大河ファンタジー小説『月獅』14 第2幕「隠された島」第5章(2)
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第2幕「隠された島」
第5章:「漂着」(2)
小鳥たちの危急の報せに、ディアが真っ先に思い出したのは山のことだ。嘆きの火の粉を散らしているのだろうか。だが、山の咆哮は聞こえない。吹きすさぶ潮風の甲高い声が耳をかすめるだけだ。それに小鳥たちがディアを引っ張っていくのは、山とは反対の海岸につづく道だった。
浜への坂道を駆け降りる。視界が開けると、波打ち際に何か黒い物が横たわっているのが目に入った。鳥たちが集まって、けたたましく鳴きかわしている。流木よりも柔らかそうで、黒っぽいイルカか何かに見えた。砂の上に散り散りに乱れているのは枝葉ではなく、もっとしなやかな縄か紐か海藻のようだった。
人魚という生きものがいると、旅の途中で休息に立ち寄ったアカウミガメが話してくれたことがある。腰から上は人で、足はなく腰より下はイルカの姿をしているという。「見たことあるの?」ディアが甲羅を両手でつかんでゆすり興奮でうわずった声で尋ねると、「いや、儂も長老様から聞いただけで見たことも、会ったこともない」ディアの剣幕にたじろぎ、もうしわけなさそうにする。
その人魚かと思った。
近づくにつれ確信にかわる。あれは、きっと人魚よ。そうよ。ディアの鼓動が速くなった。だって、人が横たわっているようにみえるもの。
砂浜に出ると、履いていた靴を空に蹴飛ばして裸足で走る。
ケツァールのヒスイが先導するように斜め前を飛ぶ。
人魚、人魚、人魚と、胸が跳ねて足が躍る。
だが近寄ると、半分がっかりして、十倍驚いた。
腰から下は海水を吸った布がぴったりと貼りついていたため、遠目ではイルカかクジラの腹のように見えたのだが、布の先から伸びているのは尾ひれではなく二本の脚だった。
人間だ。父さん以外の人をディアは初めて見た。
傍らにひざまずいて胸に耳を近づける。かすかに鼓動が聞こえた。まだ息はある。胸が豊かに膨らんでいるから、たぶん女の人だ。最近、ディアの胸が少し丸みを帯びて腫れてきた。何か悪い病かと、父さんに見せたら「ディアもだんだん大人の女性になるんだよ」と頭を撫でられた。
「誰か! 父さんを呼んできて。早く!」
生きものたちには自然界を生き抜くルールがあるから、むやみに助けてはいけないと教えられてきた。傷ついたものや死んだものは、別の誰かの生きる糧になるのだからと。
でも。この島に流れ着いた初めて見る父さん以外の人間。助けなければと、ディアの本能が激しく告げている。
「どうした!」
助けを求めるディアの叫びよりも早く、太い声が海風を切って轟く。ハヤブサが水平に空気を切り裂いて滑空してきた。ギンだ。浜の異変を察知して父さんに報せたのだろう。
「人か。息はあるのか」
尋ねると同時にディアを押しのけ、すばやく女の胸に両手を合わせて置くと規則正しいリズムで圧しはじめた。一、二、三、四‥‥三十を数えたら、鼻をつまんで口にかぶりつく。食べるのか? びっくりして、思わず引き離そうとディアは父の肩を引っ張った。
「口から空気を入れてるんだ、邪魔しないでくれ」
怒鳴ってまた胸を圧す。こんなに必死の父さんは初めてだ。上空で騒いでいる海猫たちをギンが鋭い眼光で睨みあげる。
ごぼっ。
ひとつ大きな音をたてて、女は腹にたまった水を吐きだした。空気が肺に届いたのだろう。げほっ、げほっと何度かむせ返す。涙なのか海水なのか。鳶色の目から水滴があふれ充血した瞳が大きく見開かれた。
大丈夫か、という父さんの問いかけには答えず、自身を取り囲むものたちを確かめるように、ゆっくりと潤んだ瞳をすべらせる。一巡するとディアに照準を合わせた。
「ここは‥‥どこ?」
かすれた声が尋ねる。ディアは何と答えていいのかわからず、「浜‥‥?」と首をかしげ、あわてて「東の浜」と付け足した。
「どこ‥‥の?」女はげほげほとむせながら問い返す。
生まれてから島しか知らないディアは、質問の意味すらわからなくて助けを求めるように父を見る。
「ここは漁師や海賊すら気にかけぬほどの小さな島でな。名はない」
「隠された島‥‥ではないのですね」
女は目を曇らせて押し黙ったが、はたと気づいたように、上半身を起こして周囲をあわててさぐる。
「たま‥‥私のにもつ、袋はどこ?」
「天卵のことか」
さっと女の顔が強張る。
ディアには「てんらん」という単語がわからない。
父さんは立ちあがると膝の砂を払い、波打ち際を右に歩む。その先の砂地に何か茶色いかたまりのようなものが転がっていて、赤や黄や青の色とりどりの小鳥たちが群れてはしゃいでいた。鳥たちの色の氾濫と太陽のまぶしさに邪魔されて定かではないが、かすかに光っているように見える。
「これか」
父さんは小鳥たちを追い払い、片手で高く袋を掲げる。しなった底辺のあちこちから海水が雫となって軒の小雨のごとくぽたぽたと並んで垂れる。砂まみれの袋は淡く光っていた。
「返して!」
女はあわてて立ちあがる。ふらふらとよろけながら歩み、砂に足をとられて倒れこんだ。すぐに両腕を支えにして顔をあげ、父のほうへと腕でにじり寄る。
「どうやら礼儀を知らないようだな。まずは、命を助けられた礼をいうべきじゃないのか。それに自分が何者なのか名乗るべきだろう」
女は胸に貼りついた砂を払いもせず正座し、父さんをきりりと見あげる。
「助けてくださったことは、心から礼を申しあげます。ありがとうございます。けれど故あって、名乗るわけにはまいりません。そして、どうかそれを返してください。私にはもうそれしかないのです。命よりもたいせつなものです」
「ふむ。この袋のなかの光るものが天卵であるとすれば、警戒するのもうなずける」
女はきっと父を見据え、今にも隙をついて飛び掛かりそうだ。
ははははは。父さんが雲ひとつない青空に向かって楽しげにひと笑いする。
「悪かったな、返すよ。俺はノア。そっちは娘のディア。島にいる人間は俺たちふたりだけだ。そしてどういうわけか、この島は外の人間からは『隠された島』と呼ばれているらしい」
女はその言葉に両手を口で押え、安堵のまじった驚嘆を目に貼りつける。
父は女の前にかがんで微かに光る袋を手渡した。
女はそれを胸に抱きしめてしばらく額をつけていたが、ひとつ大きく吐息をもらすと顔をあげ、涙をこぼしながら片頬に笑みを浮かべた。
「で、どこの誰から『隠された島』の話を聞いたんだ」
まだ女はためらっていた。海風にさらされて赤銅色に光る太い腕と銀灰色の髪をむぞうさに束ねた男を、信じていいのかどうかを。
「ま、いいさ。厄介なものを守らなきゃならないんだ。海賊に追われたか、崖から落ちたか、乗ってた小舟が転覆したか。いずれにしても大変な目に遭ってきたんだろう。疑う、警戒するってのは、生きていくための基本だ。話したくなったら、話してくれ。ずぶ濡れじゃあ風邪もひく。俺は先に戻って風呂のしたくをしておくから、ディアと来るといい。ディア、頼んだぞ」
父さんは背を向けて手をひらひらと振る。ギンがさっと肩に飛び乗った。
「待って。お待ちください」
父が歩みを止めて肩越しに振り返る。
「数々のご無礼、お赦しください。私は、レルム・ハン国エステ村の領主イヴァンが娘、ルチルと申します。お察しのとおり私はふた月前に天卵を産みました」
鳶色のつぶらな瞳がまっすぐにノアをとらえる。
「そうか」
ノアは陽に灼けた顔に刻まれた皺をなぞるように、わずかに眼尻を下げてうなずく。
「ルチルというのか。腹もすいてるだろう。くわしい話は飯を食ってからでいい。脚の感覚がもどったら、ディアとゆっくり上がってきてくれ。ぼろ家は坂の上にある。俺たちが信用できないなら、浜の先に洞窟がある。そこでも雨風くらいは凌げるだろう、お姫様育ちにはちときついけどな。好きにしてくれ」
ギンが高く空に舞いあがる。先回りするつもりだろう。父さんは流れ着いた流木を拾いながら丸太小家のある草原へとゆるやかにカーブする坂道の先に消えた。
(to be continued)
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