小説『虹の振り子』19
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第4章:虹――<スイング> 02
翔子の困惑など素知らぬげに、庭の青紅葉の枝で四十雀が甲高い鳴き声をしきりにあげていた。
いつもは深く濃く凪いでいる翔子の黒目がちの瞳が、視点が定まらずに泳いでいるのを、玲人は認めた。幼いころから翔子は動揺すると瞳が泳ぐ。翔子が何を懸念しているのか、胸のうちが手にとるようだと、玲人は思った。
「叔父さん、ここからは、僕が」
玲人が啓志に目くばせする。
「どの順で話したものかな。まあ、ゆっくり食べながら話そう。時間はたっぷりあるのだから」
明るい声を響かせ、玲人はビールをひと息に飲みほす。三十代後半から二重になった顎の下のたるみが、ぐびぐびと波打つ。
グラスを空にすると「イギリスのぬるいエールもうまいが、日本の夏にはキンキンに冷えたラガーだ」と満足げに笑い、さて、と続ける。
「相談を受けたのは、去年の秋、叔母さんの症状を診断した直後だった」
玲人はまなざしをいっそう穏やかにして語りはじめた。
「ふたりでどこか有料老人ホームに入ろうと考えている。ついては、この屋敷を処分することになるだろう。そうなったら、病院と屋敷を切り離さないといけない」
「まずは、そんな相談を受けたんだ」
翔子がとっさに顔をこわばらせ、瞳を揺らす。
「僕も還暦を過ぎて一年たってたし、これからについて考えはじめていてね。ほら、こいつが‥‥」と、向かいの席の瑛人に空になったグラスを向け催促する。
瑛人が「いっつもこれだよ」と文句を言いながら、ビールをつぐ。
それをひと口あおってから
「研修医を終えるころだったからさ。あと二、三年、どっかの公立病院で臨床の修行をさせたら芳賀医院を任せて、じぶんのやりたいことをしようかと考えていた矢先だった」
「れい兄ちゃんのやりたいことって‥‥」
翔子がかすれた声で尋ねる。
「在宅医療さ」鮎の踊り串をはずしながらいう。
「今は患者が病院に来るだろ」
「そうね」
「だが、昔は医者が患者の家を訪問治療していた」
「どちらにもメリットとデメリットはある。だけど、自力で病院に来ることのできないお年寄りには、訪問診療がいい」
「歳いって何かあると介護施設か病院だろ。まあ、病院も入院を短くしだしたから。退院させて療養型施設か、施設と病院を出たり入ったりしている患者さんもいる。いずれにしても自宅で最期を迎える人はごく少数だ。でも、それでいいんだろうか。それっておかしくないか? と、まあ、そんなふうに考えていたところだったんだ」
玲人のまっとうな考えが、翔子の胸をちくりと刺す。
じぶんの体が二つあれば、と何度バカなことを夢想しただろう。
イギリスで暮らしたい。でも、父と母のことも気にかかる。
欲望と心配のあいだで、イギリスと日本のあいだで揺れてきた。
答えは簡単なのだ、日本に帰りさえすればいい。なのに、私はどうしてそうしないのか。なぜ、いつまでたっても覚悟が定まらないのか。
おそらく、と翔子は思う。芳賀家を継がねばならないこと。この「ねばならない」が、気持ちにブレーキをかけ尻込みさせるのだ。日本に帰れば、逃れられなくなる。イギリスの貴族の館と比べると、芳賀家なんてたいしたことないのだけれど。小さなため息がこぼれる。
十年ほど前に、父母にイギリスで暮らさないかと提案したことがある。
父は「ありがとう」と言って、「イギリスもいいね。でも、私はどうも京都を離れられないみたいだ。すまないね」とやんわりと断られた。
コッツウォルズあたりに家を買ってもいいかなとか、あれこれ勝手に思い描いていたので、がっかりしたのを覚えている。
でも、よく考えてみると、これほど勝手な提案もなかった。じぶんの思いばかりで、父や母の気持ちを何も考えていなかったのだから。長く暮らせば暮らすほど、いつのまにか愛着がじんわりと沁みていき離れられなくなる。私だって、たかが二十数年暮らしただけのイギリスから離れがたくなっているというのに。
「それでさ、叔父さんに、老人ホームに入るかどうかは別にして、譲れない希望は何ですか、と尋ねたんだ」
玲人はちらりと啓志に目をやる。翔子も父を見る。
「どうしても譲れないのは‥‥」と言いながら、玲人は翔子をしばらく見据え、それから言葉を続けた。
「翔ちゃん、君に負担をかけたくない。ということだった」
喉の内側を苦く熱いものがすべりおりる。まなじりの端から涙の粒があふれそうになって、翔子はぐっとそれを飲みこんだ。泣くことですべてをチャラにするような身勝手だけは許されない。それだけは、絶対に。
「じぶんたちの介護だけでなく、芳賀家の問題についてもだよ。とにかくいっさいの負担をかけたくないと」
そうですよね、というふうに玲人は啓志に目をやる。
啓志は「そうだ」と叩頭する。
「お父さん‥‥」
言いかける翔子を玲人は制する。
「翔ちゃん、まあ、ちょっと待って。とりあえず話を聞いてほしい」
「もうひとつの希望は、最期まで夫婦ふたりで暮らしたいだった」
「それで、考えたんだよ。僕も、ちょうど人生をリセットしようと思っていたタイミングだったからね」
去年の秋だった。
午前の診察が終わるのを待って、叔父は離れにふらりと現れた。「切通しの進々堂で玉子サンドを買ってきたんだ、食べないか」と言って。
祖母が亡くなってから、離れは玲人が使っていた。
午後の診察までの時間のたいていは、ここで過ごす。祖父がそうであったように、書斎から抜き取ってきた書物があたりに山を築いている。異なるのは、文机の上に顕微鏡ではなくパソコンがあるのと、病院関係の資料が置かれているくらいだ。午後の診察を終えるとここで入力作業もする。月末に作業がたてこむと、離れで泊まることもあった。
叔父がやって来たのは、叔母の診察をした三日後で、庭の紅葉が色づきはじめていた。
叔母の変化にはうすうす気づいてはいた。
だが、認知症を病気として扱うことに、医師である玲人自身が納得できていないところがあった。むろん、認知症の症状に攻撃的になることや徘徊といった、周囲を困らすものがあることは理解している。だが、困るのは周りであって本人の体に不調があるわけではない。認知症でなくとも怒りっぽくなる老人は多い。だから、ゆるやかな老いの一環だと思ってしまうのだ。
というようなことを叔父に話した。
すると叔父も「私の考えも同じだ」とうなずいて、「人はね、今と過去、そして未来のあいだを振り子のように振れながら等時性で生きていると思うのだよ」と続けた。だから、朋子は昔の幸せだった時間にふらりと出かけて楽しんでいる、それでいいんだ、と言う。
そのうえで「私も遠からずそうなるだろうから、今のうちに長年の懸案事項に片をつけておこうと思ってね」と笑って、有料老人ホームへの入居を考えていると打ち明けられた。
「叔父さんたちの意向と、僕の意向とを照らし合わせて、数日、考えたよ」
「相談を受けたときに天啓みたいにひらめいてはいた。けど、実際に可能かどうかを検討するのに数日かかった。役所の介護保険課の知り合いにも相談したりしてね」
「で、出した結論が、『この家を有料老人ホームにする』なんだ」
玲人はまたビールをぐいと喉に流し込んでひと息つく。
ようやく話の本題に入るけはいに、翔子はみがまえる。
「老人ホームといっても、家を壊して建て替えるんじゃない。屋敷も庭もほとんどそのままにして、お年寄りが共に暮らす場所にしようと考えている」
「この家と庭がキーポイントになるんだ」
「翔ちゃんがたぶん気になっている書斎は、もちろん、そのまま残すよ」
どう? 安心した? とでも言いたげに、玲人は顎に手をついてはす向かいの翔子を見つめ、にやりと笑う。
ちりん、ちりん。
軒につるした風鈴が、ゆるい風が通ったことを知らせる。
「まったくそのままというわけにはいかないけどね。少なくとも、エレベーターの設置と風呂の改装、それから耐震補強工事は必要になるだろう。玄関にスロープもいるかな。だけど、他はできるだけそのままで使いたいんだ。茶室もそのままにする。芳賀医院はこいつに任せて‥‥」
と、玲人はまた空になったグラスを瑛人に向ける。慣れたもので、瑛人は「はい、はい」とビールをつぐ。なんだか親子というより夫婦みたい、と翔子はくすりとほほ笑む。
「で、僕はホームの専属医というのが基本。そのかたわら訪問診療にも取り組む。ホームは医療法人『仁啓会』が運営する」
医療法人『仁啓会』というのは、芳賀医院を法人化する際に玲人が命名した。祖父の仁志と、父の啓志から一文字ずつ採っている。「私は医者じゃないんだから」と父はずいぶん難色を示したらしい。
すると玲人は「医は仁術の『仁』と、それを『啓く』で、『仁啓会』。これほどいい名前はないでしょ」と押し切ったと聞いている。
「つまり、芳賀家の土地と家屋は『仁啓会』が買い取ることになる。芳賀本家は叔父さんの代でおしまい。だけど、叔父さんたちは最期まで、夫婦でこの家で暮らすことができる。ただし、プライベートな部屋は二間だけになるけどね。居間とか書斎とかは共有部分になるし、そのほかの部屋は、他の入居カップルの個室になる。叔父さんたち以外には、あと三組ぐらいの夫婦の入居を想定している」
「翔ちゃん、どうだろう。いいかな?」
玲人が翔子を静かに見つめる。
いいも、何も。こんなあざやかな解決法があったのか。
翔子が長年思い悩んできた芳賀家相続の問題と両親の介護の問題。
それが。玲人がトランプの表と裏をひっくり返しただけで、みごとに解決されているのだ。
――手品みたい。
翔子は小さくつぶやく。
玲人は翔子に視線を据えたまま、その返事を待っている。
「れい兄ちゃん、ありがとう。よろしくお願いします」
翔子は頭をさげながら、そっと目尻をぬぐう。
話がとぎれたタイミングを見計らって、瑛人が座布団からすべりおり、姿勢をあらため膝に拳をのせ一同を見渡す。
「そんなわけで、僕が芳賀医院を継ぐことになりました。若輩者ですが、どうぞよろしくお願い申しあげます」
瑛人は手をついて頭をさげる。
翔子はようやく、瑛人がこの席に呼ばれている意味を理解した。
「瑛人君は、それでいいの」
「はい。僕は父の夢にのってみたいと思いました。たぶん、これから父が語るホームの構想や理念をお聞きになったら、翔子おばさんもワクワクされると思いますよ」
今聞いた話だけでも、十分にすばらしいのに。まだ、続きがあるというのか。それだけでも驚きだ。
翔子はまじまじと玲人を見る。
「おい、ばらすなよ。感動が半減するだろ」
玲人は冗談めかして瑛人を軽くにらみ、いたずらを仕掛ける少年の顔になる。
(to be continued)
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