大河ファンタジー小説『月獅』70 第4幕:第16章「ソラ」(5)
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第4幕「流離」
第16章「ソラ」(5)
(ソラを呑み込んだ雛は、三千メートル級のノリエンダ山脈の断崖の巣から落下した。)
ノリエンダ山脈の山頂にある断崖から落下したコンドルの雛は、まだ飛ぶことができなかった。羽ばたきの練習はしていたし、親鳥と同じ立派な翼も生えそろいつつあったから、あるいは飛べたかもしれない。だが、喉に突き刺さった激痛に正気を失っていた。気流をとらえることはおろか、痛みに身悶えし翼を開くことすら思いつきもしなかった。ソラを呑み込み、重さが二倍になった体躯はその荷重で弾丸さながらの高速で落下した。
崖に沿って三百メートルは落ちただろうか。雪解け水が育てる針葉樹の林に至ってようやく樹々に阻まれ、枝を次々に薙ぎ払い、地面に打ちつけられて果てた。雛の命が潰えると、胃の蠕動も止まったが、風圧に押しつぶされた腹はひしゃげたまま力を失くした。ソラにとって幸いだったのは、雛の厚い肉が落下の衝撃から守ってくれたことだ。
だが、すぐに収縮したままの胃壁に押しつぶされ、呼吸が苦しくなった。雛の個体としての命はこと切れていたが、体内に残された未消化物や循環の滞った血脈から早くもガスが発生しはじめていた。一刻も早くここから脱出しなければならない。ソラは本能で悟った。
嘴をこじ開けて脱出するのがもっとも手っ取り早い。雛の喉に突き刺した手刀を抜いて腰に戻すと、喉口に手をかけ、腹這いで進もうとした。ところが、筋肉のやわらかさを失った喉は収縮し、ソラの両腕がやっとなくらい狭まっていた。肩はおろか頭も通らない。いくら手や頭で広げようとしてもびくともしない。ソラを呑み込んだはずの喉首は、今ではソラの頭の半分にも満たない細さだった。
腹を切り裂くしかない。ソラは手刀を突き立て、腹を裂こうとした。けれども、肉が厚く、胃液や血まみれで刃の鋭利さも失われている。ソラの体力も限界に近づきつつあった。柄を両手で握りしめ力をこめるが、刺すことはできても、一寸たりとも動かすことができなかった。命脈の切れた内臓はさまざまなガスを噴き出す。いよいよ息がつけない。海に潜って魚を追っているときは、息が苦しくなれば水面にあがればいい。ガスの充満したこの閉鎖空間では、どこに顔を向ければ息ができるのか。
苦しい、もうだめだ。手刀の柄で額を支えるのが精一杯だった。
何かが胸をせりあがって来るのを遠ざかる意識のなかでソラは感じていた。心の臓のあたりに何かが満ちてくる。
かっと胸が熱くなった、そのときだ。
突然、まばゆい閃光がきらめき、ソラの躰の芯が強く光った。皮膚の毛穴という毛穴から何かがいっせいにほとばしり出る感覚に貫かれる。
光は一瞬で消えた。
何が起こったのか、自分が何をしたのか、わからなかった。
ただ、あれほど苦しかった呼吸が楽になった。
気づくと雛の腹の肉が内側から焦げ、下腹部に穴が開いていた。ソラは焦げた肉をむしりとり、穴を押し広げ雛の胃からにじり出た。
あたりはすっかり夜になっていた。
四つん這いで喘ぐように深呼吸し、山の冷気を肺にとりこむ。息をするというよりも、空気をむさぼり飲んだ。そのまま倒れこんで雛の骸に背をあずけ、ようやく緊張をほどいた。
月が針葉樹の林間を蒼く照らしている。星がまたたいていた。雛の胃のなかの闇は底なしだったけれど、夜はあんがい明るいんだな。
しばらく雛にもたれソラは夜空を眺めていた。
――ソラ、あれが北の碇星だよ。
シエルの声が聞こえた気がした。
闇に眼をこらし、居るはずのない影を探した。
――シエル、ディア、ノア……、母さん……。
最後にルチルの名をつぶやいた。
今朝までみんな隣にいた。けれど、今はだれもいない。ソラの傍らにあるのは、コンドルの雛の骸だけだ。
ソラはめったに泣かない。グリフィンの雛のビューに激しく突かれたときも、嘆きの山の火口に引き込まれそうになったときも、泣かなかった。コンドルの鋭い鈎爪で肩を抉られても、ひと粒の涙すらこぼさなかったけれど。
もう名を呼びかけても、応えてくれる人はいないのだと悟った瞬間、涙が堰を切ったようにあふれだした。
「シエール」
「ルチルー、母さあん」
「ディアー」
森閑とした針葉樹の林にソラの声だけがこだまする。
最後にあらん限りの声を張り上げて「ノアーーー」と叫ぶと、吠えるように泣きじゃくった。
(to be continued)
第71話に続く。
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第1幕「ルチル」は、こちらから、どうぞ。
第2幕「隠された島」は、こちらから、どうぞ。
第3幕「迷宮」は、こちらから、どうぞ。
これまでの話は、こちらのマガジンにまとめています。
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