大河ファンタジー小説『月獅』13 第2幕「隠された島」第5章(1)
いよいよ第2幕をスタートさせます。
お楽しみいただけると幸いです。
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第2幕「隠された島」
第5章:「漂着」(1)
海から駆けあがってくる風が、洗いたての服をぱたぱたとはためかせる。飛ばされないよう、ディアはすばやくピンチで留める。
今日も風が蒼い。
「よし、これが最後。うーん、本日も洗濯物が早く乾きそう」
風にもてあそばれて頬や額に乱数のように貼りつく美しいオレンジの髪をむぞうさに払いのける。ディアはじぶんの髪がきらいだ。まっすぐで細い髪は、なんど束ねてもすぐにほどける。そうして強い海風のほしいままにされる。ディアの髪は太陽の色だと、父さんはいう。でも、ディアは父さんの銀灰色の髪のほうがずっと好きだ。ゆるく波打つ銀の髪は蒼き海風に透け、精悍な顔を崇高にする。
「どうしてわたしの髪は父さんに似なかったんだろうね」
灰金色の瞳で空を仰ぎながら、肩に止まったケツァールのヒスイにつぶやく。鳥は美しい緑にきらめく翼を片方だけ広げ陽に透かす。赤い腹毛がディアのオレンジの髪となじむ。
いつもと変わらぬ気持ちの良い風が島を吹き抜ける。
たぶん今日も、昨日や一昨日と似たような、そして明日も明後日も同じような一日がずっと続くのだと思っていた。
「ディア、ディア、ディア!」
「たいへん、たいへん!」
「ディア、たいへん、ディア!」
「はやく、早く、来て、ディア! 来て!」
突然、青や赤や黄や色とりどりの小鳥たちが、けたたましく鳴きわめいてディアの服やオレンジの髪をついばんで引っ張る。
「痛っ、痛い、痛い。わかった、わかった、行くから。放して。引っ張らないで、痛い」
「何があったの!」
鳥たちに引っ張られようにしてディアは、島唯一の砂浜へと続く坂道を駆けおりる。
両側から岬がゆるく弧を描くように伸び、その内側に波のおだやかな白いサンゴ礁の砂浜がある。島の大きな腕に守られているようで、ディアはここでよく水遊びをし、海にもぐり魚を獲る。ときには泳ぎに飽きたシロイルカたちが遊びに寄ることもある。
島は周囲せいぜい十哩ほどと小さい。東の浜以外は切り立った崖に囲まれている。断崖といってもそれほど高くはなく、浜の南側などせいぜい海抜数メートルといったところだろう。そこからなだらかな丘陵が広がり、北に聳える小高い山へと続く。山はその昔、火山だったらしい。父さんによると、六百年近く噴火していない。
「六百年前に噴火したなんて、どうしてわかるの」
ディアが揶揄うようにいうと、父さんは、
「海岸の地層をみればわかる」という。
いくら物知りの父さんでも、そんな昔のことはわかりっこない、とディアは思う。
十二歳になった今では考えられないけれど、五歳のあの日までは何をするにも父さんといっしょで、ディアの傍らには常に父がいた。
島にいる人間は父とディアの二人だけだったから、ディアには子どもどうしで遊んだ経験がない。だから遊ぶということがどういうことかよくわからなかった。父さんが山羊の乳を搾る隣で、子山羊と駆けっこする。父さんが麦の種を撒く畑の畔で、カエルを捕まえる。父さんが小屋を建てる横で、小鳥たちと歌う。毎日は楽しくそれ以上の何かがあるなど考えもしなかった。
季節ごとに木の実や果実、キノコを採りに山にわけいる。ごく幼いころは父さんが背負うしょいこに腰かけて、十分に歩けるようになると手を引かれて、父と山道を登る。
だがいつも、中腹にある小さな泉までだった。
「あのね、ディアは大きくなったから、も少し歩ける」
「そうか」
ははは、と笑いながら父はディアのオレンジの髪を大きな掌でわしゃわしゃと撫でる。ディアが瞳を輝かせ、すくっと立ちあがって歩き出そうとすると、「また、今度にしよう」といってディアの手をがしりと握って坂道をくだりはじめる。
次も、その次も、いつも泉で引き返す。
その日ディアは心に決めていた。
父さんが「帰ろうか」と腰をあげると、さっと離れ手を背に隠した。
「どうした」父がディアの顔をのぞきこむ。
「あのね、ディアはね、だまされないの」
金の目が父を真剣に見据える。
ふむ、と父は腕を組む。
「ディアは、もう、りっぱに歩けるから。お山のうえまで行けるの」
挑むように父を睨む。
ふーむ、と父は大きくひとつ息を吐くとディアを見つめた。
「よし、わかった。ただし、ひとつ約束できるか」
ディアの顔がぱあっと輝き、泉を縁どる草むらでぴょんぴょん跳ねる。
「ディアは大きくなった。だから、泉まではひとりで来てもいい。けど、ここから先、山の上までは決してひとりでは行かないと約束できるか」
「うん」と即答し、首がもげそうなほど全身でうなずく。深く考えていないことがまるわかりだ。父はまたひとつ大きなため息をこぼし、ディアの前に身をかがめる。
「ここから先は危険がいっぱいだ。父さんでも怖い」
それに、と言って立ちあがると、空に向かってピーーっとひと声長く鋭く指笛を吹く。
何かが樹木の折り重なる枝葉のすきまから一直線で降下してきた。
バサッ。
あたりの空気をなぎ倒して大きな鳥が一羽、父の肩に舞い降りた。下から見あげると白に黒の縞模様だった翼は、折りたたむと黒っぽい銀色にきらめいていた。
「ハヤブサのギンだ。こいつが常に見張っている。これの目をすり抜けることは、まず無理だろう。ディアが泉を超えたら父さんに報せてくれる。だから、こっそりは無理だ。わかったか」
猛禽類特有の鋭い眼光でぎろりと睨まれ、ディアはこくこくとうなずく。
「ギン、おてんばな娘なんでな、よろしく頼むよ」
ギンはディアを一瞥すると、ふいと視線を前に戻す。相手にされていないことがわかった。
「さて、行くか」
父さんは肩にギンをとまらせたまま、ディアの手をつかんで片笑んだ。
道々どうして危険なのかを話してくれた。
「頂上までの山道はな、ころころと道筋が変わる迷いの森なんだよ。うっかりすると、父さんでも迷う」
分かれ道にぶつかると父は肩にとまっているギンに、どっちだ、と訊く。そのたびにギンは舞いあがり上空から確かめる。草原からのながめでは低い山に見えたが、鬱蒼とした樹間の道が延々と続いて途切れない。足が重くだるくなってきた。
「くたびれたろう。おぶってやる」
父さんがディアの前で背を向けてかがむ。ディアは激しく首をふり、「だいじょぶ」と小さな声でぼそりとつぶやく。
「無理するな。山がおまえをからかってるんだ」
ディアはきょとんとする。
「この山はな、寂しがりやなのさ。子どもが来たもんだから遊んでやがる。まっすぐ頂上に向かって登ってるようにみえるが、おそらく螺旋状にぐるぐると周らされてる。三倍くらいは歩かされてるはずだ」
「だから、ほら」
また背を向けてディアをうながす。ディアは父の背に体をあずけ、肉の盛りあがった肩に顔をぎゅっとこすりつけ涙をぬぐった。ギンは道案内するため枝葉を縫いながら飛んで行く。
山がどうやって認知しているのかはわからない。だが、ディアがおぶわれたことでつまらなくなったのだろうか、しばらく進むと急に視界が開け山頂が姿を現した。
白茶にすすけた丈の高い草の原が広がっていた。穂先に白い綿毛のようなものをつけている。それが陽を浴びて金色に染まり、気ままにはしゃぐ風に撫でられ、あちらに、こちらにと無秩序にもてあそばれる。さえぎるものがないため海風が狂喜乱舞している。肩まで伸びたディアの細くてさらさらしたオレンジの髪は、払っても払っても顔に貼りついて離れない。しばらく進むと尾根がぐるりと輪になっているのがわかった。それを縁に椀のようにくぼみ、その中央に泉の五倍ほどもある大きな水たまりが父さんの肩越しに見えた。
「あれは湖。火山が噴火したその昔、山の先っぽが吹っ飛んだあとに雨水がたまってできたものだ。これ以上、近づくと‥‥」
言いながら、父は突然、草原に膝をつき辺りの草をぎゅっとつかんで両腕を突っ張る。
どうしたのかと、ディアが背から降りようとすると
「降りるな! しっかりつかまってろ」
鋭い声で一喝された。
これまでこんなに激しく叱られたことはなかった。ディアは脅えて父の首にしがみつく。父さんは四つん這いの姿勢で、そろそろとバックしはじめた。なぜそんな体勢をとっているのか、ディアには見当もつかない。肩からのぞく横顔は、唇を真一文字に引き結び、額には汗の玉が浮いていた。
二メートルほど下がると、ようやくその場に尻をついて体を起こした。ディアの足も地面に着く。父さんはさっと手を背に回してディアを抱きとり、胸の前できつく抱きしめた。腕のこきざみな震えがディアの背に伝わる。父さんの赤銅色の腕と海のにおいのする胸は大好きだけれど、あまりにきつく抱きしめられて息が苦しく足をばたつかせた。
「ああ、すまん」
父は我にかえってディアを解き放つ。
「火口には強い磁場があって引き込まれるから気をつけなきゃならん。今日は特に強かった。山がイラついているのか、ふざけているのか。いずれにしても父さんが油断した。怖い思いをさせて、すまなかった」
ディアには父の言っていることの半分もわからなかったが、山にも感情があることは、小鳥たちとおしゃべりするのと同じくらい自然なことのように思えた。山とも仲良くなることができればいいのに。ディアは火口の外輪に目をやる。
「今みたいに引き込まれそうになる危険もある。迷いの森になっているということもある。けどな、いちばんの危険は、山が寂しさに耐えきれなくなって火の粉とともに嘆きの礫を降らせることだ」
「だから、決してひとりで近づくんじゃない。わかったな」
「そうだ、この山には名前がある。ヴェスピオラ山、嘆きの山ともいう」
(to be continued)
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