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小説『虹の振り子』18

第1話から読む。
前話(17)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀はが啓志けいし:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
   鳥越玲人れいと:翔子の従兄 
  鳥越瑛人えいと:玲人の息子
     鳥越貴美子:玲人の母、啓志の姉
  鳥越彬人あきと:玲人の兄  
 

* * * * *

第4章:虹――<スイング> 01

 翌日は、朝から晴れていた。
 縁側の端から、朝の光の束が細い筋となってハープの弦のように並び、居間まで射し込んでいる。光の音色が聞こえてきそうだと翔子は思った。
 ――昨日、梅雨入りが発表されたというのに、空も気まぐれね。
 広縁から庭に下りて、空を見あげる。
 刷毛ではいたような薄い雲がたなびいていた。築山の裾で紫陽花が白くまるい顔を輝かせている。
 翔子は、うーんと大きく伸びをする。
 昨日の雨のしめりけを残した地面が、陽にあたためられ細く蒸気をはきだしていた。
 夏へと近づくねっとりとした空気。いつもなら不快に思うそれも、れい兄ちゃんに久しぶりに会えると思うと、なんだか気持ちが上を向く。
 さてと。昼までに縁側のからぶきでもしようかな。

 両親の健康は、玲人がずっと診てくれていた。
 翔子の留学と入れ替わりで玲人が芳賀医院を再開させたことは翔子を安堵させ、心おきなくイギリスへと旅立つことができた。
 帰国するたびに、診察が終わるのを待って両親のようすについて尋ねる。
 はじめのころは「いやあ、叔父さんは元気だね。あれで古稀とは思えないよ」だったのが、そのうち「まあ、歳相応としそうおうの小さな不調はあるけど、おおむね大丈夫だ」に変化してきていた。母が狭心症を患いステントをめ込むカテーテル治療で入院したときも、「入院は三日だけだから、翔ちゃんは帰国しなくて大丈夫だよ。手術も一時間もかからないからね」と請け負ってくれた。
 そばに玲人がついているという安心は何ものにも代えがたく、甘えることに慣れてしまっていたのだと、翔子はため息をつく。
 私はいつまでたっても「小さな翔ちゃん」のままだった。

 玲人に甘えるのは、靴を右足から履くのと同じくらい、翔子にとっては自然なことだ。もっとも、甘えているという自覚すらないことのほうが多い。
 古い記憶の映像のなかで、幼い翔子の手を引いているのはいつも玲人だ。翔子はつないだ大きな手の先のれい兄ちゃんを見あげて笑う。玲人が微笑みかえす。その光景を思い出すたびに、胸のいちばんやわらかい場所がきゅっとなる。
 小学校にあがるまで、翔子は玲人が実の兄だと思い込んでいた。だから、「れい兄ちゃんどこー?」と家のなかを探しまわり、居ないとわかると泣きじゃくる。あれには本当に困ったのよと、母が思い出すたびにくすっと笑う。
 翔子が二つになって、ますますおしゃまになった頃、玲人が不登校になり中学三年の一年間を芳賀家で過ごした。翔子は玲人について回り、ほぼ四六時中、いっしょだった。その濃密な時間が、幼い翔子のかんちがいに拍車をかけた。

 翔子が生まれた春、玲人は私立の中高一貫校に入学した。
 兄の彬人あきとも通う男子校で、鳥越家の男子はよほどのことがない限り、そこに通うのが不文律になっていた。ところが、そもそも望んで入った学校ではなかったためか、進学校特有の雰囲気になじめず、これといった友人もできずにいた。近所の公立中学に通う幼なじみたちとは通学時間帯が重ならず、出会うこともない。急にぽつんと一人になったような錯覚が玲人をとまどわせた。
 通学の途上に芳賀家があったこともあり、気づけば学校帰りに寄るようになっていた。
 揺りかごにあごをのせながら、生まれたばかりの翔子の相手をしているときだけ、玲人は深く息をすることができた。
 翔子はむずかっていても、玲人があやすと泣き止む。
「あら、わかるのかしら。玲人君だと、おりこうさんになるのね」
 叔母の朋子が、「助かるわぁ」と笑顔を向ける。
 それは偶然のできごとだったのかもしれない。それでも、無心に伸ばされる小さな手と、叔母のほめ言葉が玲人の心のすきまを埋めてくれた。
 翔子が這いまわるようになり、やがて歩けるようになると、ますます玲人から離れなくなった。気づけば、ほぼ毎日のように芳賀家に寄っていた。
 勉強についていけなかったわけではない。ろくに勉強もしないのに、成績は中の上くらい。運動もできるほうだから、バカにされたり、からかわれたわけでもない。それなのに、しだいに学校に行けなくなった。理由は今でもよくわからない。
 朝、家を出る。だが、芳賀家の前までくると苦しくなる。はじめは気分が落ち着くと、学校に向かっていたのだが、そのうちまったく行けなくなった。それでも、芳賀家には通い、夕方になると家に帰るを繰り返していた。
 ひと月も経たないある日、祖母の登美子がいつもの気まぐれも多分にあったのだろう、「いちいち家に帰るようなめんどうをせずとも、好きなだけこの家におったら、よろし。学校なんてつまらんところにも行かんでも、よろし」と言い放った。
 祖母のひと言で、すべてが決まった。
 母の貴美子は、「そりゃ、おばあちゃまは何もしないから、いいけど。朋子さんは翔子ちゃんの世話だけでもたいへんなのに」と気をもんだが、朋子は「玲人君がいてくれると翔子のきげんが良いから、助かります」とかえって頼みこんだらしい。
 私立の中高一貫校だったのが幸いした。高校受験の心配もなく、欠席が続いても進学に影響がなかったから、貴美子も容認せざるをえなかった。
 以来、玲人は心おきなく、翔子と庭遊びをしたり、使われなくなった診察室の掃除を手伝ったりしながら、多くの時間を書斎で過ごした。
 はじめは図鑑を眺める程度だったが、そのうち歴史書からはじまって文学、科学、美術書や哲学書までジャンルを問わずにむさぼるように読んだ。医学書も人体図などの図版を見ているだけだったのが、診察室の薬品の匂いや診療器具への興味も作用したのか、しだいに本文にも没頭するようになった。するとおもしろいもので、新たにわいた興味が次の一冊へ、また次の一冊へと玲人をいざなう。海図が無くとも進める知識の海は、しんと鎮まったまま動き出せずにいた玲人の気持ちをしだいに揺さぶった。
 はじめは小さな渦だったうねりは、やがて、十時十二分で止まっている診察室の柱時計をいつか自分がめざめさせたいという具体的な願いとなり、はっきりと「医者になりたい」という想いへと昇華する頃、玲人は祖母に「学校に行く」と宣言して、家へ帰った。 

「あの一年があったから、今の俺がある」玲人は、ことあるごとに言う。
「だから、芳賀家は第二の実家のようなものさ」と。
 玲人は従兄であって兄ではないことは、翔子も頭ではわかっている。
 それでも、「れい兄ちゃん」は翔子にとってはたしかに家族のひとりなのだ、今でも。

 ガラ、カラカラカラ。
 玄関の格子戸の音が聞こえた。翔子は盃を配っていた手をとめる。
「よ、翔ちゃん」
 玲人が恰幅のよくなった体を揺らし、案内を待たずに部屋に姿を現した。
「ジャン、久しぶりだな。翔ちゃんのお守り、ごくろうさま」と、ジャンの肩をたたく。
「れい兄ちゃん、お守りって何よ、失礼ね」
 翔子が玲人を見あげて、むくれる。
「翔子おばさん、ご無沙汰してます」
 玲人の背後から、スーツ姿の青年が頭をさげる。丸顔で愛嬌のある目。どことなく玲人の若いころと面差しが似ている。
「あら、ひょっとして瑛人えいと君?」
「まあ、いい青年になって」
 瑛人は玲人の息子で、確か大学病院で研修医をしていたはずだ。
 それで六膳だったのか。
 親戚の集りがあると昔から贔屓ひいきにしている仕出し屋の『田野井』が、先ほど膳を並べてくれたのだが、玲人をいれて五人だと思っていたので、「あら、お膳が一つ多いはね」というと、運んできた店の者が「いえ、六膳とお伺いしています」と注文書を見せてくれた。不思議に思っていたが、瑛人のぶんだったのかと納得がいった。でも、なぜ瑛人がいるのだろう。

「まあ、適当に座ってくれ。瑛人君も、今日はすまないね」
 父はにこにこしながら皆に着座をうながす。
 翔子は、母が父の隣に座るのを見とどけると、居ずまいを正す。
「お父さん、米寿おめでとうございます。これからも元気でいてね」
 祝いの言葉を述べながら、かたわらに用意していた贈り物を差しだす。
「はい、これ。ジャンと私から」
「ありがとう、何かな」
 父は眼鏡をかけて、丁寧に包みを開ける。
「お、これは。カールツァイスか」
 父がよろこびの声をあげる。
「そう。読書用のルーペは最新のものだけど。顕微鏡のレンズは、お祖父様の顕微鏡のものよ。さすがに古くて、もう製造が中止になっていたから、特注で作ってもらったの」
「いや、これは、うれしいね」
 父が鈍く光る真鍮の接眼レンズを手にとり、目にあてる。
「へぇ、じいちゃんの顕微鏡のレンズか」
 玲人も身を乗り出す。
「接眼レンズだけじゃなくて、対物レンズまであるのか。すごいな」
 たまらなくなったのだろう。玲人は父の隣にまわりレンズに手をのばす。
「お父さん、顕微鏡は書斎の机の上でしょ。取ってこようか」
 翔子が尋ねながら腰を浮かしかけると、父が制した。

「いや、酔っぱらう前に本題に入ろう。楽しみは後にとっておくよ」
 それを合図に玲人も席にもどる。
 父は接眼レンズをケースにもどすと、翔子に視線を合わせた。
「芳賀家をどうするかだが。まず、翔子の考えを聞こう。こうしたい、という希望があれば、遠慮せずに言いなさい」
 困ったときの癖で、翔子は上唇で下唇をなめ、おずおずと言葉を口にのせる。
「私が継がなければいけないことは理解しているし、芳賀家の問題を別にしても、お父さんとお母さんのためにも日本に帰るべきなのは、よくわかっている…」
 そこでためらい、口をつぐむ。叱られた子どものように言葉が続かない。
「親子なんだから遠慮することはない。私が確認したいのは、翔子、君の本心だよ。私たちへの気持ちが十分にあることはわかっているのだからね。これまでどおりイギリスで暮らしたいのだろ?」
 父のまなざしに気圧けおされ、翔子はちらりとジャンに視線を走らせながら無言でうなずく。
「そうか、それなら話は早い」
 父の声が、霧が晴れたように急に軽やかになる。
「実は、玲人君とは少し前から相談していてね。おおむね話がついているんだよ」
 翔子は斜め向かいの玲人に目をやる。
 玲人は大丈夫だよ、とでも言うように、やさしいまなざしを返す。

「結論からいうと、ここを老人ホームにしてしまおう、と考えている」
 父が静かな声で、でも、はっきりと宣言する。
 ――え? 
 翔子は思いもかけない話に頭が空回りする。
 家を取り壊して、老人ホームを建てるということだろうか。
 それとも、屋敷を売ってしまうということだろうか。
 翔子の胸に真っ先に去来したのは、じゃあ、書斎はどうなるの?だった。


(to be continued)

第19話(19)に続く→

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