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『オールド・クロック・カフェ』2杯め「瑠璃色の約束」 <全文>

 その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、春になると軒下で忘れな草がほほ笑む。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。

 そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。

Old Clock Cafe

6時25分のコーヒー       ‥‥500円
7時36分のカフェオレ      ‥‥550円
10時17分の紅茶         ‥‥500円
14時48分のココア        ‥‥550円
15時33分の自家製クロックムッシュ‥‥350円

 なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。そこにどんな秘密があって、何を意味しているのかも。ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止めて、開け放たれた格子戸から中を訝し気に覗きこむ人がいる。

 いらっしゃいませ。ようこそ、オールド・クロック・カフェへ。
 あなたが、今日のお客様です。


* Second Cup of Coffee *

 からからから。
 格子戸が小気味いい音を立てて開けられた。さっと風が立ち、花びらが二、三片ひらひらと迷いこみ黒光りする土間に模様をつける。それをよろこんだのか、店の壁を埋め尽くす32個もの柱時計がうれしそうにめいめいに時を打ち、指揮もないのにシンフォニーを奏でていた。
 春の朝の凛とした冷気に、しゅんしゅんとケトルが声をあげ湯気をくゆらせる。通り庭の軒下で忘れな草が青い小さな花を揺らしていた。

「桂ちゃん、おはようさん」
 片手をあいさつ代わりにすっと挙げて、藍の作務衣姿の泰郎さんが入って来た。
 桂子は通り庭に面した格子戸の桟を拭いていた手をとめて振り返り、「おはようございます」とえくぼを浮かべる。

「今朝は時計がにぎやかやな。ようやく俺を歓迎してくれる気になったか」  ぼーん、ぼーんと気ままに声をたてる柱時計を一瞥しながら、カウンターに腰をおろす。
 近くの茶わん坂でガラス工房を営む泰郎さんは、祖父のころからの常連さん。いつも8時過ぎくらいにふらりとやって来て、工房を開けるまで2時間くらい腰を落ち着ける。春とはいっても花冷えの日もあるというのに、素足にクロックスを引っかけ、手には新聞を携えている。「作務衣にクロックスでも別にええねんけど。でも、あれで接客はどうかなと思うのよね」娘の瑠璃ちゃんがよく愚痴ってる。

 瑠璃ちゃんは、わたしより8歳上でことし30歳になる。そして、この6月10日に結婚する。
 瑠璃ちゃんがカフェにやって来るのは、たいてい休日の昼過ぎ。だから、朝一番の泰郎さんとかち合うことはない。だって、お父さんがいたら桂ちゃんとゆっくり話ができへんやん。

 大きなアーモンドアイと小柄な背格好のため年齢よりもずっと幼く見られがちの瑠璃ちゃんは、黙っているとビスクドールのように愛らしいのだが、口を開くとさばさばした性格が姿を現し、たいていの人はそのギャップにとまどう。
「いやぁ、ぎっりぎりセーフって感じかな」
 瑠璃ちゃんの誕生日は6月15日で、結婚式はその5日前だから、「詐欺みたいなもんよね」という。
 詐欺とは穏やかならぬ言いようだが、訳があるらしい。彼女がまだ25歳のとき。祇園に『イル・プリモ』という高級イタリアンがオープンして話題になった。ディナーだと2万円はくだらないと噂で「一度は行ってみたいね」と職場で話していると、同僚男性が「お前が30歳になるまでに結婚できたら、そこのコース料理おごったるわ」と賭けをもちかけられた。結婚できなければ、逆に瑠璃がご馳走するルール。まだ5年もあったのに「この勝負もらったも同然や」って言うのよ、失礼よね。

「結婚式の日取りを6月10日にしたのは賭けのためやないよ」
「桂ちゃんの誕生日でしょ。その日」

 近所の人や常連さんは、わたしのことを「桂ちゃん」と呼ぶ。
 桂子と名付けたのは祖父だ。六月十日の「時の記念日」に生まれたことを祖父は誰よりもよろこんだ。「時計の神様が孫を授けてくだすったんや」と。小学校にあがるまで店の二階で祖父母と母と四人で暮らしていた。
「桂はな、月にある木のことや。月の桂いうてな。西洋には月桂樹いうのもあるんやで。太陽の神様アポロンの木や。月と太陽、どっちも関係がある。時の記念日に生まれた子にはぴったりのええ名前やろ」
 祖父の膝にのって繰り返し聞いた。柱時計たちが祖父の話にうなずくように、ぼーんぼーんと唱和する。

 瑠璃ちゃんと出会ったのも店だった。
 瑠璃ちゃんも一人っ子。わたしも一人っ子。歳の離れたお姉ちゃんができたみたいでうれしかった。八坂の塔でかくれんぼしたり、あちこちの路地を猫を追っかけて探検したり。お気に入りだったのが庚申堂。赤や黄、青、緑のカラフルなくくり猿がかわいくて。青色がいくつあるかふたりで数えた。どこに行くにも瑠璃ちゃんが手を引いてくれた。


「じいさんの具合はどうや」
 泰郎さんが新聞を広げながら訊く。
「こないだ退院して、今、うちに居てる。元気にしてるよ」
 祖父は肝炎で入院するまで店の2階で暮らしていたが、一人暮らしをさせるのは心配だと母が言いだし、退院後は桂子の家にいる。
「ここにはもどって来んのか」
「カフェはお前にまかせたさかい、憧れの隠居生活を楽しむわって」
「時計のメンテナンスにときどき来るけど。あとは、弘法市ひやかしに行ったり。句会にも入ったみたい」
「元気で何よりやな」
 泰郎が広げたばかりの新聞をたたんだり、また広げたりしながら、桂子をちろちろ見る。どうも、何か言いたげだ。口をなかば開けてはためらい、水のグラスに手をやる。そういえば、注文もまだだった。


 先週の土曜日にカフェに現れた瑠璃から、桂子は重要なミッションをさずかっていた。
「ここの隠れメニューに『時のコーヒー』ていうのがあるやろ。忘れ物に気づかせてくれるいう不思議なコーヒー。あれ、うちのお父さんに飲ませてくれへんやろか」
 瑠璃がつぶらな瞳をさらに大きく見開いていう。
「瑠璃ちゃんのお願いは叶えてあげたいけど。そればっかりはなぁ。うちの力ではどうしようもないねん」
「そこに番号のついた小抽斗があるやろ。豆は時計の番号ごとに抽斗に入ってるんやけど。時計が鳴らんと、ただのコーヒーやねん」
 カウンターの後ろにある薬箪笥の小抽斗を開けてみせる。
「時計に気に入られんと、あかんみたい」
 桂子が、ほんまにごめん、と頭をさげる。
「そっかぁ。時計に選ばれんと、あかんのかぁ」
 瑠璃がため息をつく。
「うちのお父さんじゃ、時計も気乗りせんよね」
 カウンターに座っていた瑠璃は、振り返って店内の柱時計を見渡す。
「なんか、思い出してほしいもんがあるん?」
「うん、ちょっとね。まあ、でも。すっかり忘れてるところが、お父さんらしいねんけど。しょうがないか」
 瑠璃はいつになく、少し寂しそうに笑った。


「泰郎さん、いつものでええの?」
「ああ。トーストは厚めで‥。お、これ俺の作品やな」
 口のすぼまった小ぶりの涙形のガラスの器を指さす。白っぽい気泡がリズミカルに浮かんでいて、生けている青い可憐な花がよく似合っていた。
「この花、何ていうんや」
「忘れな草」
「へえ。これが忘れな草か」
 これまで花になど興味を示したことのなかった泰郎が、淡いブルーの小さな花をしみじみと見つめている。やっぱり今朝の泰郎さんは変だ。

 花を眺めていて気づいたのだろう。欅の一枚板のカウンターの角に束ねて置いていた大判のハガキを手に取る。
「あ、それ。『時のコーヒー』を飲まはったお客さんのお父様が画家さんで。四条西洞院で個展を開いてはって。その案内状」
 あれから亜希が20部ほど届けてくれていた。
「みごとな空やな」
「でしょ。実物はもっときれいやった」
 泰郎はハガキの表と裏を交互にひらひらと返す。
「このお客さん、『時のコーヒー』を飲んだんや」
「その画家さんの娘さんがね」
「ええなぁ。俺なんか長年通ってるのに、いっぺんも飲んだことないで」
「泰郎さん、時のコーヒー、飲みたいの?」
 意外なことに泰郎から引っかかってくれて、桂子は内心どきまぎする。
「飲みたいっちゅうか」
 泰郎がためらうように上目づかいで桂子をちらっと見る。ほんの数分、いや数秒だったのかもしれない。沈黙が時を止める。カッチカッチと時を刻む柱時計の鼓動と、しゅんしゅんと湯気をあげるケトルの呼吸だけがこだましていた。静寂を破ったのは、通り庭の花水木の梢で羽を休めたひよどりの甲高い一声だった。

「桂ちゃん、瑠璃からなんか聞いてへんか」
 桂子が首をふる。
「もうすぐ花嫁になるいうのに、瑠璃のやつ、だんだん不機嫌になっていくんや。ふつうは花嫁の父が不機嫌になるもんやろ」
 泰郎が相槌を求めるように桂子を見る。
「男手ひとつやったから。しぜんと小学生のころから家事をやりだして。気ぃついたら、俺のほうが面倒みられてるみたいになってもてな。結婚が遅なったんも、俺のことが気がかりやったからや」
「せやから、結婚が決まって俺はうれしいねん」せやのになぁ、とため息をつく。
「俺がなんか忘れてるんやろな」
 泰郎にしては勘が冴えていることに、桂子は驚いた。
「泰郎さん、それ当たりやわ。こないだ瑠璃ちゃんが来て、お父さんに時のコーヒーを飲ませてほしいって頼まれたとこやの」
 泰郎が「やっぱりか」と目をみはる。
 瑠璃が泰郎に何を忘れているかを告げれば済む話なのだが。
 でも、瑠璃ちゃんはお父さんが忘れていることが悲しいんや。目の前でうなだれている泰郎を見ながら、桂子は瑠璃の寂しげな顔を思い出す。

「これはうちの仮説やねんけど」
 泰郎が顔をあげる。
「席が関係あるような気がする」
「席?」泰郎が怪訝な顔をする。
「時のコーヒーやけど、常連さんで飲まはった人っておらんような気がして。なんでやろて、考えたの」
 桂子は漏斗にネルをきせ、挽きたての豆をあけると、ケトルの湯を少し注いで粉を蒸らす。かすかにコーヒーの甘い薫りがただよう。
「常連さんは、たいがいカウンターに座りはるやろ」
「そら、じいさんや桂ちゃんと話したいからな」
「うちが店継いでから時のコーヒーを飲まはったお客さんは二人。二人とも飲んだあとで、居眠りしはってん」
「ああ、それは聞いたことあるな」
 コーヒーの粉がひと粒ひと粒目覚めて、メレンゲ菓子のようにぷくりと膨らむのを確かめると、桂子はゆっくりと円を描くように湯を注ぐ。

「カウンターの椅子にも背もたれはあるけど。でも、ここで居眠りしたら、転げ落ちてしまいそうやん」
「そやな」
 カウンターの椅子はいわゆるスツールタイプで、背もたれはそれほど高くない。
「だから、テーブル席でないとあかんのかなって」
 ネルをつたってコーヒーのしずくが落ちてゆく。深く濃い香りが空気に浸みてただよいはじめる。
「泰郎さん、ものは試しでテーブル席に座ってみるのは、どう?」
「せやな。ダメもとで試してみるか」
 泰郎が新聞をたたんで立ちあがり、背中をカウンターにあずけながら尋ねる。
「で、どのテーブルがええんや」
「テーブルはどれでも同じちゃうかな。一人めのお客さんは前庭側のテーブルで、二人めは通り庭側やったから」
「ほな、俺はまん中のテーブルにしよか」

 泰郎がぱったぱったとクロックスの音を響かせながら、新聞を手に中央のテーブルに向かう。桂子は水のグラスを取りかえ、焼きあがったトーストといしょに盆にのせカウンターを出たところで立ち止まった。店中の柱時計を左から右へと順に見渡し「お願い。だれか、瑠璃ちゃんの願いを叶えてあげて」とつぶやく。

「この椅子、ほんまに座り心地ええなぁ」
 泰郎が新聞をテーブルに置いて、ゴブラン織の生地が張られた椅子の背もたれに体をあずける。桂子が水のグラスとトーストの皿をテーブルに並べたときだった。

 くるっぽー、くるっぽー。
 前庭側の窓の上に掛けられている鳩時計から、鳩が出たり入ったりしながら少しくぐもった鳴き声をあげた。幼いころ瑠璃と桂子が飽きずにながめた時計だ。

「泰郎さん、8番の鳩時計が鳴ったよ」
 桂子は泰郎と顔を見合わせ、思わずハイタッチする。
「よっしゃ、これで俺も時のコーヒーを飲めるんか。桂ちゃんの仮説のおかげや。おおきにな」
 泰郎は、まだ、時のコーヒーを飲んでもいないのに目尻にうっすらと涙をにじませている。

「大至急、8番の時のコーヒーをご用意いたします」
 桂子は盆を脇にはさんで、おどけて敬礼のポーズをとる。踵を揃えてくるっときびすを返すと、盆を胸に抱えカウンターまでスキップのような小走りをしながら、心のなかで「瑠璃ちゃん、よかったね」「鳩時計、ありがとう」と何度もつぶやいた。


* * Cuckoo Clock * *

 8番の鳩時計は森を思わせるような黒く深い緑色の木製で、屋根のある家型をしていた。小人や動物が踊るにぎやかな鳩時計もあるが、これは屋根の窓から白い鳩が顔を出すだけのいたってシンプルなタイプだ。ただ、時計の周りに白い木彫りの鳩が5羽とまっていて、深緑と白のコントラストが冴え、森の山小屋で鳩が遊んでいるようだった。

 泰郎はゴブラン織りの椅子に深く体をあずけながら、バターがたっぷりとしみた厚切りのトーストをほおばり、鳩時計を見るともなしに眺めた。
 瑠璃が思い出してほしいものとは、何だろう。
 さばさばした性格の娘は、わりとなんでもずけずけ言う。それが口を閉ざして、不機嫌を薄い膜のように一枚ずつ日ごとに積み重ねていっている。その原因が何かわからない自分が,、泰郎は情けなかった。

「お待たせしました。8番の『時のコーヒー』です」
 桂子が少し緊張してうわずった声でカップをテーブルに置くと、盆を胸に抱えて鳩時計を振りかえる。
「泰郎さん、鳩時計が指してる時刻が、忘れ物と関係があるって知ってた?」
「それは知らんかったな」
 泰郎が鳩時計を見上げ、目を細める。
「11時13分か」
「その時刻に何か心あたりは、あらへん?」
「そないな細かい時刻覚えとったら、何を忘れてるか、とうに思い出しとるやろ」
「それも、そうね。じゃあ、時のコーヒーをゆっくり味わって」
「ああ。思い出してくるわ」
 毎朝、ここでコーヒーを飲んでるけど、カップを持つ手が震えるのは初めてやな、と泰郎は自嘲しながら、湯気とともに立ちのぼる燻された桜チップのような深い薫りを胸で味わい、おもむろに口を近づけた。

 くるっぽー、くるっぽー。
 鳩時計が泰郎をうながすように声をあげた。
 


* * Time Coffee * *

 二口めを喉でゆっくりと味わううちに、いつしか泰郎は意識の深淵へと降りていった。何もない無の空間が広がっている。そこに、ぽっと白い光が浮かんだ。瞬くまに広がり大きな白い光の円となる。と、見るまに、光はばたばたと蠢き、その動きがだんだん大きくせわしなくなるや、無数の翼の羽ばたきとなり、次から次へと飛びたちはじめた。翼の大群が泰郎の視界を掠め、彼方へと飛んでいく。純白の鳩たちだ。視界のあらゆる方向にいっせいに飛びたつと、まっ白な翼の向こうに青い空が透けてみえた。
 リーンゴーン、リーンゴーン、ゴーン。
 荘厳な鐘の音が、輪唱のように拍遅れで重なり響き合う。
 視界が突然クリアになり、視線が天から地上に舞い降りた。

 歳月を丁寧に積み重ねた赤レンガのチャペルから純白のウェディングドレス姿の花嫁が、銀のタキシードの花婿の腕に手を添えて現れた。美しく着飾った人びとが拍手で迎える。チャペルの扉からまっすぐに緋色の絨毯が敷かれていた。その端に、明らかに招待客とは異なる普段着姿の親子の背が見えた。父親らしき男は、白っぽいの麻のジャケットにベージュのチノパンを履いている。5、6歳くらいの少女は裾にフリルがついている濃いブルーのTシャツに白のクロップドパンツ姿だった。

 ああ、あそこにいるのは俺と瑠璃だ。
 泰郎は、偶然、結婚式に出くわした25年前のことを思い出した。

 あれは妻の美沙が交通事故で亡くなって、3カ月ほど経ったころだ。
 自転車で横断歩道を渡ろうとして、前方不注意で左折してきたトラックに美沙は跳ね飛ばされた。自転車ごとガードレールにぶつかり、その弾みで美沙の体は空中に投げ出され、コンクリートの歩道に後頭部から落下した。脳挫傷による脳内出血と頚椎損傷。即死に近かったらしい。警察から連絡を受け、泰郎が瑠璃を抱えて病院に走り込んだときには、顔に白い布がかけられていた。

 突然の事態を、泰郎は呑み込めず、受け入れられなかった。
 白い布の下の美沙は、いつもの美沙で、少しだけあがった口もとは微笑いんでいるようで寝息が漏れ聞こえてきそうだった。
「ママ、なんでこんなとこで寝てるん? お顔にハンカチのせて、変なの」
 瑠璃の止まらないおしゃべりが、さざ波のように寄せては返す。泰郎にはその先の記憶がなかった。通夜も葬儀も喪主として勤めはしたが、ずっとアクリルチューブの水底にいるような感覚だった。

 四十九日の法要が済んでひと月ほど経ったころだ。心配してようすを見に来た母にさりげなく提案された。
「瑠璃ちゃん、うちで引き取ろか」
「えっ。なんでや」
「俺から、瑠璃まで奪うんか!」
 泰郎は思わず声を荒げた。母があわてて口もとに指を立てて、しーっというしぐさをしながら、後ろの襖に目をやる。
「大きな声あげたら、瑠璃ちゃんが目ぇ覚ますやろ」
「あんたなぁ、気ぃついてはるか?」
 母が押さえた声で指摘する。
「瑠璃ちゃん、指しゃぶりしてるんぇ。来年、一年生になるいうのに。あれは、赤ちゃん返りの一種や。それにな、しょっちゅう、まばたきもしてるやろ。チックやと思うわ」
「チック‥‥って、何やそれ」
「はっきりしたことはわからんぇ。でもな、子どもにストレスがかかると出る症状や」
「あんた、美沙さん亡くして。自分のことで精一杯で、瑠璃ちゃんのことまで見てる余裕なかったやろ」
「ママは、死んでしもた。パパも、ぼーっとしたまま自分を見てくれへん。そら、5歳の子にとったら、ひとりぼっちになったような寂しさや。なんぼおしゃまやいうてもな、まだ、ややこしい感情をうまいこと言葉にでけへんやろ。子どもはな、自分が困ってることをうまく言えんから、体に症状として出るんやで」
「まだ、甘えたい盛りやねんから」

 泰郎は茫然とした。妻を失った喪失感の前で虚無に囚われたまま、幼い瑠璃をすっかり置き去りにしていた。淡々と日常生活をこなしていたが、心は薄い玻璃の繭のなかで膝を抱えてうずくまったまま。泰郎の目には何も映っていなかった。瑠璃のことも見えていない、いや、見ていなかった。
 美沙が亡くなった当初、瑠璃はずっとべそべそと一日中泣いていたが、いつのまにか泣かなくなっていた。泰郎には、それがいつからだったのかもわからない。母親の死をどれほど理解できているのだろう。突然、ママがいなくなり、パパもまるで自分に関心をはらってくれない。それが、どれほど幼い瑠璃を打ちのめしていたのだろうか。

 泰郎は母から指摘されてはじめて、そのことに気づいた。ようやく目が覚めたと言っていい。まずは俺が、美沙のいない現実を受け止めな、あかん。今、いちばん大事なんは瑠璃や。
 それから泰郎はできるだけ瑠璃といることを優先した。瑠璃が幼稚園から帰って来ると、工房に連れていく。瑠璃も遊びに出るとも言わず、工房で泰郎といた。

 その日は、K B S 京都でラジオ番組出演の打ち合わせがあった。『みやこの匠はん』という番組で、毎回、若手の工芸作家を一人ゲストで迎えるという番組だ。ゲストが次のゲストを紹介することになっていて、泰郎は清水焼とアートを融合させ話題の斎藤琢磨からの紹介だった。打ち合わせは30分もかからないという話だったから、瑠璃を連れ、打ち合わせの後で御池通にあるマンガミュージアムに行く約束をしていた。

 美沙の事故からしばらく、瑠璃は車に乗るのを嫌がった。だから、阪急電車と地下鉄を乗り継いで打ち合わせに向かった。6月に入って季節は一足飛びに進んだかのようで、その日は梅雨のあいまのじわりと汗ばむ陽気だった。地下鉄丸太町駅で降りて、御所の横を北に向かって瑠璃と手をつないで歩いていた。
 すると、リーンゴーンと辺りの空気を震わせる音が耳に届いた。
「パパ、あれは何の音?」
「教会の鐘ちゃうか。そこに赤レンガの教会があるやろ」
 ちょうどチャペルから花嫁が出て来るところだった。瑠璃が「うわぁ」と言って走り出した。「お姫様みたい」瑠璃が目をきらきらと輝かせ興奮ぎみに眺めている。
「パパ、パパ。きれいやなぁ」
「ああ、ほんまに、きれいやなぁ」
 美沙が亡くなってから、こんなに生き生きとした表情を瑠璃がみせたのは、はじめてだった。

 その時だ。花嫁が手にしていたブーケを空高く投げた。色とりどりのドレスに身をつつんだ若い女性たちが、いっせいに手を伸ばす。その指先をブーケが跳ね、転がっていく。それを一羽の鳩がくちばしで突っついた。すると、ぽんと大きく跳ねあがり、きれいな放物線を描いたブーケは、瑠璃の目の前に降って来た。瑠璃は訳もわからず反射的に両腕を交差してキャッチした。「落としちゃいけない」ゲームとでも思ったのだろう。
「パパぁ、取ったよ!」大仕事を成し遂げたような顔で泰郎を見上げる。まわりから歓声があがった。
「小さな女の子が取ったよ」
「うわぁ、いいね。うらやましいわ」
「良かったね」
 きれいなドレスのお姉さんたちが瑠璃を取り囲み、次々に声をかける。その輪の中で瑠璃は、何が起きたのかもわからないまま、でも誇らしげに顔を上気させていた。

「ええなぁ。お嬢ちゃんが次に結婚できるんよ」
 エメラルドグリーンのワンピースを着た女性が腰をかがめて瑠璃にいう。瑠璃が「えっ?」と泰郎を見上げる。泰郎は、どう説明したものかと頭を搔きながら、瑠璃の前に膝をついた。

「瑠璃、それはな、ブーケいうて、結婚式が終わると花嫁さんが投げるんや。ほんで、その花束をゲットした人が、次に結婚できるそうや」
「瑠璃、結婚するの? 花嫁さんになれるん?」
「そやなぁ。でも、瑠璃が結婚してしもたら、パパ、寂しなるな」
「なんで?」
「瑠璃と別れんとあかんからな」
「えっ」と瑠璃が大きな目をさらに大きく見開く。
「なんで、なんで。パパと離れるのはいやや。瑠璃、結婚せぇへん」
 瑠璃と泰郎を取り囲む輪に、花嫁が近づいて来た。
「ほな、瑠璃。そのブーケ、花嫁さんに返そか」
 瑠璃がコクリとうなずいたのを確かめて、泰郎が花嫁に顔を向ける。
「すみません。ちょうど娘の前にブーケが落ちてきて。娘が取ってしもたんですけど。まだ、結婚はせぇへん言うんで。ブーケトスやり直してもらえませんか」
「ええ。こちらこそ、すみませんでした。でも、せっかくですから」
 そう言って、花嫁はふわりとドレスを広げ、瑠璃の前に腰を落とした。
「お嬢ちゃん、ブーケをキャッチしてくれて、ありがとう。また、返してくれてありがとうね。それでね。好きなお花をプレゼントしたいんやけど、どれがいい?」
「これ」瑠璃が指さしたのは、薄い水色の小花のひと群れだった。
「ブルーのお花だったら、こっちのカーネーションのほうが大きいけど。それで、ええの?」
「うん。これが、かわいい」
「それね、忘れな草っていうのよ。私を忘れないでね、ていう名前の花よ」
 花嫁はブーケから忘れな草の枝を一本ずつぜんぶ抜いて小さな花束を作り、瑠璃に「はい」と渡した。

 瑠璃はそれを胸の前で握りしめながら、泰郎の耳もとでささやく。
「パパ。瑠璃はもう、結婚せぇへんから、寂しくないよ」
 泰郎は娘のほうに顔を向ける。瑠璃は、さも重大な秘密を打ち明けたような顔をしている。
「ありがとうな」
 泰郎は瑠璃の頭をなでる。
「こんなかわいい瑠璃が、今すぐ結婚してしもたら、どないしよか思ったわ。パパを見捨てんといてくれて、うれしいなぁ」
 そこで少し言葉を切って、瑠璃に視線を合わせると泰郎は続けた。
「でもな。今はまだ瑠璃は小さいから、パパともうちょっと一緒にいてほしいけど。いつか瑠璃も大人になったら、あんなきれいな花嫁さんになってほしいんや。世界一しあわせな花嫁さんにな」
「でも、そしたら、パパ、ひとりぼっちになっちゃうよ」
 瑠璃が真剣なまなざしを向ける。
「そやなぁ。そんときは、いつでも瑠璃を思い出せるもんを、なんかパパにプレゼントしてぇや。そしたら、寂しないと思うねん」
「わかった。じゃあ、パパも、瑠璃がいつでもパパとママを思い出せるものをちょうだい」
「せやな、何がええかな。瑠璃は何がほしい」
 瑠璃はまっすぐに花嫁の胸もとを指さした。
「花嫁さんがつけてるネックレス」

 サファイアだろうか。花嫁はロイヤルブルーの石をダイヤが取り巻いているネックレスをつけていた。
「なかなか高そうなネックレスやな。パパ、瑠璃が花嫁さんになるまでにがんばってお金貯めとくわ」
「ちがう。買うんやなくって、瑠璃はパパに作ってほしいねん」
「そら、なんぼでも作ったるけど。パパが作ってるのはガラスやから。花嫁さんがしてるような宝石とは違って、安もんやで。ええんか」
「パパのガラス、きらきらして、きれいやから、瑠璃は好きやもん」
「せやし、ママとパパを思い出すネックレスよ。そんなんパパにしか作れへんやん」
「それも、そやな。よっしゃ。瑠璃のために、世界でひとつだけのネックレス、がんばって作るわ」
「約束ね。ゆびきりげんまん」
 瑠璃が小さな小指を立てる。泰郎が節くれだった小指をからませようと手を伸ばしたとき、腕時計が目に入った。液晶が11時13分を浮かび上がらせている。
「瑠璃、打ち合わせの時刻がもうすぐや。ちょっと急ごか」

 くるっぽー、くるっぽー。くるっぽー。
 教会の空の上を舞っていた鳩たちがいっせいに鳴き声をあげると、白い羽根が次々にくるくると降って来て、重なり合い、降り積もり泰郎の視界を覆っていく。画面がまっ白に光ってフェードアウトした。


* * promise  * *

 くるっぽー、くるっぽー。
 鳩の声が耳の裏でこだまする。結婚式の空で羽ばたいていた鳴き声とはトーンがわずかに異なり、半音階低音でくぐもっていた。いつも耳にしていたような懐かしさがある。空に吸いこまれ風に流される声ではなく、室内で反響する響きだった。

 おもむろに目を開けると、木製の白い鳩が小窓から出たり入ったりして時を告げていた。泰郎はゴブラン織りの背もたれに頭を預けたまま、ぐるりと店内の壁を見渡した。見慣れた柱時計たちが、「おかえり」「ようやく思い出したのかね」とでもいうように泰郎を見下ろしている。

 あのとき、瑠璃はまだ5歳だった。25年も昔の、わずか5歳のときにした約束をずっと覚えていたのか。それだけ瑠璃にとって、何よりもたいせつな約束だったのだ。それを俺はあっさり忘れていた。子どもとの約束なんて、そのうち忘れるだろうと高をくくり、大人の自分がいともたやすく忘れていた。なんて傲慢なのだろう。大人はいつでも簡単に子どもを見くびる。
 そら、瑠璃が不機嫌になるのも当然や。

 あの日から、瑠璃は目に見えてしっかりした。女の子というのは、何かしらの母性をもって生まれてくるのだろう。「パパを寂しくさせない」は、瑠璃の母性本能のスイッチを押すには十分だった。
 まあ、俺が情けない父親やったからな。

 週に1度のペースでようすを見に来てくれていたお祖母ちゃんから料理を習い、包丁も火も、あっという間に扱えるようになった。すぐにものを散らかす泰郎とはちがって、美沙に似たのだろう、瑠璃はこまめに部屋も片付けた。教えたわけでもないのに、小学校に入学するころには、泰郎をパパではなく「お父さん」と呼ぶようになっていた。瑠璃だけがひとり加速度的に成長し、泰郎は置いてきぼりにされたようで、娘の成長を喜んでいいのかどうかすらわからずにいた。それでも、寝るときだけは布団を並べ、手をつなぎたがった。身をすり寄せてくることもあり、そんな夜は、泰郎は娘を抱き寄せて、まだ十分に瑠璃が幼な子であることにほっとするのだった。


 「時のコーヒー」のまどろみから目覚めた泰郎は、どこに行くにも持ち歩いている革ひもの付いた絣の信玄袋からメモパッドと鉛筆を取り出した。メモは8センチ四方の正方形を愛用している。いつでも、どこでもアイデアを思いつくと、これにデッサンを描き、依頼ごとにクリップでまとめていた。
 瑠璃の結婚式まで、もうあまり日がない。泰郎は思いつく限りのアイデアのラフスケッチを片っ端から1枚ずつメモに描きはじめた。

「コーヒー、冷めてるから取り替えるよ」
「ああ、うん。おおきに、桂ちゃん。そのへんに置いとい‥」
 言いかけて泰郎は、声のトーンが桂子より高いことに気づいた。不審に思って顔をあげると、目の前には瑠璃が盆を持って立っていた。
「瑠璃‥、なんで」
 泰郎は絶句した。
「そんなん、桂ちゃんが教えてくれたに決まってるやん」


 そうだった。ふたりは姉妹のように、いや姉妹以上に仲が良かった。
 瑠璃が桂ちゃんにはじめて会ったのは、もうすぐ10歳になる6月だった。

 泰郎はそれよりも1年近く前から桂子を知っていた。
 桂子の母親の朋子は看護師で、産休が明けると仕事に復帰した。それを機にマスターが桂子を店で預かるようになった。よちよち歩きを始めたころで、孫がかわいくてしかたのないマスターは、客のことなどほったらかしで桂子の相手をしていた。桂ちゃんは、たちまちカフェの人気者になった。人見知りはするが泣きわめくほどでもなく、祖父の後ろに隠れてエプロンの端からちょこっと顔を見せる。そのしぐさが、また、かわいくて。なついてほしい常連客は足繁く通っていた。
 ところが、泰郎は瑠璃をカフェに連れて来たことがなかったから、瑠璃はまだ桂子と会ったことがなかったのだ。

「こんどの6月10日の時の記念日が、桂子の2歳の誕生日なんや。ささやかな誕生日パーティをするよって、泰郎君も瑠璃ちゃんを連れて来てくれんか」
 ある朝、いつものように新聞を広げてコーヒーを飲んでいると、マスターが話しかけてきた。
「ええけど。平日やから、瑠璃は学校があるで」
「4時からやったら、いけるか?」
「それやったら大丈夫や」
「6時過ぎに朋子が迎えにくるさかい、それまでやねんけどな。工房の方は、大丈夫か?」
「ああ、かまへんで。夕方のせわしい時間に来る客もおらんしな」

 その日、学校から走って帰ってきた瑠璃を連れて、カフェの格子戸を開けると、水色のワンピースを着た桂子が窓の上の鳩時計を首をかしげながらじっと見ていた。手にはうさぎのぬいぐるみを抱え、ワンピースの裾からはオムツでふくらんだ白いブルマが見え隠れしている。前庭の窓から射し込む西日が、桂子の姿をスポットライトのように照らしていた。
 くるっぽー、くるっぽー。
 鳩時計が時刻でもないのに、桂子とおしゃべりをするように鳴いていた。

 そのあどけない姿を目にするや、瑠璃は小動物を見つけたかのように「きゃあ、かわいー」と声をあげ走り寄った。桂子は一瞬びくっとしたが、瑠璃が膝をついて、にこっと微笑むと、にこっと笑い返した。
「わたしは、瑠璃。おいで、いっしょに遊ぼう」
 瑠璃は桂子の手を引っ張って、通り庭へと出て行った。泰郎もふたりについて出ようとすると、「瑠璃ちゃんにまかせとき」とマスターがやんわりと制す。通り庭側の窓からうかがうと、瑠璃が紫陽花の葉にいたカタツムリを採って掌にのせていた。桂子が顔を近づけ、人差し指をおそるおそる伸ばす。ふたりの背を雨あがりの残照が染めていた。

 カフェの客は大人ばかりだったから、やさしいお姉さんの登場に、桂子は人見知りをどこかに置き忘れたようになついた。瑠璃も、幼い桂子の存在に心を奪われた。歳の離れた妹ができたような感覚だったのだろう。ケーキを小さく切って食べさせたり、口もとを拭いたり。他の常連客が「瑠璃ちゃん、すっかり桂ちゃんのママやな」と声をかけるのも耳に入らないようすで、かいがいしく世話をやいていた。
 瑠璃の母性本能は、その日を境に、泰郎から桂子にシフトした。

 学校が終わると瑠璃は工房には帰って来ず、まず、カフェに行くようになった。桂子も瑠璃が帰って来るのを、格子戸を出たり入ったりして待っていた。ランドセルをカフェに置くと、瑠璃は桂子の手を引いて遊びに出る。
「6時の鐘が鳴るとな、きっちり帰って来るんや。ほんま瑠璃ちゃんはしっかりしてるさかい、まかせて安心や」
 コーヒーを飲みに行くと、マスターが豆を挽きながら瑠璃をほめる。 
 瑠璃と桂子のそんな関係は、桂子が小学校にあがるまで続いた。さすがに小学校は桂子も自宅から通うようになったので、たまにしか会えなくなったが、ふたりが本当の姉妹以上の仲の良さであることは、この歳になっても変わりはなかった。


「瑠璃、お前、いつからカフェに」
 泰郎が目の前の瑠璃に訊く。
「お父さんが『時のコーヒー』を飲んだって、桂ちゃんからLINEにメッセージが来て、すぐよ」
 さも当然のように、あっけらかんと答える。
「お前、仕事は‥」
「あ、それは大丈夫。社長が、そないな大事なことやったら、今日は休みにしたらええ。早よ帰り、言うてくれはったから」
 瑠璃は、泰郎の大学時代の先輩が社長をしているデザイン事務所で働いている。知り合いゆえに融通が利きすぎるのも困りものだ。

 瑠璃は盆を胸に抱えたまま、泰郎の向かいの椅子に腰かけた。
「あの日の約束、思い出してくれたん?」
 何枚も描きなぐって散乱したメモを指さしながら尋ねる。
「ああ。忘れてて、悪かったな」
「やっぱり。忘れてたんや」
 瑠璃がため息まじりにつぶやく。
「いや‥すっかり忘れてたわけでは‥」
 泰郎はあわてて、ぼそぼそと言い訳を試みようとした。けれども、途中で思い直して言葉を切った。ちらりと、8番の鳩時計を見上げる。
「すまん。時計に教えてもらうまで、思い出せへんかった。かんにんな。瑠璃にとっては、たいせつな約束やったのにな」
 泰郎は姿勢を改め、両手で両の太ももをつかみ深々と頭を下げた。
「ほんまに覚えてへんかったん? 私、高校から平女(へいじょ)に行ったやろ」
「ああ」
「チャペルでの行事に、お父さん、来てたやん。それでも、思い出さへんかったん?」
 瑠璃は高校から平安女学院に通っていた。25年前のあの日、泰郎と瑠璃が偶然出くわした結婚式は、平安女学院の聖アグネス教会での挙式だった。瑠璃が女学院に入学してから、泰郎は行事や懇談で学校に行くたびに、チャペルを見上げ「ここで瑠璃がブーケを取ったんやなぁ」と感慨にふけった。結婚式も、ブーケトスも覚えていた。それなのに、一番たいせつなネックレスの約束だけがすっぽりと記憶から抜け落ちていたのだ。
 なんでやろな。
 泰郎は胸のうちでつぶやきながら鳩時計を見上げて、「はっ」とした。

 もしかしたら、無意識のうちに自分で記憶を消していたか、心の奥底に鍵をかけてしまい込んでいたのではないか。「瑠璃が幸せな花嫁になることを願っている」と言い、「娘思いのいい親」を演じていたけれど。その実、心の深いところでは、結婚してほしくない、手放したくないと思っていたのだ。だから、ネックレスの約束だけを忘れていた。
 ああ、俺は「俺から瑠璃まで奪うんか!」と母に叫んだあの夜から、ちっとも成長していなかったのだ。
 そう気づいて、泰郎は愕然とした。と同時に、もう一つ、自らの無自覚による勝手な言動に思い当たった。 

「あのな、一つ訊いていいか」
「何?」
 瑠璃がテーブルの上で組んだ両手の甲にあごを乗せて、泰郎を見つめる。黒目がちのつぶらな瞳は、どこまでも深い烏羽玉(うばたま)の輝きをたたえている。その瞳に見つめられると、泰郎はいつもたじろぐ。だが、訊くなら今しかない。

「お前がブーケを取ったとき、父さんさ、瑠璃が結婚したら寂しなるって、言うたやろ」
「そしたら、お前。パパと離れるのは嫌や言うて、ブーケを花嫁さんに返した」
「うん。覚えてるよ。代わりに忘れな草の花束を花嫁さんからもらって、うれしかったことも」
 瑠璃は思い出すように遠い目をする。
「あのな‥もしかしたらやねんけどな」
 泰郎はまだ次のひと言を逡巡していた。
「俺があの時、『瑠璃が結婚したら寂しなる』言うたから‥」
「お前‥この歳になるまで‥‥結婚をためらったん‥ちゃうか?」
「俺がなんの考えもなしに言うた言葉が‥ずっとお前を縛ってきたんかもしれん‥思ってな」
 ひと言ひと言、噛みしめ確かめるように話す泰郎の言葉を、瑠璃は黒く深い瞳をまっすぐに向けながら、ただじっと聞いていた。
 泰郎も話し終えて口をつむぐと、目の前の瑠璃を見つめた。
 これまでに見たことのない父の真剣なまなざしを受け取り、瑠璃は、ふっと微笑んだ。

「お父さんて、ほんま自意識過剰やな」
「そんなん、ちゃうちゃう。そら、小さいころは、そんなふうに思ってたかもしれん。でも、うち、高校卒業してからは、合コン行きまくってたやろ」
「そういえば、そやな」
「自分でいうのも変やけど。黙ってたら、うち、そこそこかわいいらしい。せやけど、喋るとこんなんやろ。合コンに来るような男はそれで引くんやから、あんたは黙っときって、美和とかによう言われた。今まで結婚せぇへんかったのは、単に彼氏ができへんかったから」
「それに、平安女学院に入ったんは、あそこのチャペルでいつか結婚式を挙げよう思ってたからって、知ってた?」
「えっ?」
 瑠璃はそんな早くから、結婚に憧れ、しれっと進路の選択を結婚式を基準にするほど壮大な計画を練っていたのか。女の子の、いや娘の早熟さに泰郎は唖然とした。

 自意識過剰。ほんまにそうかもしれんな。男親なんて、こんなもんか。
 娘のことなんて、なんもわかってない。いや、わかろうとしてなかった。瑠璃は母親のいなくなった穴を埋めるように、急いで大人になり、家事をこなすだけでなく、気がついたら店の経理や事務まで当たり前のようにやってくれるようになっていた。それなのに。自分はといえば、なんの成長もなく瑠璃に甘え、ただ時間を重ねてきただけ。挙句の果てに、娘とのたいせつな約束まで忘れていた。
 瑠璃がああ言うのやから、そうなのかもしれん。けど、瑠璃特有の優しさかもしれん。もう、どちらなのか泰郎にはわからなかった。ガラスの吹き加減やったらわかるのにな。情けねえなぁ。
 たった一つできることがあるとすれば、あの日からずっと瑠璃が憧れていた結婚式に、俺の渾身のネックレスを贈ってやるくらいか。 

「ネックレスのデザインは、できたん?」
 テーブルに散らかっているメモに瑠璃が目をやる。
「せや、どのデザインがええ?」
 瑠璃が見やすいように並べながら、泰郎が訊く。
「瑠璃が気に入ったのを作るわ」
 泰郎がいそいそと机に並べはじめたメモを、瑠璃はさぁっと集め、まとめて裏返した。
「もう、お父さん、ほんまにわかってへんね。それじゃあ、サプライズにならんやん」
「楽しみにしてるから、せいぜい悩んでがんばって作って!」
 泰郎は、また、娘の気持ちを読みまちがえたことに頭を掻く。
 瑠璃は目の前で恐縮している父親の目尻に皺が増えたなと思いながら、鳩時計を見上げる。深い緑の山小屋から、白い鳩が顔を出した。瑠璃は「ありがとう、お父さんに思い出させてくれて」と胸のうちで礼をつぶやく。木彫りの白い鳩は、くるっぽーと、瑠璃にこたえるようにひと声鳴いた。

「ほら、お父さん、もう店開けんとあかん時間やで」
 瑠璃はメモを集めてクリップでとめ、絣の信玄袋に入れ「はい」と渡す。かいがいしさは、相変わらずだ。泰郎はそんな娘の手際のよさに目を細めながら、おもむろに腰をあげ、歩きかけて振り返る。

「そや、ネックレスの約束をしたとき。瑠璃も俺に、瑠璃のことをいつでも思い出せるものをくれる言うてたな」
「そやったけ?」
 瑠璃が、ふふ、とうれしそうに笑う。
「忘れたんか?」
「私はお父さんとはちがうからね。ちゃあんと、覚えてるよ」
「で、何をくれるんや」 

「それは、ヒ・ミ・ツ」
 瑠璃はいたずらっぽく笑いながら、カウンターで事のなりゆきを心配している桂子のもとに駆け寄った。

 くるっぽー、くるっぽー。
 泰郎は鳩時計の鳴き声に送られてカフェを出る。ネックレスのデザインをあれこれ考えながら、茶わん坂へと通りの角を曲がった。


* * forget me not * *

 リーンゴーン、リーンゴーン、ゴーン。
 高く厳かな鐘の音が、あたりの空気をふるわせ響きわたる。
 ことしの梅雨入りは例年より遅いようで、緑のまぶしい青天が広がっている。京都御所の石垣からせり出す緑陰の下を歩いていたブロンドの外国人観光客がふたり、音のする方向を振りかえる。通りの向かいに、バラ窓をもつ赤レンガのチャペルを見つけ、胸でクロスを切った。

 黒のタキシードがどうにも不釣り合いな男が、左ひじを不自然なほど横に張ると、その腕に花嫁がそっと手をかけた。
 男はバージンロードの先にある祭壇を緊張した面持ちで凝視していたが、腕に手を添えられたのを感じると、ふっと視線を横にすべらせた。花嫁の美しい胸のデコルテに、ガラスのネックレスがステンドグラスから射し込むやわらなか光を反射してきらめいている。レースのヴェールから透けてみえる瑠璃の横顔は、陶器の人形のように美しかった。


 泰郎はカフェから戻って工房を開けると、早速、いくつかのデッサンの試作に取りかかった。瑠璃の望みは、パパとママを思い出せるネックレスだ。俺と美沙を象徴するものって、何だろう。美沙と過ごしたのは瑠璃が5歳まで。5年といっても、瑠璃の記憶に残っているのは、最後の2、3年か。泰郎は記憶の糸を手繰りよせる。俺にとっての思い出ではない。瑠璃にとって、ママとの忘れられない光景はどれだ。
 瑠璃のやつ、せいぜい悩めって言いやがった。


 瑠璃が4歳の夏に沖縄旅行に出かけた。言いだしたのは、美沙だった。
「京都は、さあ。けっこう何でもそろってるけど。海がないから。瑠璃にほんものの海と水族館を見せてやりたい」
 美沙にしては、わりと強く沖縄行きを望んだ。
 梅小路に京都水族館ができるまで、たしかに京都市内には水族館がなかった。だからという訳でもないが、考えてみると、瑠璃を水族館に連れて行ってやったことがなかった。いや、水族館どころか。そもそも家族旅行にロクに行っていなかった。泰郎はふだんは飄々としているが、根っからの職人気質で作品に没頭しだすと休みも取らなくなる。工房を店にもしていたから、尚さら、まとまった休みを取るという発想がそもそもなかった。
 沖縄か。京都も北にあがれば日本海に出る。でも、きっと。明るい太陽の降りそそぐサンゴ礁の海は、空も海も色がちがうんやろな。行ってみるか。

 瑠璃は初めての飛行機に大きな目をさらに丸くしていた。離陸すると、ビルが高速で小さくなり、どんどん自分が空の上にあがっていく感覚に「ママ、ビルが、雲が」と声をあげ、フライトアテンダントのお姉さんがキッズセットを手渡してくれてもそっちのけで、シートベルトのサインが消えると、座席の上で膝立ちになってずっと窓の外を眺めていた。
 瑠璃の興奮は水族館でピークに達した。全面アクリルガラス張りの大きな水槽では、たくさんの見たこともない色鮮やかな魚たちが泳ぎ回っている。その迫力。ふだんは誰よりもおしゃべりな娘が言葉を失い、泰郎と美沙の服や手を引っ張りながら「ママ、ママ」か「パパ、パパ」しか言わない。その先の言葉が続かないのだ。テレビやビデオで見たことはあったはずだ。でも、実際に目の前のガラス越しに泳ぐ魚たちのダイナミックさに瑠璃の心臓は沸騰し、息もつけずにいるようだった。
 泰郎も美沙も、娘の興奮状態に顔を見合わせ、笑いあった。
「ほらね、連れてきて良かったでしょ」美沙がウインクする。
「ああ、そやな」
 素直にまっすぐに感動している瑠璃の姿に、泰郎は感動していた。まっさらな心が、初めて目にする世界に全身でふるえている。このまぶしい感受性を、人はいつのまに失ってしまうのだろう。世界は驚きに満ちているということを忘れてしまう。泰郎は錆びついてしまった自らの感性を思わずにはいられなかった。

 翌日は、海洋博公園の北端にあるエメラルドビーチに行った。その名のとおり、鮮やかなエメラルドから澄んだコバルトブルーへとグラデーションを描く海。どこまでも高く青く抜ける空。まっ白なビーチは太陽の光を反射して輝いていた。その美しさに泰郎は、ここは同じ日本かと思った。日本海や瀬戸内の海にある鄙びた情緒などかけらもなく、明るく朗らかに澄みわたって凪いでいた。
「瑠璃、ほら、これが星の砂よ。砂がお星さまの形をしてるでしょ」
 美沙が掌に星の砂をひと粒ずつ並べて、瑠璃に見せる。
「お星さまの砂!」
 瑠璃が目を輝かせる。
「きらきら星が落ちてきて砂になったの?」
「ふふ、そうかもね」
 つばの広い黒の麦わら帽子をかぶった美沙が微笑む。その笑顔を見て、瑠璃も満面の笑みを浮かべる。サンゴ礁の海が広がるビーチで家族3人で星の砂を集めて小瓶に詰めた。

 確か、あの小瓶がどこかにあったはず。


 明日は結婚式という日の黄昏時、泰郎は瑠璃からカフェに呼びだされた。約束のプレゼントはそこで渡すという。夕暮れが迫る時刻のカフェには、他に客がいなかった。表庭の窓から西陽が斜めに射しこみ、柱時計たちが勝手気ままに時を刻む旋律がBGMがわりに響いていた。
 からからから。
 泰郎が格子戸を開けると、瑠璃はもうカウンターに腰かけ、桂子とくすくす笑いながらおしゃべりをしていた。泰郎の姿を認めると、瑠璃はここに座れとでもいうように、自分の隣の椅子を指さす。
「ネックレス、できあがってるよね」
「もちろんや」
 泰郎は信玄袋から白い革張りのジュエリーボックスを取り出して、瑠璃の前に置いた。瑠璃がボックスを見つめ、ゆっくりと手をのばす。桂子もカウンターの内から、固唾をのんで見守っている。
 瑠璃が蓋を開けた。
 
 青く澄んだ瑠璃色のティアドロップ形のペンダントトップが、ボックスの中で輝きを放っていた。
「うわぁ。きれい‥」
 声をあげたのは、桂子だった。
 瑠璃色のガラスの内側には星の砂が、夜空にまたたく星のごとく散りばめられ、3つの小さな明るい星が輝いていた。ラピスラズリと、ルビーと、メレダイヤがひと粒ずつ。ラピスラズリは、もちろん瑠璃だ。ルビーは美沙の誕生石。そしてダイヤが泰郎の誕生石だった。天の川のように並ぶ星の砂の宇宙に、3つの星が本物の輝きをきらめかせている。それだけではない。淡い水色のガラスの忘れな草の花が、ペンダントの表面を彩るようにドロップの滴の下のほうに散りばめられている。花びらを1枚1枚手作りした、繊細なガラスの花だ。まるで忘れな草の花畑の上に瑠璃色の宇宙が広がっているようだった。大ぶりのティアドロップの下には、宝石が3つ縦に連なってぶらさがっていた。小さな真珠とルビーとダイヤがひと粒ずつ縦列に並んでいる。石と石のあいだを、宝石よりもさらに小さなクリスタルガラスのビーズがつないでいた。

 瑠璃の目尻に涙の粒が、ひと粒光る。
「お父さん、これ‥。沖縄でひろった星の砂?」
「ああ」
「思い出してくれたんや」
「3人で行った最後の思い出の旅行やからな」
「この赤い石は、ルビー?」
「そや、ママの星。青い星はラピスラズリ。瑠璃の星や。ダイヤは俺の誕生石」
「お前の誕生石の真珠は、ドロップの下につけた。上から、瑠璃、美沙、俺の順や」
 瑠璃はペンダントを見つめたまま、泰郎の説明を胸で受けとめる。時計たちも、いつのまにか静かになっている。

「なぁ、瑠璃。お前になんで、『瑠璃』って名前付けたと思う?」
「え? ラピスラズリやからと、ちゃうの?」
「まぁ、それもある。せやけど、ラピスラズリは宝石や」
「『瑠璃』はな、ガラスの古い呼び名でもあるんや」
「ガラスの瑠璃。ラピスラズリの瑠璃。神秘的な青の瑠璃色。美しいものが3つも重なってる。生まれてくる娘の名前に、これほどふさわしいものはないと思った」
「瑠璃ちゃんのイメージにぴったりの名前やね」
 桂子がカウンターの内から相槌を打つ。
「そんな意味とイメージと、それから家族の思い出と。全部つめこんで、こしらえた」
「どやろな? 気に入ってもらえるもんに、仕上がってるやろか?」
 泰郎が瑠璃の瞳を見つめながら、ためらいがちに訊く。
 瑠璃も泰郎をまっすぐ見つめ返す。
「ありがとう、お父さん。最高のネックレスよ。ほんまに、ありがとう」
 深い余韻のような静寂が、一瞬、カフェを満たした。
 その沈黙を解いたのは、桂子だった。明るい声で瑠璃にねだる。
「ねぇ、瑠璃ちゃん、ちょっと付けてみてよ」
 その提案に、泰郎がもう一つ白いジュエリーボックスをカウンターに置いた。細長い箱だ。
「チェーンをな、2本用意したんや。結婚式には、ベビーパールのチェーンがええけど。ふだん使うには、ちょっと派手やろ。せやから、ふだんはこっちのプラチナのチェーンを使うとええわ」
「じゃあ、パールのチェーンで付けてみる。桂ちゃん、後ろ留めてくれへん?」
 桂子がカウンターを出て、瑠璃の背にまわる。瑠璃がセミロングの髪を片方にさっとまとめると、細いうなじが露わになった。
「はい。長さは、どう?」
 桂子が背中越しに訊く。
「うん。ちょうど、ええよ」
 涙の雫の形をしたペンダントは、瑠璃の鎖骨の下にぴたりとおさまった。青い宇宙が瑠璃の胸できらめき揺れる。しだいに入射角を下げてきた残照が、まるでスポットライトのようにまっすぐにネックレスを照射し、その輝きをひときわ美しいものとしていた。

「で、瑠璃は、俺に何をプレゼントしてくれるんや」
 泰郎はずっと気になっていたことを尋ねた。
「これよ」
 瑠璃は、泰郎とは反対側の椅子の上に置いていた紙袋からノートの束を取り出しカウンターに並べた。
「すごい数のノートやな」
「うん。25冊。25年ぶんの日記」
 25年ぶんの日記やて。泰郎が目を丸くする。

「あの日ね、幼いなりに考えたの。お父さんが、寂しくならへんもんって、何やろって」
「ラジオの打ち合わせの後、マンガミュージアムに行ったでしょ。ミュージアムショップでこれを見つけて。『これや』って思った」
 『リボンの騎士』のサファイアが描かれた色褪せたノートを取り上げる。表紙には「にっきちょう」とある。そういえば、あの日、瑠璃からこのノートを買ってくれとせがまれたことを泰郎は思い出した。
「日記やったら、毎日のできごとを書くから。お父さんも瑠璃のこと思い出して寂しくならへんやろうなって」
「まあ、初めのほうは絵がほとんどやし。まじめに書いてたんは小学生のころだけやけどね」
「思春期になったら、恥ずかしいというか、照れくさくなってしもて。読んだ本とか、観た映画のタイトルとか。行った場所とか。まあ、備忘録みたいになったけど。それでも、うちが何をしてたかぐらいはわかるかな」

 泰郎は言葉を発することもできず、カウンターに積まれた25冊のノートを見つめた。瑠璃は、あの日からずっと「約束」を果たし続けていた。25年もの間、ずっと。比べて俺は、つい先日まで「約束」そのものを忘れていた。泰郎はその事実に茫然とし、目の前に積まれた時間の重みを思わずにはいられなかった。

「25年ぶんのラブレターやね」
 桂子がぽつりと、感動をそのまま口にする。
 柱時計たちが「そのとおり」とでもいうように、ぼーん、ぼーんと時の声をあげた。
「もう、桂ちゃん。ラブレターやなんて。そんなん、ちゃうちゃう」
 瑠璃が照れ隠しも手伝って、大げさに手を振る。
 25年ぶんのラブレター。ほんまに、そやな。ありがとう、瑠璃。
 泰郎は涙がこぼれそうになるのをごまかそうと、壁の柱時計に視線を走らせた。

「結婚式をなんで6月10日にしたか、わかる?」
 瑠璃が泰郎の瞳をのぞきこむ。泰郎は涙をぐっと喉の奥で呑みこむと、いつもの口調でこたえる。
「いや、お前、桂ちゃんの誕生日やからって言うてたやろ」
「うん。それは1つめの大きな理由」
「2つめは、桂ちゃんと初めて会った日。つまり、私に妹ができた日」
 ああ、それは、出会いが桂ちゃんの2歳の誕生日パーティやったからな。
「ほんで、3つめやけど‥‥」
 瑠璃が『リボンの騎士』の日記帳に手を伸ばし、最初のページを開く。
「ほら、ここ見て」
 瑠璃が指した最初のページには、たどたどしい字で「6がつ10にち」と書かれていた。
 あの日の結婚式も、6月10日やったんか。瑠璃と俺が「約束」をした日。そら、この日しかないわ。

「あ、そうや。桂ちゃん、この日記帳は、明日までカフェで預かってね」
「え、なんでや」
 泰郎が思わず声をあげる。
「だって、お父さん、意外と涙もろいから。今夜、これを読んだら、きっと泣くよね。明日はバージンロードを一緒に歩いてもらわんとあかんねんよ。涙で腫れぼったくなった顔で横に並ばれたら、いややん」
 相変わらず、表向きは憎たらしいことを言いながら、その裏にそっと思いやりを隠す。
「うちは、かまへんけど。泰郎さん、それでええの?」
 桂子が気遣いながら、たずねる。
「ああ。明日、披露宴終わったら、取りに来るわ」


 リーンゴーン、リーンゴーン。
 鐘の音を合図に、結婚式を終えたばかりの新郎新婦がチャペルの扉を開けて姿を現した。鳩が空に向かって放たれる。白い翼が6月の青天へと羽ばたきながら舞いあがる。
 ああ、あの日と同じ光景だ。
 ふたりの登場を鳴りやまぬ拍手が迎える。フラワーシャワーの花びらが舞う。純白のウエディングドレスをまとった瑠璃は、桂子の姿を認めると、まっすぐにブーケを投げた。花束はきれいな放物線を描いて、桂子の広げた腕に吸い込まれるように落ちていく。歓声が沸きあがる。拍手がいちだんと高く大きく空に響いた。


「マスター、披露宴が終わったら、カフェでコーヒーを淹れてくれんか」
「そら、かまへんけど。今は、わしやのうて、桂子がマスターやで。桂子のコーヒーじゃ、あかんか」
「いや、桂ちゃんのコーヒーも旨いで。でも、桂ちゃん2次会に行くやろ。今日は一日、瑠璃が桂ちゃんを放さへんわ」
 花嫁の横に淡い水色のワンピース姿の桂子が並んで、写真を撮っていた。手にはブーケを抱えている。互いに見つめあって笑う。ふたりの笑顔に陽光が降りそそいでまぶしい。泰郎は、そんなふたりを目を細めて眺める。

「瑠璃からの25年ぶんのラブレターを、カフェで預かってもろてるんや」
「25年ぶんのラブレターか。そら、すごいな」
 マスターが泰郎の隣に並び、同じ方角を見ながら話す。黒のタキシード姿と紋付き袴のふたりの男の真上の空高く、白い鳩が飛び交う。

「なあ、マスター。俺、まだ泣いてへんで」
「ああ」
「瑠璃の前で、涙は見せられへんからな」
「せやな」
「あっというまやった。25年も」
「そやな」
「娘って、ずるいなぁ」
「けど、かわいいやろ」
「雨降ってへんのに、目がかすむわ」
「とっておきの豆、挽いたるで」
「そりゃ、楽しみや。ほな、後で行くわ」
「ああ、待ってる」

 瑠璃がウエディングドレスのたっぷりとしたタックを両手でつまんで駆けてくる。泰郎は慌てて、天を仰いでまなじりをぬぐった。
「はい、これ」
 ブーケから抜き取った忘れな草をブルーのリボンで結んだ花束を、泰郎に差し出す。ほんの一瞬、5歳の瑠璃の笑顔がそこに浮かんで消えると、美沙のふわりとした微笑がかさなった。
「お父さん、ありがとう」
 胸のネックレスに手を添え、はにかむような笑みを浮かべる。泰郎に手渡した忘れな草を指さし「忘れな草の花言葉知ってるよね」と言い残すと、新郎と桂子が待つ輪の中に駆け戻って行く。
 瑠璃色のネックレスが6月の陽の光にきらめき揺れていた。

 「forget-me-not か。forget-us-not やな、美沙」
 泰郎は娘の背を目で追い、そして天を見上げる。
 まぶしい光を浴びて純白の翼が空に透けて舞っていた。



(2杯め Happy End) 

「またのお越しをお待ちしております」 店主 敬白


「1杯め」は、こちらから、どうぞ。

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