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小説『虹の振り子』16

第1話から読む。
前話(15)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀啓志:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
 鳥越玲人:翔子の従兄 

* * * * *

第3章:帰宅――<ホーム> 08

 タクシーは切妻屋根のある門の前で停車した。
 門をくぐると、竹林の小径こみちを思わせる小柴垣に守られた竹がエントランスまで続く。縦長の切り石を変わり短冊に連ねた敷石のすきまを御影石の玉砂利が埋め、それらの黒白こくびゃくが雨に艶めいていた。

「芳賀様、いつもご贔屓にありがとうございます」
「急ですまないね」
 通されたのは、嵐山を借景に桂川を望む一室だった。
「あら、まあ」
 母がよろこびの声をあげる。
「あなたとお見合いをしたお部屋ですわ」
「そうだね」
 父も相好をくずす。
「そういえば、あの日も、君は水色のきものを着ていて。花のころで、肩に散った桜が水面に浮かんだ花びらのようだった」
「まあ、そうでしたかしら」
「ほら、あの桜だ」
 父は広縁に出て、桂川に臨むように枝を張っている桜の古木を指さす。母がその隣に佇む。
 少し丈の縮まったふたつの背越しに、歳月を悠然とまとった古木が見え、桜の舞い散るなか、ここで出会った若き父母のことを翔子は思う。
 まだ、見合い結婚が主流だったころだ。古い家ほど家と家の婚姻であり、女のほうから相手の不足を申し立てるなど有りえなかったそうだ。

「だからね」と、母は語った。
 あれは、翔子がジャンとの結婚の許しを請いに帰国した折のことだ。
 離れの茶室で母のててくれたお薄をいただいていた。
「私はほんとうに幸運だったの。だって、お見合いの席で啓志さんにひとめぼれしてしまったのよ」
 ふふ、と笑みをもらしながら、朋子は織部好みの茶碗を翔子の前に置く。
 翔子はそれを三口にわけて飲み干し「けっこうなお点前でした」と一礼し、姿勢をなおらい膝に手を置くと、母は翔子のその手を上から包みこむように握った。
「ジャンは、あなたとの出会いを運命だと言っていたわね」
「だから、大丈夫よ。幸せにおなりなさい」

 並んで庭を眺めるふたりのもとに翔子が歩み寄ろうとすると、ジャンがそっと肩をつかんで引き止めた。
「僕たちは、座って待っていよう」
 翔子ははっとした。
 そうね。夫婦の時間に、むやみに入ってはいけない。父と母は、はじめて会った日の、かけがえのない時間をなぞっているのだもの。
 子どもを家族の真ん中におく日本とはちがい、欧米では夫婦の時間を優先する。
 イギリスで暮らしていると、子のいないこともあって、カップルの時間を大切にするのは当然だと思っていたけれど。
 だめね。日本に帰ると、つい、父と母に両手をつながれ、家族の中心にいた幼いころの感覚にもどってしまう。
 私にはジャンがいる。母に父がいるように。
 翔子は隣に座ったジャンを見あげる。

「ねぇ、翔子。これは何て書いてあるの?」
 ランチョンマットの代わりだろうか、テーブルには手すき和紙が置かれていた。そこに流麗な散らし書きで和歌のようなものが書かれている。
「ごめん、私には読めないわ」
 翔子の声に啓志が振り返り、朋子をうながし席につく。
「どれどれ。ああ、これは百人一首だ。それぞれ別の歌が書かれているね」
「桂川の向こうに見えているのは嵐山だが、反対側に小倉山おぐらやまがある。小倉山の別荘にこもって藤原定家ふじわらのていかが、百首の和歌を選んで編纂したから『小倉百人一首』という。ここは百人一首の里だから、それにちなんでいるんだろう」
「ジャンのは、『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ』だね。有名な恋の歌だ」
「岩にせき止められて川が二つに分かれても、また一つになるように。私たちも今は別れてもきっと結ばれますよ、という意味だよ」
「オー、運命ですね!」
 ジャンが和紙を手にとり感嘆していると、「失礼いたします」と声があり、からからと煤竹の引き戸をあけて女将が入ってきた。
「お待たせいたしました。野点のだて弁当をお持ちいたしました」
 女将に続く仲居たちが、野点に用いる竹ひごのついた手提げ型弁当箱を配膳する。抽斗ひきだしになった竹の三段重が清々しい。椀物もついている。抽斗を一段ずつ取り出し、配膳するたびに、ジャンがよろこぶ。
「これは、女将の筆かな」
「へぇ、そうどす」
「なかなかの達筆だね」啓志がほめる。
「まあ、おおきに。お目汚しですけど」
「ジャンが気に入ったようだから、いただいて帰ってもかまわないかな」
「そんなんでよろしかったら、どうぞお持ちになってください。では、どうぞごゆるりと」

 戸が閉まったのを確かめて、翔子は母に向き直る。
「ねぇ、お母さん。野宮ののみやさんでのあれは、何だったの?」
「私とジャンに、何を謝ることがあるの?」
 神社を出てからずっと気になっていたことを尋ねる。
 朋子は取りかけた箸を置いて、姿勢をただす。
「私はね、翔子ちゃん、あなたを授かるまで五年もかかったでしょ」
「きっと、子どものできにくい体質なのね」
「あなたたちに子どもが授からなかったのは、私からの遺伝だと思うの。ごめんなさいね。かんにんしてね」
 母は席をずらして、三つ指をつき頭を下げる。
「お母さん、そんなことを気にしていたの‥‥」
翔子は絶句し、すぐに我に返って、あわてて早口で言葉をたたみかける。
「私は、お母さんやおばあちゃまのように、どうしても子どもを欲しいと思ったことはないわ。ジャンは、どう?」
「お母さん、頭あげてください。翔子は僕にとって運命です。大切は、翔子と一緒にいること。それだけ。ヨーロッパでは子どもと大人の世界、分けて考える。生まれればうれしい。だけど、欲しいと願うないです」
 顔をあげた母の頬にひと筋、光るものがあった。
 いつも凪いでいる水面の下で、母はこんな波を抱えていたのか。
 イギリスで暮らしていると子どものいないことを特段、気に懸けることはない。
 だから、日本に帰って大学時代の友人たちとランチをすると、話題のたいはんが子ども絡みなのには、正直、うんざりする。彼女たちに悪気がないことはわかっている。子のいない翔子は適当に相槌をうつぐらいしかできず、目に見えぬ薄いとばりのようなものがあって、ぱくぱくと喋る金魚を見ているような心持ちがしてくるのだ。
 日本にいれば、私も子どもを欲しいと願うようになったのだろうか。

「お母さん、私は子どもを欲しいと思ったことはない。これは本心よ。心を偽ってもいない。欲しければ、それこそ不妊治療だってできた。でも、そんなこと、これっぽっちも考えなかったし、ジャンから望まれたこともない。子どもがいなくても、じゅうぶん幸せだったもの」
「さあ、お料理を美味しいうちにいただきましょう」
 翔子は立って母の傍らに寄り、手をとって座布団に座り直させる。翔子のその手を、母は両の手で包みこみ押し抱くようにして
「ありがとう、翔子」といい、ジャンに視線を移して
「ありがとう、ジャン。少し胸のつっかえがおりました」といって微笑む。

 そうして、翔子が自席にもどったのを確かめると、「でもね」と続けた。いつもなら「そうね」となるのに、母がこんなに言い募るのは珍しい。

「最近、あなたが小さかったころのことをよく思い出すの。高千穂に行ったこととか。そうすると、こう、胸がきゅっとなって。ああ、幸せだったなと思うのよ。翔子ちゃんが生まれてくれて、本当に幸せだったと」
「雲海の話ね。雲が足の下にあるのはおかしいって言い張った」
「そうよ。まだ、三歳くらいだったのに。理屈をちゃんと言ってね。おかしかったわ。啓志さんにそっくり、て思ったのよ」
「ああ、あれにはまいったね」父も同調する。
「だからね、子どもがいれば、翔子たちも、ああいう幸せな時間が持てたんじゃないかと思ってしまうの」
 そういうことか。お母さんが気に懸けているのは。
 翔子は母を見据える。
「お母さん、私もその時間にいたのよ。その幸せな時間のなかに」
 朋子は翔子の言葉にはっとし、手から箸を落としたのにもかまわず、両手で口をおおい目を瞠る。
「小さかったから覚えていないことも多いけど、でも、そのとき幸せだったことは確かよ」
「私は、それで十分なの」
「それじゃ、だめかしら?」
 母は小さな子どものように大きくかぶりを振る。
 ――まあ、そうね。いやだわ、私ったら。そんなことにも気づかなくて。と独りつぶやく。
「それにね」と翔子は続ける。
「そんなに大切な一人娘なのに、イギリスへと自由に羽ばたかせてくれたでしょ。ジャンとイギリスで暮らすことも許してくれた。私は幸せだったけど、お母さんにはずっと寂しい思いをさせてきたのね、きっと」
 翔子は、母とそれから父の双方を見つめる。
「お母さん、お父さん。これまで芳賀家の問題から目をそらしてきて、ごめんなさい。それをどうすればいいのか、話し合いたくて、帰ってきました」
 居ずまいをただして、深く頭をさげる。
 膝の上で固く握りしめている拳に、ジャンがそっと手を添えてくれた。
 話し出すきっかけをつかめないことを言い訳に、ずっと逃げ回ってきた。そのことへの自責の念が深く厚く澱となって胸の奥に巣くっていた。それをようやく吐きだすことができ、翔子は少し息が楽になる。だからといって、どう解決すればいいのか。その答えは見いだせていなかったけれど。
 ゆっくりと頭をあげると、視線の先で父が微笑んでいた。


(to be continued) 

第17話(17)に続く→

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