大河ファンタジー小説『月獅』16 第2幕:第6章「孵化」(2)
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第2幕「隠された島」
第6章:「孵化」(2)
「お互い、まだ言えないことを腹に抱えているだろ」
ディアのよくとおる高い声が遠ざかるのを待って、ノアがルチルの前に湯気のたゆたうカップを置く。窓辺でにぎやかにさえずっていた小鳥たちはいっせいに姿を消し、明るい歌声を輪唱で追って飛んでいった。もちろんヒスイも。
「ここには、好きなだけ居てくれていい」
「頼るあてのない私にはとてもうれしい。でも、迷惑をかけることは、まちがいありません。王宮に見つかるかもしれない。とんでもない事態に巻き込んでしまうかもしれません」
「ああ、そうだな。だがまあ、それも縁というものだろ。あるいは運命ともいうか。ここに流れ着いたということは、おそらく天の意思もあるんじゃないのか。俺もやり残したことがあるからな」
「それに、そいつを」とノアは籠のなかで光る天卵に視線を向ける。
「禍玉にするわけには、いかんだろう」
この島にたどり着いて、他人目を気にしなくてよくなったからだろうか、それともルチルの心が緊張から解放されたからだろうか。天卵は輝きを増している。
白の森の王に「隠された島」をめざすよう勧められたとき、ルチルはうかつにも、そこに人がいる可能性に思い至らなかった。だから。浜で目を開けたとき、人がいることに驚くと同時に警戒した。けれども、不用意にこちらに踏み込んでこないノアのようすに、信頼してもいいのではないかと思いはじめている。少なくともノアは、ルチルよりもはるかに天卵とは何かを知っているようだ。お嬢様育ちのルチルは、赤ん坊の育て方すらまるで見当がつかない。もうカシはそばにいないのだ。ノアに教えを乞うしかない。
「とろこで、ハクは元気か」
先ほどうまく躱したと思っていた話を不意にふられ、ルチルはうろたえた。
「ひょっとして蝕がはじまったか」
ノアのほうから核心に触れてきて、ルチルは気管がつまり心臓がぎゅっとなる。
「はは、図星か。ハクがいったん懐に受け入れた雛鳥、それも天卵を抱えた雛鳥を危険に晒すような行為にでるとは考え難いからな。何かあったのかと思ったのさ。警戒しなくとも、蝕とは何か心得ている」
ノアは顎をなでる。
「それにしても、周期が早いのが気になるな」
腕を組んで、椅子の背に深くもたれる。
蝕の周期まで知っている。ノアとはいったい何者なのだろう。白の森の危機について話してもいいのだろうか。シンは、一連の森の危機について、蝕について知るものの仕業ではないかと疑っていた。ならば、ノアも疑うべきなのか。わからない。わからない。ああ、誰か教えて。
――自分の頭で、考えることさ。
シンの言葉が耳の奥で響く。
「ノアはどうして、白の森のことに詳しいの」
「言ったろう、ハクとは古い知り合いだって」
「でも、白の森の王は隠された島がどこにあるか知らないと。それに‥‥。隠された島にノアがいることも教えてくださらなかった」
「ハクは白の森から出たことがないし、あいつは森そのものだから、そもそも出ることができない。この島のなりたちも知らんだろう」
「島のなりたち?」
「ああ。この島は、もとは白の森につながる半島だった。ほら、そこの窓から山が見えるだろう。あの山、ヴェスピオラ山が噴火して大陸から切り離された。カーボ岬はそのときにできた崖さ」
「私はカーボ岬から海に飛び込みました。王宮の追手から白の森を守るために」
「そうか……」
ノアは口を半ば開けたまま顎を撫でる。
「よくその覚悟ができたな、たいしたもんだ」
華奢な娘にみえるが、芯には剛いものを秘めているのかもしれない。天卵の母に選ばれるだけのことはある。
ノアはルチルをしげしげと見つめる。
「一つ忠告しておくが、ヴェスピオラ山の中腹にある泉より先には行くなよ」
ルチルは、どうして、と首をかしげる。
「泉より先は迷いの森になっている。あの山は嘆きの山ともいって、寂しがりやでな。山にやって来るものを迷わせて楽しむ。君みたいな素直なお嬢さんなら、揶揄いがいもある。えんえんと迷わされるぞ。だが迷いの森は、まあ、遊びみたいなもんだ。まやかしさ。もっと危ないのは」
迷いの森以上の危険があるというのか。驚いて顔をあげる。
「山頂付近は磁場が強くて、うかつに近づくと火口に飲み込まれる。ぜったいに近づくな。休火山で火口は湖になっているが、風呂に使えるぐらいの湯は沸いてるんだ。火口がどのくらいの熱水を吐き出しているかはわからん。鳥たちだって、山頂は避けて飛ぶ。知らずに通る渡り鳥たちが、つぎつぎに墜落していくのを目にしたこともある。彼らにとっちゃ、とんだ災難だ。島の位置が海流の影響で変わるんだからな。例年の飛行ルートに島が移動していれば一貫の終わりさ」
なんということだ。ルチルは驚きで固まった口を両手で押える。
「天卵が孵ったら、気をつけろ。それと、ディアにもな」
「え、どうして」
「あの子も山の危険性はわかってる。ひとりなら、なんとかなるだろう。そのくらいの知恵と経験も積んでいる。ずいぶん山とも仲良くなったようだ。だがな、自然や大きな力というのは、ときに理不尽なんだ。幼子を連れてとなると……何が起こるかわからん」
ディアのくるくるとよく回る大きな目を思い出す。あの目でにっこりされたら、断れるだろうか。無邪気にさえずるように、とぎれることなく話すディアを止められるだろうか。押し切られる場面しか思い浮かばない。
「ディアはすでに君にむちゅうだ」
遠くから小鳥たちのコーラスを従えた明るい歌声が近づいてくる。
「そろそろ島から出て、人とふれあわせないといけないと考えていた。だから、ルチル、君が島にやって来たのは、渡りに船というのかな、ありがたいと思っている。ディアのこと、よろしく頼む」
ノアが両手を膝について頭をさげる。
どうして「隠された島」と呼ばれる孤島に親子二人だけで暮らしているのか。母親はなぜいないのか。訊きたいことは山ほどある。だが、そうした質問をうまく躱された気がする。
――ものごとには、すべからく「時」というものがある。
お父様がよくおっしゃっていた。今はまだ、その「時」ではないのかもしれない。
(to be continued)
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