大河ファンタジー小説『月獅』15 第2幕:第6章「孵化」(1)
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第2幕「隠された島」
第6章:「孵化」(1)
「何もないが、昨日しとめた猪のシチューだ。猪は食えるか?」
テーブルには湯気のあがった鍋が置かれていた。
ルチルは海で冷えきった体を温め、ようやく体の芯が息を吹き返すような気がした。
風呂は戸外にあった。
なだらかな緑の草原の丘の上に丸太造りの小さな家があった。その隣に簾で囲った一画があり、ここがお風呂よ、とディアが案内してくれた。
小さな池のようなものがあり、内側は石が敷き詰められている。石はしっくいで固められているようで、細かなすきまには貝や小石が埋め込まれていた。近くに熱水の湧き出る沢があり、そこから湯を引いているのだという。 「温泉」というものがあると、いつかカシが話してくれたことがある。自然に湧き出る湯の泉があって、年中、冷めることなく熱いくらいでとても心地よくて腰痛にも効くのだと。「どんなものか入ってみたいんですがねえ。ノリエンダ山脈を越えたその先の先ぐらい遠いんだそうですよ。生きてるうちに一度は行ってみたいもんです」とカシが云っていた温泉とは、これのことだろうか。
簾は海側をのぞく三方を囲っていた。空と海を眺め風に吹かれながら鳥たちと一緒に入るの、とディアが浜から続く坂道で話してくれた。
簾もね、とディアがいう。
「去年まではなかったんだよ。去年の誕生日にね、簾を立てるって父さんが言い出して。海が見えなくなるから嫌だっていったらさ‥」
と、くるりと振り返る。
「海のほうだけは開けていいことになったけど。おかしいよねえ」
なんと返そうかとルチルがとまどっていると、ディアは返事を期待したわけではなかったようで続ける。
「この子はヒスイ。あたしの相棒よ」
ディアのそばをつかず離れず翡翠色の美しい翼をもつ鳥が飛ぶ。ちらちら見える赤い胸毛が印象的だ。ケツァールという鳥なの、と教えてくれた。
ディアは丘の上の丸太小家に着くまで、さえずるようによくしゃべった。くるくると自在に変わる表情。少し走っては振り返ってルチルを見つめ、ふふ、と大きく首をかしげて笑う。ぴょんぴょん跳ねながら走っては、また戻ってくる。
――リスみたい。
湯につかりながらルチルは思い出してくすっと笑う。
カーボ岬から海に飛び込んで何日が経っただろうか。偵察隊のレイブンカラスは、ルチルと天卵が海に没したことを王宮に報告したろうか。白の森はぶじだろうか。
陽はちょうど中天を通りすぎたところで、金の鱗のように水平線の波がさんざめいている。その美しいゆらぎを眺めていると、ようやく助かったのだと実感できた。いっしょに湯につけている卵も、心地いいのだろうか、まぶしいくらいに黄金に輝いている。毎朝髪を梳いてくれたカシのやわらかな手の感触を思い出し、カシ、とつぶやいてみる。
「お父様、お母様、ブランカ」
声に乗せたとたん、これまで蓋をしていた感情があふれだし、熱く苦いものが喉を逆流する。涙の粒がとぎれることなく零れ流れて、湯に消える。ルチルは低く嗚咽を噛みしめながら、しばらく頬をつたいあふれる雫を流れるにまかせた。
「遠慮せず食べろ」
ノアが猪肉のシチューを皿によそいながらいう。丈が短いかもしれないけど、といって貸してくれたディアの単衣は、確かにルチルが着ると膝がみえた。でも、それがかえって湯あがりの脚を風が撫で心地いい。
「山羊のミーファのミルクで作ってるんだよ。野菜は朝採ったばかり。山羊のミルクはきらい?」
ディアはテーブルから身を乗りだすようにして、シチューをすすめる。
ノアは皿に取り分けるとさっさと食べ始めたが、ディアはルチルから目を離さない。ルチルはそんなディアに微笑むと、ひと匙すくってすする。喉をあたたかいものが滑りおり、胃の腑がじわりと温まる。ふうっと、ひとつ深い息をはき、おいしい、とつぶやく。ディアは、ぱあっと顔を輝かせ、ようやく椅子に腰かけて食べ始めた。
心からおいしいと思った。
そういえば、ずっとまともな食事をしていなかった。地下へ降りる前に、カシがパンやチーズの包みを袋にいっしょに入れてくれていた。でも、暗い穴道を駆けるのに必死で口にすることはなかった。タテガミに乗って逃げているとき、シンから「食っとけ」といって渡された干し肉を齧ったくらいだ。こうしてテーブルについて、温かな食事ができることのありがたさを感謝せずにはいられなかった。館にいたこれまでは、食事は時間になればあたたかなものがテーブルに整えられていた。それを太陽が朝昇るのと同じくらいあたりまえのことと思っていた自分が、今は恥ずかしい。
天卵はノアが用意してくれた籐の籠に置いている。籠にはわらが敷かれていて、まるで鳥の巣みたい、とルチルはかすかに笑む。
ディアは好奇心が抑えられないのだろう。天卵とルチルにちらちらと視線を走らせる。訊きたいことが山ほどあるの、と顔にかいてある。それでも、ノアが「話したくなったら、話してくれ」と無理には訊かないと宣言したことを守っているのだろう。シチューをすすりながら器用に休みなくしゃべっているのだが、「ルチルは人魚ってみたことある?」とか「きのうはシロイルカといっしょに泳いだんだよ」と話すばかりで、かんじんなことは尋ねない。
食事がすむころには、ルチルの心は決まっていた。
「隠された島のことは、白の森の王から聞きました」
ルチルはスプーンとフォークをテーブルに置いて姿勢をただす。
「大海のどこかに『隠された島』があって、そこなら追手から逃れられ、天卵を守ることができるだろうと。ただし、どこにあるかはわからない。常に嵐に守られているとも、海をただよう浮島だとも伝えられていて、白の森の王も見たことがないとおっしゃっていました」
「ハクのやつめ」
ノアが小さく舌打ちする。
「ハク‥‥とは?」
「知らなかったか。白の森の王の名だ」
ルチルが目を丸くする。
「ノア、あなたは白の森の王のことを知っているの」
「まあな、古い知り合いさ」
「でも‥‥白の森の王は、隠された島がどこにあるか知らないと‥‥」
ルチルは混乱する。
ノアは頭を掻き、腕組みをして、目を瞑る。しばらくその姿勢で何かを逡巡しているようだった。窓辺で鈴なりになって騒々しく止まり木の争奪戦を繰り広げていた小鳥たちも気配を察したのだろうか、しんと口をつぐむ。
沈黙をやぶったのは、ディアだった。
「白の森の王って、だれ?」
目を開けたノアとルチルの視線がぶつかる。口を開きかけたルチルをノアは掌で制した。
「海のずっと向こうに大陸がある。大陸というのは、この島を何百個いや何億個つなげたくらいの大きな陸だ」
「島じゃないの?」
ディアが首をかしげる。
「周りを海に囲まれた陸地を島というなら、大陸も海に囲まれているから島になる。だがな、とてつもなく広くて、山をひとつ越えると海は遠い。海を見たこともないというものもたくさんいる。その大陸に白の森という広大な森がある。森はこの島よりもずっと大きい。白の森を四つの村が取り囲んでいる。ルチルは東のエステ村領主の娘‥‥で、合ってるか?」
ルチルがうなずく。
「その白の森の王が、ハクって名の裑が透けた大きな白銀の鹿だ」
ノアが白の森の王のことを知っているのはまちがいない。王の御姿を正確に知っている。ノアも森に入ったことがあり、記憶を消されなかったということか。それだけ、白の森の王はノアのことを信頼していると受け止めていいのだろうか。
「ふた月ほど前のある夜、流星が私のからだに飛び込み、星を宿しました」
ディアが驚いてそのつぶらな瞳をみはる。
「ああ、俺も見た。三つ流れたな」
「最後に流れた四つめが、私のからだに」
「そうか。何か起こりそうな予感がした」
「一週間後に天卵を産みました。はじめは鶏の卵くらいの大きさだったのが、こんなに大きくなった」
ルチルが天卵に視線をすべらすと、ディアは立ちあがり籠のそばにうずくまる。
「王宮に見つからないように気をつけていたのだけれど」
「どうして、見つかっちゃいけないの?」
それはな、とノアが『黎明の書』の一説を諳んじる。
「天、裁定の矢を放つ。光、清き乙女に宿りて天卵となす。孵りしものは、混沌なり、統べる者なり。正しき導きには佳ごととなり、悪しき誘いには禍玉とならむ」
「何の呪文?」
ディアが不思議そうな顔をする。
「『黎明の書』という古い書物に記されている。重要なのは、『孵りしものは、混沌なり、統べる者なり』の箇所だ」
「どうして?」
「天卵から孵った人物は、世界を混乱に陥れるか、あるいは世界を統一するか、と伝えているからだ。天卵が王宮から追われているのはこの言い伝えのためさ。レルム・ハン国の王様にとっちゃ、天卵で生まれた者が国を乱すかもしれないし、王の座を脅かすかもしれないってことだからな」
お父様もそうおっしゃっていた。だから、王宮に天卵の存在を知られてはならないと。
「でも、とうとう王宮の偵察隊のレイブンカラスに見つかって、追手から逃れるために白の森をめざしました」
「どうして森に?」
そうか。ディアはこの島から出たことがないから、白の森のことを何も知らないんだ。
「白の森には人が入ることができないからよ。国王様でも」
なぜ、とディアの好奇心はとまらない。
「森の周囲は木や蔦が網の目のように生い茂って閉ざされているの。無理やり入ろうとすると木が枝やつるを伸ばして弾き飛ばされる」
「でも、ルチルは入れたのでしょ?」
「心からの祈りが白の森の王に届けば、森は開かれる」
ルチルは答えながら、ディアの次の「どうして」は避けなければと強く思った。「じゃあ、どうしてずっと白の森にいなかったの」と尋ねられれば、森の危機について話さざるを得なくなる。ノアは蝕のことを知っているのだろうか。白の森の秘密について、私が語るわけにはいかない。どうしよう。
「ここはどうして『隠された島』と呼ばれているのですか」
ルチルはディアの関心を白の森から遠ざける質問をする。
「常に嵐に守られている、といったな。だが、それはない。見てわかるように、嵐どころか、多少の風はあっても海は穏やかだ」
「じゃあ、どうして?」
ディアの「どうして」が方向を変えたことに、ルチルは胸をなでおろす。
「浮島だからさ」
「浮島? なに、それ」
「海に浮いていて、海流にのって漂流する。小さい島だし、地図にも描かれていない。船乗りたちの間で噂になったんだよ。行きはあったのに、帰りの航海では忽然と消えていたってな。それと……」
とノアが窓の外を指さす。
「あの山の磁場の影響で島の周りはコンパスが狂う。いわゆる魔の海域さ。それもあって『隠された島』と呼ばれるようになった」
「ふうん。葉っぱの小舟みたいなのね。好きなところに進んだりできるといいなあ」
ディアが無邪気に笑う。
「さあ、どうかな。食事がすんだなら、おまえも陽が陰る前に風呂につかってこい」
(to be continued)
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