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【書評】冨部久志『人生の花火』

写真は、真実を写さない。

では、花火写真家は何を写したかったのか。作家は、花火写真家の生涯を小説にすることで、何を写し取りたかったのか。

冨部久志『人生の花火』(新潮社)は、実在の花火写真家である金武 武をモデルに、死をも意識するほど喘息に苦しんだ少年が、たまたま訪れた花火大会をきっかけに、従来の花火写真を凌駕する作品をつくり、日本における花火写真家の第一人者になるまでの人生を描いた小説だ。

モデルは存命していて、作家と面識があり、取材を重ねている。ならば何故、その足取りを克明に追う人物ノンフィクションではないのか? あとがきを読むと、作家の半生をも織り交ぜたという。なぜ作家は、創作をも含む小説にしたのだろうか。

そもそも、花火の写真というのは、真実とはいえない。シャッターを開けたまま光跡がつながるように露光する。さらに、ひとつの画像にいくつもの花火が重ね合わさるように多重露光をする。たとえ光輪が大きくても1発しか写っていないと貧相に見える。だから打ち上げに時間差がある複数の花火を一つの枠におさめる。花火大会のメインである大玉と、締めくくりのスターマインが、お披露目に30分以上の時間差があったとしても、一枚に収められている写真は、決して真実を写していない。

そこを、小説の主人公である葉山悠二は試行錯誤の末に、花火の爆発する瞬間に焦点を合わせながら露光するという技術をもって撮影する。従来の花火写真からすれば異質である。悠二が作品集を持ち込んだ有名写真家からは「邪道だ」と非難され、花火師からは「こんなふうに見える花火を打ち上げてるんじゃない」と怒鳴られ、一般人からは、花火というより不思議な生き物のような写真だと思われてしまう。

それでも、悠二はなぜ花火の写真を撮り続けるのか。

たしかに、写真家を生業としたいという気持ちはあった。しかし、新人写真家の登竜門となる写真賞を狙っていたわけでもなく、国内外のギャラリーで取引されるような作品を発表するファインアート・フォトグラファーを目指していたわけでもない。

きっと、理由なんてないのだろう。理屈はいくらでも言える。しかし、それは後付けの論理でしかない。あえて言うなら、「美を求める心」に従ったのだ。

作家が私淑しているのは、批評家の小林秀雄である。小林の代表作の一つに『美を求める心』という随筆にちかい批評がある。美とは経験である。本当の美に出会ったとき、人は沈黙する。それが、美が根本的にもつ力だという。

専門学校時代に交際していた優子や、福祉作業所で出会う栗原、介護送迎サービスで顔を合わせる看護スタッフの高梨など、出会う女性に悠二がいつも抱くのは、恋心とともに、写真に撮りたいという欲望である。交際前、優子を撮った写真にキスをするように、自分の好きなものを自分のものにしたい、自分の手元におきたい、ずっと眺めていたいという想いは、写真を趣味とするものにとって、とても自然だ。

ただ、女性の「美しさ」と花火の美しさは違う。写真に撮った女性は、そのとき、そのような姿をしていたという事実でしかない。後年、悠二の写真展を訪れたかつての恋人の優子は、目尻にシワがあらわれ、年を重ねたことを感じさせる。記録と記憶、そして現在は、確実にずれが生じている。

それに対して花火は、花火そのものに普遍的な美しさを感じる。写真に撮ったものは記録でも、肉眼では捉えられない、シャッタースピードと絞りの組み合わせにより、期せず写った姿に美を見出すこともある。

作家が私淑する小林秀雄が、さらに私淑している19世紀末フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンは語る。人は、生活の必要性がないときに、その知覚が拡大される。その典型が芸術家であり、自分の知覚を利用しようとしなければしないほど、より多くの事柄を知覚することができる。それをベルクソンは「放心した人」という。

さらに小林秀雄は、やはり19世紀末、オーストリアの詩人リルケの言葉を借りていう。美というのは観念ではない。だから芸術家は「美しい物」を作ろうとしていない。ただ、「物」を作ろうとしているだけだ。芸術家が苦心して「物」を作り出し、その作り手から離れて「物」として存在したときに、自然物にも匹敵するほどの平穏と品位を得るという。それはベルクソンがいう「知覚」によって得られた「美」とも等しい。

この小説において、悠二が写そうとしているのは、美しい「花火の写真」ではない。花火の美しさである。ただ、花火の美しさを悠二自身は操作できない。もちろん撮影の技術を磨くことはできる。しかし、それは花火が本来持つ美しさを受け止めるための技術であり、悠二みずから花火の美しさを作ることはできないのだ。できるのは、ただ撮ることだけ。そうやって「放心した人」となって花火の美を求めるとき、その作品も、花火の美しさそのものに匹敵するほどの美を得る。

悠二の花火写真を「邪道だ」と一蹴した著名写真家は、自分が考える美しさのある写真しか撮っていない。「こんなふうに見える花火を打ち上げてるんじゃない」と怒鳴った花火師は、自分が見ている花火こそ真実だと思い込み、そのとおりに撮影した写真しか見ようとしていない。生活するための必要性はそこにあるだろう。しかし、いずれも、美しい「花火の写真」を観念の世界で作っているだけだ。美しさを知覚する直観は持ち合わせていない。そんな人造めいた「美しさ」に、沈黙することはない。

そして作家は、花火の美しさにひたむきな写真家に惚れた。写真家の生涯に美を感じたのだ。写真家が花火を写真に撮るように、作家は写真家の人生を書きたかった。何度もインタビューを重ね、写真術を学び、撮影にも同行する。たしかに、写真家の言葉をそのまま語り直せば、ノンフィクション作品になっただろう。しかし作家は、自分を魅了してやまない写真家の人生すなわち歴史を自分も経験したかったのだ。美は経験である。事実を並べることが、真実になるとは限らない。写真家が見て、感じ、考えたことを、作家は経験する、「思い出す」ことで小説にした。その手法は、ゴッホやドストエフスキーの人生を「思い出す」ことで批評した小林秀雄に通じる。

本書を読むことも、写真家の生き生きとした人柄を思い出すという行為にほかならず、写真家の人生すなわち歴史を経験することができる。小林秀雄が終生求め続けた「人生いかに生くべきか」というテーマを、作家もこの小説に込めているという。他方、小林秀雄は著書で「文章は書いてみなければわからない」とも語っている。小説の悠二の生き方からすれば、「人生は、生きてみなければ分からない」ともいえるかもしれない。大輪の花は、夜にひらくのだ。

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