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小説『虹の振り子』17

第1話から読む。
前話(16)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀はが啓志けいし:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
 鳥越玲人れいと:翔子の従兄 

* * * * *

第3章:帰宅――<ホーム> 09

「いい機会だから、私からもひとつ謝っておこう」
 翔子の視線を受け止めると、父がまるで世間話でもする気軽さで言う。
 雨があがりかけたのだろうか、葉桜の枝先でヒヨドリが甲高いひと鳴きをあげる。

「母が‥‥君にとってはお祖母様だがね、とにかく芳賀家大事の人で、うんざりしていた。啓志を産んだのは芳賀家のためだと事あるごとに言い切っていてね。『私のレーゾンデートルは家の存続にしかないのですか』と、思春期のころにはずいぶんつっかかったものさ。
 うちは一族のほとんどが医者だろ。それなのに本家の跡取りである私が医者にならなかったのは、そういうお家第一主義への、まあいわば青い反抗だった。若かったんだね。だから、子どもなんてどうでもいい、要らないとすら思っていた」
 翔子は父が何を話そうとしているのか見当がつかず、膝に置いた手に力をこめた。二本の腕がつっかえ棒のように上体を支える。肩が張る。

「そうかしこまらずに、食べながら聞いておくれ」
 そういって、父は彩りよく盛られた料理に手をつける。
「お、走りの鱧が入っている。ジャンは、梅干しは大丈夫か?」
「少し、ダイジョブ」
「そうか。じゃあ、この鱧の梅あえを食べてごらん。うまいよ。
 鱧といえば、祇園祭だね。まだひと月も先だけど」
「ハモ? ギオンマツリ?」
 ジャンが疑問符をぶらさげた顔をしている。
「ほら、えーっと何年前だったかしら、観たことがあったでしょ」
 翔子が助け舟を出す。
「山鉾っていう大きなフロートが何台も行進するフェスティバルよ。船の形や、屋根の上に長刀なぎなたが乗ってたり、動くカマキリがいたりして。いちいち感動してたじゃない」
「オオ、あれはアメイジングだった!」
 ジャンが思い出したのだろう、興奮する。
「この白い肉? 魚?とマツリ、どんな関係ある?」
「これは、ハモっていって、フィッシュよ。ジャンの好きなウナギみたいにスマートな魚で、夏に美味しくなるの」
 そういいながら、翔子は抽斗ひきだし型の三つの箱に目を走らす。
「あ、やっぱりあった。ほら、この箱寿司も食べてみて。ウナギの蒲焼きと、ちょっとテイストが似てるから」
 ジャンがひと口サイズの鱧寿司をほおばっていると、啓志も箸でつまむ。
「京都はまわりに海がないだろ。だから、昔は海の魚が貴重でね。夏場はとくに痛みやすい。ところが鱧は生命力が強くてね。獲れたてを生きたまま京都まで運ぶことができた。京都の人にとって、鱧は夏のごちそうだった」
「祇園祭は七月一日からはじまる。ちょうど鱧がいちばん美味しくなるころだ。だから、祇園祭は鱧祭ともいわれるんだよ」
 鱧と錦糸卵を市松に盛りつけた箱寿司のひとつを翔子もほおばる。
 祇園さんのころになると、居酒屋でも鱧がメニューにあがるから、鱧祭と呼ばれることは知っていたが。旬だからとしか思っていなかった。そういうわけだったのか。いまだに父に教えられることの、なんと多いことか。

「祇園祭というのは、そもそも、疫病つまり伝染病の…」
 父がまた語りはじめる。話題が祇園祭のほうに流れそうなけはいだ。
「お父さん、祇園祭の話はあとにして」
「いや、すまん。つい脇道にそれてしまう。いけない癖だね」
「さて、どこまで話したかな」
 啓志が翔子に目をやる。
「子どもを要らないと思っていた、だったかしら」
「ああ、そうだね」
 話が長くなると思ったのだろう。
 母が父の湯呑を盆にとり、仲居が置いていった急須を手にかけて茶を注いで戻す。
 さりげなく流れるような一連の所作に、この夫婦の積み重ねてきた時を想う。母は父に茶を出すタイミングを実によく心得ている。

「お家第一主義にほとほと嫌気がさしていたから、芳賀家なんてどうなってもいい、子どもなんて要らないと思っていた」
「ところが結婚すると、母の矛先が朋子に向かってしまってね。子どもができないことを、朋子が責められるようになった」
 母が椀物に伸ばしかけた手を引いて、父の横顔を伺いながらいう。
「あら、私はちっとも気にしていませんでしたよ。お義母様かあさまは当然のことをおっしゃっていただけですもの。それに、私も赤ちゃんが欲しかった」
「そうだね」
 母にちらりと目をやり、父は口の端をほんの少しあげ微笑む。
「ところが、遠慮してひとり耐えているんじゃないかと勝手に決めつけたんだ、私は。君をかばいたかったし、守りたかった。それがどんなに高慢な考えだったか。『守る夫』を演じることに酔いしれていた。愚かなことだ」
 父はため息をついて、箸を置き、上半身を左隣に向け軽く頭を下げる。
「すまなかった」
「あら、いやですわ。私ではなくて、翔子ちゃんに謝るのでしょう?」
「これだけ生きていると謝るべきことも、いろいろあるさ。これからは、思い出すたびに、謝って回るよ」
 いたずらを見つかった少年のように、にっと笑う。
 それを見て、まあ、と母がおかしそうにくすくす笑う。
 愛の言葉をささやいたわけでもないのに。
 ふわりと、やわらかな空気がふたりを包む。

 母が淹れた茶をひと口すすり、「さて」と父は続ける。
「愚かで短絡的だった私は、いつしか子の誕生を望むようになった」
 その何がいけないというのだろうか。
「子どもさえ授かれば、母の責めから朋子を解放できる。それしか頭になかった。生まれて来る子のことなんて、これっぽちも考えてなかったんだよ。自分勝手で、命の軽視もはなはだしいだろ」
 口もとに自嘲を浮かべ、真剣なまなざしで翔子に向き直る。
「私たち夫婦にとって、翔子、君の誕生はまさに奇跡だった」
「生まれてきてくれてありがとう、という気持ちは変わらない」
 そうですよ、と母もしきりにうなずいている。

 それにしても、と翔子は思う。
 父と母が手放しでありがたがってくれるほどの価値が、果たして私にあるのだろうか。
 イギリスへと自由に羽ばたかせてもらったけれど、何かを成し遂げたわけでも、イギリスを拠点に活躍しているわけでもない。ましてや芳賀家に富をもたらしてもいない。ギャラリーはそこそこ繁盛しているけれど、そんなのロンドンに星の数ほどある一軒にすぎない。
 結局、私はイギリスに逃げたのだ。
 古書の勉強をするという、それらしい名目はあったけれど。無意識だったにしろ、芳賀家を継ぐことの重みから逃げたにすぎない。日本にいれば嫌でも入ってくる、親戚筋の雑音から。

「君を真ん中にして幸せな時を過ごすにつれ、私はみずからの浅はかさに気づいた」
「浅はか? お父さんが?」
「ああ。お前という宝を私たちは得たけれど、かわりに一人娘である翔子の肩にすべてを負わせてしまうことに気づいた。芳賀家はもとより、老いていく私たちも」
「子どもを望む前に、子を授かるとはどういうことか、生まれてくる命に対する責任について深く考えるべきだった」
「すまなかったね」
 翔子は幼な子のように大きくかぶりを振る。
 そんなことはない、と言いたかったけれど。何をどう話せば正しく伝えることができるのかわからず、言葉が虚空に浮かんでは消える。
 まだ語彙が少なかった幼いころ、言いたいことを表す言葉を持ち合わせていなくて、うまく伝えられないことに癇癪を起して泣き出したことを思い出した。あのときとは比べものにならないほどボキャブラリーは増えたけれど。心を伝えることは、なんて難しいのだろう。
 翔子は何かを言いかけては口をつぐむ。また、口を開きかけては虚空でつぐむ。水面にあがっては、口をぱくぱくさせる鯉のようだと自嘲がもれる。

「いいんだよ、翔子。わかっているよ、君の気持ちは」
「だからね。このことについては、明日、話し合おう。私の米寿の祝いをしてくれるだろう。その席に玲人君も招いている。病院のこともあるからね」
「それにしても、あらためて謝るというのは、照れくさいものだね」
 ははは、と照れ笑いをしながら、「お、これもうまいな」と啓志は鱧の肝吸いをすする。

「ワーオ、レインボウ!」
 突然、ジャンが甲高い声をあげる。
 なにごとかと翔子はびっくりしてジャンを見あげ、その視線の先を追って庭に目をやる。
 美しい虹が、桜の古木の背後から桂川をまたぐように大きな弧を空に架けていた。
 虹の向こうで嵐山が緑をいっそうあでやかにしている。
 雨はいつのまにか、あがっていたようだ。

「まあ」母がよろこびの声をあげる。
「みごとだね」父が目を細める。
 翔子は、すーっと気持ちが晴れやかになる気がした。
「虹は彼岸と此岸しがん、過去と未来、時と時のはざまで思い悩んだり揺れる人の気持ちに、希望の橋を架けるんだよ」
 父の顔に光の綾のような笑みが広がる。
「中国では、虹は天に住む龍と考えられていてね。
 虹という漢字のつくりの『工』は、天と地をつなぐことを表している。まさに龍が天に昇るさまだよ」
 父が空に大きく「虹」の字を描きジャンに説明する。

「さて、晴れたことだし、天龍寺の天井にむ加山又造の龍に会いに行こう」


(to be continued)

第18話(18)に続く→

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