることを簡単に話した。
「おばあちゃんの記憶もあいまいで。出町柳あたりに家があったいうことしか覚えてないんやって。でも、出町柳に徳光さんいう家はなかったそうよ」
「正孝さん、ひとりで探してるの」
「孫娘さんと一緒に探してはるみたい」
 ふうん、と瑠璃が意味ありげに桂子を見あげる。
「正孝さん、忙しいんやったら無理ね」
 環が結婚式の案内状をもう一枚手にしていう。
「瑠璃がね、正孝さんも誘えっていうんやけど‥‥プロポーズを断ってるのに‥‥どうかと思って」
 環が困ったように苦笑する。
 そういえば。正孝がカフェを初めて訪れたのは、環からプロポーズの返事を聞くためだった。あえなく玉砕したというのに、正孝はそれよりも店内を埋めつくす柱時計に夢中になり、カフェの常連になっている。
「環さんの結婚式のことを知ったら、正孝さん、喜びはると思います」
 桂子が素直な意見を述べると、環は案内状をもう一枚カウンター越しに手渡す。
「じゃあ、渡しといてもらえるかしら」
 桂子は笑くぼを浮かべてうなずいた。

第7話「天の秤」

 聖アグネス教会のバラ窓から射しこむ陽が、淡く光の模様を描き出す。それらがちらちらと揺れ、パイプオルガンが厳かに響きはじめると、後部座席あたりから「ほおっ」と感嘆を湛えたどよめきと囁きのうねりが起こった。その静かな律動のなかを純白のウェディングドレスをまとった環が父の祐人にエスコートされて進む。ベール越しでも環は息をのむほどに美しい。長くのびるトレーンが列席者の賛美を連れていく。後ろ姿まで美しかった。
 続いて車いすが進む。押しているのは、シンプルなシルバーのロングドレスに身をつつんだ女性だ。環の母の綾だろう。ベールはつけていない。ゆるくウエーブのかかった銀髪に光がさんざめく。初老といっても良いはずの歳なのに、ややうつむきかげんの横顔は環よりもたおやかで匂いたつような華があった。車いすにはタキシード姿の老紳士が背筋を伸ばしていた。銀縁眼鏡をかけ、祭壇を見つめ口を真一文字に結んでいる。
 ああ、この人が。
 正孝は隣に腰かけている澄をそっとうかがう。通り過ぎる車いすを追う目もとに光るものがあった。澄は紅葉の裾模様のきものを着ている。
 環は祭壇前で待っている翔の横に立つ。綾は車いすを最前列の長椅子の前に据えると、環をエスコートした祐人の隣に並ぶ。司祭が親子四人の前に立ち、二組のカップルを祝福した。

 十日前にとつぜん環から正孝に電話があった。
「ご結婚おめでとうござ‥‥」
 スマホの画面に向かってお辞儀をしながら祝いを述べる正孝にかぶさるように、環の興奮した声がスマホから飛び出す。
「正孝さん、徳光糺いう人を探してはるんでしょ」
「うちの祖父、清水糺いうんですけど、その徳光糺なの」
「はっ?」
 意味がわからなすぎて、正孝はとまどう
「さっき判明して、びっくりして。こんな偶然、神様のいたずらかしら」
 ふだん理路整然と語る環にはめずらしく話の糸がもつれている。
「すみません、環さん。ぼく頭の回転がよくないんで、さっぱりわからんのですけど」
 あっ、と小さな声をあげて呼吸を整えるのがスマホ越しにわかった。
「ごめんなさい。気持ちがうわずってしまって。順を追って話します」
 ひと息つくと、いつもの環にもどり筋道立てて語った。
 母とは二月に和解して、そのあとすぐに父母が一緒に暮らしはじめました。だから一時帰国中の今、翔と私は御池おいけ通りのマンションに両親といるの。夕飯のしたくを手伝いながら「友だちが徳光糺さんいう人を探してるけど、見つからなくて困ってる」と話すと、「あら、それおじいちゃんのことよ」と。母はそんなことも知らんかったのという顔で言うんです。「環には話してなかったかしら」ですよ。もうびっくりして。祖父は清水家の婿養子で旧姓を徳光といい、出町柳の家は弟が継いだけど、その息子つまり母の従兄が東京に移るときに売り払い、今は学生向けのアパートになってるはずよ、と。三十歳になって祖父が婿養子と知るなんて。青天の霹靂とはこれを云うのかと思ったと、環がため息をもらす。
「祖父には許婚がいて、正孝さんがその方のために祖父を探しているのでしょう。こんな偶然ってある?」
 それに、と環は続ける。
 正孝さんの人探しを母に話さなければ。その前に私が母と和解していなければ、話す機会もなかっただろうし。正孝さんが澄さんを助けなければ。澄さんが時のコーヒーを飲まなければ。そんなたくさんのイフがなければ。祖父と澄さんは二度と永遠につながることはなかった。それを思うと体が震えるの――。
 正孝も信じられないような偶然のドミノ倒しに動悸があがる。
 環がいうように、どのピースが欠けても澄と糺は永遠に再会することはなかっただろう。時代のうねりに翻弄され、別々の川に流された二枚の葉がまた巡り合うことなど、数億分の一の確率、いやもっと稀かもしれない。
 あれから何度も偶然の数珠つなぎを正孝はなぞった。そのたびに皮膚が粟立あわだち、心臓がぶるっと震えるのだった。


 空は高く天に抜け、秋の陽光が教会のレンガをいっそう濃く染める。烏丸からすま通りに沿って長く延びる御所の垣は紅葉がまもなく見ごろだ。
 列席者たちはブーケトスを待って、チャペル前で談笑している。
 その人混みを縫うようにして瑠璃が車いすを押しながら、鐘楼前で佇む正孝たちのもとに近づいてくる。
 澄の隣には直美が寄り添っている。
 澄を支柱にして直美と反対側に立つ正孝は、黒縁眼鏡の奥の目を凝らす。
 桂子は正孝の半歩後ろで控える。糺さんが見つかったこと、それが誰だったかを話すと、桂子は目を丸くして「そんなことがあるんですね」と嘆息をもらし、七番の柱時計を見あげ「ありがとう」とつぶやいていた。
 二人が糺の森で別れてから、どのくらいの歳月が置き忘れられてきたのだろう。隔たれた時間が互いに歩み寄り高速で縮まっていくようだ。それを加速させるように、さああああっと一陣の風が吹きすぎ落ち葉を舞いあげた。
「糺‥‥さん」
「澄ちゃんか」
 二人ともあとが続かない。
 糺が車いすからじっと澄を見あげる。
 古い写真とは異なり細い銀縁眼鏡をかけた糺の目は切れ長で、歌舞伎役者の片岡仁左衛門を思わせた。似ていたのは眼鏡だけかと、正孝は心のうちで苦笑する。
「あの日のきものですね」
 梨地に紅葉の裾模様のきもの姿の澄に、糺は目を細める。
「覚えてはったんどすか」
 二人だけに通じる会話が時を巻き戻す。
「きれいやなあと思ったからね」
「そんなことひと言も」
「はは。若かったから、照れくさくて言えんかった」
 澄はこのひと言で、もう十分やと思った。
 時のコーヒーで見た場面が脳裡によみがえる。幻やなかったんや、あの日のことも、うちの淡い想いも。糺さんは覚えてくれてはった。そやのに、うちはずっと忘れてた。その懺悔が喉を締めあげる。
「うちは長いこと‥‥糺さんのことを忘れてました。どない謝ったらええのか。ほんまにすみません。お帰りを待たずに嫁いでしもて。復員しはったことも知らんかった。かんにんしてください」
「復員したことは澄さんに伏せといて欲しいと、私がお願いしました。せやから澄さんが謝らなあかんことは、ひとつもない」
 時がほぐれて二人の視線がからまる。
 おばあちゃん、と直美が澄の背から声をかけ紙袋をかざす。
「せや、うち、糺さんにお返しせんとあかんもんが」
「直ちゃん、うち手が震えてしもて。落としたらあかんさかい、あんたから糺さんに」
 と直美を振り返る。
 直美が袋から黄色い鬱金うこん布に包まれた天秤を取り出し「失礼します」と断りをいれて、糺の膝の上に置く。
「捨てずに持っててくれ‥‥」
 糺の言葉が空に消える。
 澄が首をふる。
「嫁ぐとき妹の里子に預けました。暮らしに追われるうちに忘れてしもて。お返しするのが、こないに遅なってすみません」
 澄が深々と頭をさげる。
「この写真もお返しします。天国にいるあの人がねそうやから」
 古い写真を差し出す。
「けど、この手紙はうちがもらってもかましまへんか」
 茶色く変色した手紙を澄は胸に抱く。 
「糺さんは無事お帰りにならはったけど、先日、封を開けさせてもろて、こっちの若い糺さんに読んでもらいました」
 澄が正孝を見あげる。
「出過ぎたまねをして、すみませんでした」
 正孝は糺に向かって直角に頭をさげる。
「ああ、君が。私を探してくれたんやてなあ。環から聞いてます。ありがとう。ぜんぶ君のおかげや」
「ほな、澄ちゃん。これは私が持ってても、ええやろか」
 糺は車いすの座面の脇に置いていた手紙の束を持ちあげる。
「えっ、それは」
 澄の目が大きく見開き、ふらっと揺れるように一歩車いすに近づく。
「うちの‥‥手紙」
「そう。君からの手紙に戦場でどんなに慰められたか。こんなに送ってくれたのに私は一通も返事を書かんかった‥‥ほんまにひどい男や」
 糺は澄から視線をはずし、遠い目をして鐘楼の上の空を見あげる。何かを噛みしめるように口を真一文字に結んでいた。
「青かったんやなあ」
 嘆息ともとれる声をぽつりともらした。
「その手紙にしても‥‥」
 と澄が胸に抱いている手紙に目をやる。
「返事をわざと書かんかったことも」
「婚約解消を申し出たことも」
 自らを責めるように、ひとつひとつ区切っていう。
「ぜんぶ自分の思いあがりやった」
「未練を残させんことが澄ちゃんのためやと。そんな自分に酔いしれてた。若気の至りいうたらしまいやけど。婚約は解消される、返事は届かん。それが君をどれだけ不安にさせ絶望に落としたか。そのことにちっとも思い至らんかった。独りよがりで、自分勝手で。あの頃の自分を張り倒してやりたい。生きる希望が日々浸食され失われていく戦場で、自分は毎夜、君からの手紙を読み返し慰められてたいうのに‥‥」
 瑠璃がどこからか折り畳み椅子を持ってきて、澄に腰かけるようにうながす。直美が礼をいう。「うち、ここの卒業生やから」とウインクし、「環の写真撮ってくるわ。桂ちゃん、あとはよろしく」と去ろうとする瑠璃に、「私も行く」と桂子がいうと「あとで報告してもらわんとあかんのやから、桂ちゃんはここにいて」と桂子の肩をつかんで正孝の隣に並ばせ、つむじ風のように去っていった。
 そこにいた全員があっけにとられ、やがて誰からともなく、ふふふふ、ははははと笑いのさざ波が立ち、糺の告解にしずまっていた場がふっとやわらいだ。
「弁護士にならはったんどすか」
 糺の膝の天秤を見つめながら澄が尋ねる。腰かけて同じ目線になったからか、澄の緊張もほどけている。
「回り道をして十年かかりましたよ」
 糺は天秤を持ちあげる。真鍮の支柱が秋の陽を受けて光る。
「なんで清水姓になったか。おかしい思いませんでしたか」
「ええ、それは。糺さんは長男やったのに。なんで婿養子に」
 おそらくここにいる皆が疑問に思っているだろう。
「平たくいえば親父に見限られた。裏を返せば親心、でしょうか」
 糺は自嘲ぎみに口角をあげ、長なるかもしれませんが、と断りをいれる。
「天秤は公正と平等、正義の象徴やけど。戦場いう狂気が支配する極限では、正義はおろか公正も平等もなんの役にも立たん。砲撃はスコールのごとく降ってくる。公正や平等を叫んでも弾がけてくれるわけやない。生き残るためには、高邁なことは絵に描いた餅にもならんのです。自分がめざしてたものは、なんやったんやろと絶望しました」
「せやから復員しても、復学する気にはなれんかった。それに‥‥。京都は幸いにも空襲をまぬがれました。自分が必死でかいくぐってきた世界とのあまりの違いに、かえって『生きている』感覚が希薄になりました。町が焼かれんかったこと、家族が無事なことを喜ばんとあかんのに。無為な日々を二年も過ごしたころでしたか。母方の遠縁にあたる清水家に婿養子に行けと親父からいわれました」
「その少し前に弟の隆が司法試験に合格しましてね。ああ、やっかいばらいやなと。今から思えば、親心やったと思います。戦争で打ちのめされた息子を法曹の世界から解放してやろういう。せやけど青かった自分にはわからず、勘当なんやと受け取りました」
「義父の紹介で勤めた小さな電機会社では、油にまみれて機械造りもしたし、営業もなんでもしました。私に法律の知識があることがわかって渉外関係の仕事をまかされるようになって。そのうち眠ってた弁護士への想いが頭をもたげてきてね。公正と平等は平和があってこそやないか、そんな考えも育ちました。家内の勧めもあって、もっかい勉強し直した。せやけど憲法から何から何まで変わってますやろ。仕事を終えてからの独学では試験に通るまでかれこれ三年ほどかかってしまいました」
 糺の述懐に誰もなにも言えない。
 彼が歩んできた時が落ち葉のごとく降り積もる。
 澄は誠二郎と笑って過ごしてきた自分との違いを思ってじわりと熱いものがこみあげる。それを察したのだろう。
「ああ、すみません。しんみりさせてしもて。めでたい日やいうのに」
 ブーケトスがはじまったのだろう、祝福の歓声と拍手が空にこだまする。
「あれは、娘と孫です」
「お二人とも、ほんまにきれい」
 直美が心底うっとりしたように、明るい声を響かせる。
「お幸せそうどすなあ」
 澄もゆるりと笑む。
「今日ほど嬉しい日はありません」
 銀縁眼鏡の奥の切れ長の目が潤む。
「法律をあつこうてるからか、生まれつきの性分か、どうも私は融通が利かんたちでね。それが娘の人生をだいなしにしてしもたんです」
 桂子と正孝が、あっという顔をする。
「なんで娘夫婦も式を挙げたか、わかりますか」
 シルバーのドレスの女性が満面の笑みでブーケをふっている。
「孫の環がまだ八歳のときでした。娘はあろうことか、家族を捨て元恋人とアメリカに行ってしもて。それを知った私は激怒しました。それがたった三年で帰国しよった。あっちがあかんようになったから元鞘に収まるなど言語道断。二度と京都の地を踏むなと厳命しました。それこそが人倫にかなった正しさやと決めつけて、正義を振りかざしたんです」
「結果、娘だけやのうて、孫も夫の祐人君も長い間不幸にしてしもた。もっと早うに復縁させてたら‥‥。いくつになっても私は心の機微に気づかん。澄さんを傷つけたあの頃から成長してへんかった」
「あの三人いや四人が、ああやって笑顔で。ほんまに、今日は嬉しい。澄ちゃんにもまた会えて。こないに嬉しい日はありません」
 糺の目尻の皺がかすかに濡れる。だが、その表情は晴れやかだった。
「澄さんは天秤の片皿に釣り合う、ええ人に巡り合えたんですね」
 糺は天秤の皿をそっとはじく。真鍮の鎖が鞦韆ぶらんこのようにくるくる回る。
「なんで、そない思わはるんどすか」
「忘れてた言うてはりましたなあ。忘れるいうのは、後ろを振り返らず前を向いて生きてきたいうこと。共に同じ方向を向ける人と歩んできた証左やないやろか」
 あっ、と澄は口を押える。
「この皿に乗るのが私でなくて、ほんまに良かった」
「そないなこと云うたら、糺さんの奥さんが怒りはりますえ」
 ははは、それはそうやと、糺が頭を掻く。
「お互い連理の賢木さかきに巡りおうたんですなあ。そや、こんど糺の森に行きませんか」
「こないだ、こっちの若い糺さんと行ってきました」
 澄が正孝を見あげて微笑む。
「そら、若いほうがええわ。私は車いすやし」
「もしお邪魔でなければ、ぼくが車いす押しますよ」
 正孝が澄の背後から申し出る。
「ほんなら、若い糺さんとほんものの糺さんと。うちは両手に花どすなあ」
 澄が少女のようにはにかむ。
しかたの積もる話も多い。幼なじみとして、たまにゆっくり話もしましょう。いい喫茶店を孫から教えてもらいました」
「うちも、ええ喫茶店を知ってます」
「オールドコーヒーやったかな、時計がぎょうさん飾ってあるらしい」
「まあ、オールコップですよ。うちも、そこにご案内しよう思うてました」
「おばあちゃん、オールド・クロック・カフェよ」
 直美がこそっと耳打ちする。
 桂子と正孝が顔を見あわせて笑む。
 風が運んできた紅葉がひとひらずつ天秤の両皿に舞い降りた。


(5杯め「糺の天秤」 Good Taste End)  

「またのお越しをお待ちしております」   店主敬白

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