小説『虹の振り子』20
<登場人物>
翔子:主人公
芳賀啓志:翔子の父
芳賀朋子:翔子の母
芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
ジャン:翔子の夫(イギリス人)
鳥越玲人:翔子の従兄
鳥越瑛人:玲人の息子
* * * * *
第4章:虹――<スイング> 03
――この屋敷を残したい。
その思いは、玲人にもあった。叔父は最後まで口にはしなかったけれど。
だから。「では、考えておいてくれ」と母屋に帰って行く小ぶりになった背を見送りながら、玲人はひとり誓ったのだった。
秋の日は釣瓶落としという。午後の診察がはじまる五時前だったが、すでに陽は傾きかけ、離れと母屋をつなぐ渡り廊下の影が長く尾を引いていた。
その夜、診療を終え、離れで祖父の文机に頬杖をついてうつらうつらしていると、不意に前頭葉の片隅にまばたきほどの光るものが降って来た。まさに天啓のごとく。
今だから思うのだが、何かが耳もとでささやいたような気がした。
――ここを老人ホームにすればいい。
そうだ、なんでそんな簡単なことに気づかなかったんだ。
翔子に負担をかけたくない。夫婦で最期までいっしょに暮らしたい。
たった二つの叔父が望む条件を物理的に満たすには、屋敷を処分して有料老人ホームに入るという叔父自らの案が最も合理的だ。
けれど、と玲人は考えあぐねていた。
それでは、翔ちゃんの心に重い磔刑を背負わせることになる。おそらく翔子が承諾しないだろう。私が日本に帰ってくる、と言いだしかねない。そうなると叔父の第一条件がくずれる。堂々巡りだった。
それが。パズルのピースがひとつ埋まっただけで、次から次へと、点と点がおもしろいほどつながった。これなら、屋敷も残せる。玲人自身がこれからの人生でやりたいと思っていたこともできる。アドレナリンが滾るのを感じた。眠気もふっとび、夜が明けるのが待ち遠しかった。
――はは、じいちゃんのおかげかな。
低く剪定されたいろは紅葉が、東の光に徐々に姿態をあざやかにする。
夜と朝の交錯するひととき。ひと筋の光はやがてあたりをあまねく照らす陽となる。
「めざしているのは、お年寄りたちがいっしょに暮らす終の棲家。シェアハウスみたいな感じさ」
「役所的な区分では、有料老人ホームになる。でも、そうだなぁ。グループホームと有料老人ホームのあいだぐらいかな」
玲人が膝をくずして胡坐になり、枝豆しんじょをつまみながら、目の前の瑛人に「お前も、もう、膝をくずしていいぞ」とうながす。
「まあ、気がつかなくて、ごめんなさい。ジャンも瑛人君も、楽にしてね」
と言いながら母は、そうね、私もきものを着替えてこようかしら、と席を立った。
「家族の集りだから、かしこまらなくていい。話が長くなりそうなら、居間のソファに席を移すか」
並びの席から父が提案すると、ジャンが
「ここがいいです。タタミがいい」と畳をたたく。
「ま、ということだから。痺れてぶざまなことにならないよう、膝をくずしとけ」
玲人がにたりと笑みを浮かべ、瑛人に空のグラスを傾ける。
さて、と玲人が向き直る。
「グループホームは民家を使っているところも多く、形は似てる。だが、認知症の人が対象で、夫婦でいっしょにというのが、まず無理なんだ」
ほかもね、と玲人は説明する。
特養は要介護3以上という条件があるし、老健はリハビリ主眼だから、暮らすというのとはちがう。サ高住は、そもそも、医療や介護が手薄だ。いろんな形態の施設はあるけど、「夫婦で最期までいっしょに暮らす」となると有料老人ホームしかない。あとは在宅での老老介護で、これは共倒れも多くて社会問題化している。
ふう、と玲人はひとつ大きくため息をつき、箸で椀をかき回す。
「最期まで夫婦で穏やかに暮らせないって、これっておかしくないか?」
「結婚式では、病めるときも、健やかなるときも、死がふたりを分かつまでって誓うのにさ。離婚してもいないのに、現実にはいっしょに暮らすことが難しい」
な、おかしいだろ、と穏やかな目を微かにつり上げる。
ジャンは私との出会いを「運命だ」という。そんな運命の相手とでも、最期までいっしょに暮らすのが現実には難しいのか。
――どうして、そんなことになっているのだろう?
翔子の疑問を見透かすように、玲人が語る。
日本は急速に高齢化が進んだから、しかたないと言えばしかたないけど。介護される側じゃなくて、介護する側の立場から線を引いてるんだよな。画一的というか、まあ、それが効率的ということさ。でもさ、人生の最期を思いどおりにできないって、なんだろなぁって考えてしまうんだ。
「だから」
と、玲人は暖かい雨のような声を響かせる。
「最期まで楽しく穏やかに、わが家に居るように過ごしてもらう。それを実現したい」
気負うことも衒うこともなく、ものごとの本質を見すえて希望を語る玲人に、啓志は目を細めながら、「医者になる」と宣言して家に帰っていった中学生の玲人を思い出していた。
周囲が見過ごしてしまうほどの小さな違和感に気づいて立ち止まり、流れに棹さす。
流されてしまうほうが、ずっと楽なのだ。でも、玲人はそうしない。
母親のお家第一主義に、ぷいっと顔を背け、考えもなしに医学の道から目を逸らした自分とは、なんというちがいだろうと啓志は思う。父に診察室を閉じさせてしまった後悔が今もなお心に澱み、芳賀医院にこだわっているのは、他ならぬ私自身だ。母よりもずっと執着が深かったのだと苦笑がもれる。
甥の玲人はおそらく、そんな私の気持ちも掬いとり、そのうえに自身のやるべきことも見出したのだ。そして、それをきっと実現させるだろう。診察室の時計を再び動かしたように。
「その一環として、地域に開かれたホームにしたい」
「コンセプトは、近所づきあいのあるホームだ」
どういうこと?と、翔子は疑問符が貼りついたまなざしを向ける。
翔子のとまどいを愉しむように、玲人はにこにこしている。
「住宅街のなかにあってもね、高齢者施設は陸の孤島みたいに孤立しているんだよ」
「家族が入所しているとか、デイサービスなどを利用してなければ、すぐ隣の家でも無関心だし、ましてや施設に入っているお年寄りのことなんて知りもしない。そこにあるのに、存在が無視されている。入所しているお年寄りにとったら、そこだけが世界のすべてで閉じた空間なんだ」
「地域との交流と称して、近所のコーラスグループとか中学校の吹奏楽部とかが施設に招かれたりするけど。そもそもあれは交流といえるのかな」
「いわゆる慰問みたいなもんだから、お年寄りの側は受け身だ。聴くだけ、観るだけ。訪問する側も演奏したら、おしまい。そのとき限りだから、お互いに知り合いになることはない」
そこで玲人はひと息つき、ビールをあおる。
「その関係性のベクトルを逆さまにしようと思う」
と言いながら、箸をくるっと返して、先を翔子に向ける。
「逆さまにする?」
翔子はますますわからなくなり、小首をかしげる。
「そう」
「たとえば。叔母さんは、お茶とお花と琴の師範免状をもってるだろ。それらを格安で教える。つまり、提供する側になるんだ」
「お母さん、お免状は持ってるけど教えたことはないし、手順を忘れてないかしら」
母が着替えから戻ってくる足音がしないか、翔子は耳を澄ましながらトーンを落としてささやく。
「大丈夫だよ。若いころに覚えた長期記憶は忘れにくいし、体が覚えてるからね。一回千円にすれば、習いたい人はいるだろう。人数も二、三人とか、あまり多くないほうが、むしろいい。お互いにうちとけやすいし、話もはずむ。目的は教えることより、知り合いになることだから」
「ほかにもさ。漬け物が上手な人なら、手作りのすぐきなんかを門の脇に置いて、野菜の直売みたいに欲しい人は箱に代金を入れてもらう。季節ごとに漬け物の講習会をやったりしてさ」
「そうして得たささやかな収入は、ホームの売上にするのではなくて。作った人、教えた人の小遣いにする。そうすれば、お年寄りの喜びにも励みにもなるだろ」
玲人の話は、次から次へと、とどまるけはいがない。
アイデアが体の奥から湧きあがり、舌先で言葉に姿をかえるようだ。こんなに興奮して語るれい兄ちゃんを見るのは、いつぶりだろう。
幼い日、書斎の本棚に玲人ともたれて物語ごっこをしたのを思い出した。翔子が「むかし、むかし」というと、玲人があとを引き受ける。玲人は翔子を喜ばせようと、即席の終わりなき物語を延々と語ってくれた。「続きは、また明日」でいつも終わる物語。その続きが待ちきれなくて、翔子は書斎で玲人の語る物語の本を探したが、とうとう見つからなかった。ずいぶん大きくなってから、れい兄ちゃんの創作だったと知った。
あのときと同じように、翔子は今、身を乗りだし胸をときめかせている。
「この庭の桜はみごとだから、花見の会をするのもいいね。近所の人にも、縁側で桜を楽しんでもらう。雛祭りもしたいなぁ。蔵にあるお雛様を一堂に並べたら壮観だよ、きっと」
「町内会にも加盟して、清掃活動や小学生の見守り当番にも参加する」
「そうやって、ふだんから近所づきあいをして、顔なじみになっているとさ。認知症が進んで徘徊がはじまっても、あ、あれはホームのおばあさんじゃないかって、ご近所さんが気づいてくださるだろ。セーフティネットがそこらじゅうに張り巡らされていることになるんだよ」
な、すごいだろ、と玲人が片目をつぶって不器用なウインクをする。
「たいていの高齢者施設には、エレベーターや出入口への扉が暗証番号なんかでロックされている。徘徊対策と安全のため致しかたないんだけど。でもさ、籠の鳥みたいで哀しくなるんだよ」
平均寿命は延びたけれど、延びたぶんだけ不自由になるって、どうなんだろうね。
玲人は一瞬やりきれない嘆息を顔に貼りつけ天井を見あげる。それを払うように首を大きく振ってから翔子に視線を戻す。
「だけどさ。ふだんからつきあいがあれば、『見かけたら、連絡してください』とお願いもしやすい。もちろん、門とか必要な箇所に防犯カメラはつけるよ。でも、カメラは『帰ろう』とうながしてはくれない。結局、人と人とのつながりが、いちばん心強い。だから、門は安全のために閉めるんじゃなくて、近所の人が気軽に出入りできるように開けておく」
そうか、と翔子はようやく納得がいった。玲人のいう「近所づきあいのあるホーム」が何をめざしているのかが。
そのときちょうど、ワンピースに着替えた母が、炒り番茶を入れたガラスのピッチャーとういろうに餡ののった季節の菓子「水無月」を盆にのせて入ってきた。炒り番茶のスモーキーな薫りが風に流れる。翔子は立って母の側にまわって盆を受け取り、切り子のグラスに注いで配る。
「これ、炒り番茶ですよね」瑛人がたずねる。
「あら、ごめんなさい。瑛人君、炒り番茶の香りは苦手?」
翔子があわてて瑛人のグラスをさげようとすると、
「いえ、好きです。これ」
瑛人がグラスをひと息に飲みほす。
「一保堂の炒り番茶、ばあちゃんが好きだっただろ。だからかな。うちでも夏はいつもこれだよ。そういえば、ばあちゃん、室町の『塩芳軒』の水無月も好きだったなぁ」
「そうね。この季節になると、よくお義母様にお使いに出されました」
母がなつかしむように目を細める。
「けっこう遠いのに、わざわざ。あいかわらず、わがままだったんだ」
「時間がかかってもよろし、とおっしゃって。私の実家が室町でしょ。だから、お義母様ならではのお心遣いだったんですよ」
「へえ。婉曲表現が苦手な人かと思ってたけど。そういう回りくどい気遣いもしてたんだ」
玲人が妙なところに感心する。
「ふふ。お義母様の言葉には裏表がなかったので、『時間がかかってもよろし』はゆっくりしてきなさい、と素直に受け取ることができたのよ」
「ばあちゃんの炒り番茶好きや和菓子の好みが、うちにも受け継がれてますからね。芳賀家を精神的に支えたゴッドマザーだったんだなと思いますよ」
玲人は祖母の凛とした横顔を思い浮かべ、優しさを言葉の裏に照れ隠した祖母とそれを受けとめた叔母の関係の豊かさを想う。人と人は、たとえ日々のいざこざがあっても、交われば、こういう関係を築くこともできるのだ。
「そうだ、ホームの名前だけどさ。『虹の家』というのは、どうかな」
「虹のかかるところには、幸せがあるというだろ」
玲人の提案にまっさきに声をあげたのは、意外にもジャンだった。
「オオ、虹!グレイト!」
ジャンが興奮ぎみに澄んだ青い瞳をまたたかせる。
「お父さん、教えてくれた。漢字の虹、天と地、ドラゴンがつないでる」
「そうさ。中国では虹は龍の化身といわれる。天と地、人と人をつないで、虹は希望の橋を空にかける」
「いい名だな」
父が満足げに何度もうなずく
「まあ、ほんとうに。すてきな名前ですこと」
母も花のように笑みをほころばせる。
「れい兄ちゃん、ありがとう」
翔子は父と母に目をやり、胸にこみあげる波を抑えながら、うっすらと目尻に涙のすじを浮かべる。
「悪いけど、翔ちゃん、感動するには早いよ。まだ、あと二つ架けたい橋があるんだ」
(to be continued)
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