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刻々と変化し続けるもの、それでも変らないもの——小林秀雄『無常という事』『歴史と魂』、南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』

拝啓

九州の災害の報に胸をいためつつ、関東の酷暑も災害のようです。ただ、天気予報の「体温のような暑さ」という表現は、いささかいただけない。では、どんな比喩があるか。「肌にまとわりつくような暑さ」は凡庸。「暑さに鷲掴みされる」は仰々しい。そんな言葉あそびで暑気を紛らわせています。

『私の文学史』において、絶対におもしろい文章を書くコツは「本当のことを書くこと」だと町田康はいいます。そこで思い浮かべたのは、向田邦子や幸田文、須賀敦子、最近では岸本佐知子などの随筆。でも、音楽に関係なく、まさに「裸の魂」がつづられているのが早川義夫だったのです。ただ、その脱ぎっぷりにちょっと驚かれたようですね。

そして池田晶子。まだ読み切ってはいないのですが、実は全作品が書棚に並んでいます。『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』は1999年刊の『魂を考える』の再編集で、魂について語れる文体をまだ確立していないと彼女は同時期の作品でも述べています。それで前回の書簡では、その後の考えがまとまりつつある2006年刊の講演録『人生のほんとう』をご紹介したのです。

池田晶子は、哲学を学ぶ、哲学を知る、という言い方を嫌いました。哲学は「ある」ものではなく、哲学を「する」ものだ、哲学「する」すなわち「考えること」そのものだというのです。そして、哲学「する」ことで何らかの考えを得ることを「知る」と言い、その考えの総体を「思想」と呼びました。

そんな池田晶子が大胆にも「恋文」を書くほど私淑したのが、やはり小林秀雄でした。名著『考えるヒント』を本歌取りした『新・考えるヒント』では、あまりに敬愛しているので、各項のタイトルを拝借しただけでなく、その文体まで似てしまったほど。それで今回、あなたが小林秀雄『無常という事』を読みたくなったというのも、分かる気がします。

そこで、あなたが再読の味わいに大きくうなずいた『無常という事』をまず読み、続いて南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』を読んでみました。

私は特定の信仰を持っていませんが、もう十数年前になるでしょうか、自分の心を整えたいという思いから、禅に興味を持ちました。といっても、禅についての書物を読んだり、修行体験ができるという禅寺で写経や坐禅をしたりという程度です。あとは昨秋、小林秀雄『私の人生観』について書くにあたり、仏教思想の入門書をずいぶん読みました。それで、龍樹だの観無量寿経だの明恵上人だの源信が往生要集で地獄絵を描いたのだと出てきても、何とかなりましたが、なかなか手ごわい読書でした。

自己が「何であるか」ではなく、「どのようにあるか」を仏教の実践として習得していくにあたり、自己は「無常」として、根拠を欠いたまま存在する事実、すなわち「実存」を意味する。

仏教では「無常」と呼ぶ「実存」には存在根拠が欠けているが、仏教以外の思想では、実存に根拠がある。その根拠は「本質」「実体」などと呼ばれ、「超越」的存在として実存に対して決定的な作用を及ぼす。

本書におけるこの2つの「定義づけ」をたよりに、ゴータマ・シッダッタが悟りを開いてから、初期仏教から大乗仏教へ、それが中国仏教を経て日本の仏教、とくに鎌倉仏教へと連なる厚みを感じながら読みました。南禅師は「強引で野蛮」とはいうものの、たしかに新鮮で重みのある語りかけでした。

じっくり全体を通読したにもかかわらず、敢えて読後に余韻を覚えた部分を挙げるとすれば、序章にある道元『正法眼蔵』の一節、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするゝなり」、および第九章の、やはり『正法眼蔵』における「生といふは、たとえば、人のふねになれるときのごとし」から始まる舟の喩えです。

行為の在り方が「自己」の在り方を規定する。さらに行為の対象の在り方も規定する。舟を漕ぐから、「舟を漕いでいる私」を実存させ、「漕いでいる舟」をも実存させる。「仏」とは「仏のように行為する」実存の呼称なので、みずから「成仏」はできない。みずから可能なのは「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することだと南禅師はいいます。「仏になるための修行」から「仏としての修行」へ。禅の修行といえば只管打坐ですが、心の平安を得るために坐禅するのではなく、ただ坐ることに心の平安がある。まさに「仏道を学ぶことは、自分を学ぶことであり、自分を忘れること」なのでしょう。

そう受けとめたうえで、また小林秀雄『無常という事』に戻りました。

実は南直哉『超越と実存』を読んでいるときから気になっていたのは、「無常」「無常観」「無常感」の使い分けです。すべては刻々と変化し続けることが「無常」であり、世の中のあらゆる事象は無常であるという見方が「無常観」。それに対し、すべては刻々と変化し続け、形あるものはいつかは滅びる。そんな「はかなさ」に対する悲哀の念が「無常感」だと、私は解釈しています。さらに「無常」は同じ音をもつ「無情」と混同されることも多いようにみえます。

そこで小林秀雄『無常という事』。最後の2文です。

現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。

『無常という事』「小林秀雄全作品」第14集、p145

題名に「無常」を含むので、意識はそこに引っ張られがちなのですが、この随筆の主題は「無常」ではなく「常なるもの」ではないでしょうか。

『無常という事』が発表された1942(昭和17)の翌月、『歴史の魂』という講演録が発表されています。単行本や文庫本に収録されておらず、全集や「全作品」でしか読めないのが残念ですが、「歴史というものは僕らの現代の見方だとか、解釈というようなものでぐらつくような弱いものじゃありません」というように、『無常という事』と通じる考え方が、講演における話しことばで述べられています。

歴史の本当の魂は、僕らの解釈だとか、批判だとかそういうようなものを拒絶するところにある。(中略)吾々われわれの解釈、批判を拒絶して動じないものが美なのだ。本当の美しいものはそういうものなのだ。吾々の解釈で以てどうにでもなるようなものは本当の美じゃない。本当の美しい形というものが、歴史のうちには儼然げんぜんとしてあって、それは解釈しようが、批判しようが、びくともしない。

『歴史の魂』「小林秀雄全作品」第14集、p159

そのうえで、客観主義や分析として歴史を見て、それを記憶し整理することはは易しい。しかし、歴史を鮮やかに「思い出す」ということは難しいものだ、「詩人の直覚が要る」と小林秀雄は説きます。

さらに、俳人の松尾芭蕉を例にあげます。芭蕉はとてもよく自然を見た人で、その態度を風雅と呼びました。思想や意見、批判などに煩わされず、自分をからっぽにして自然の姿が友となって現れて来るまで、自然と直接つき合うことで、あのような俳句を詠んだのです。そんな「詩人の直覚」を、歴史を観る眼にもあてはめます。

歴史は第二の自然である。その意味で、歴史に従い歴史を友とし、見るもの花にあらずという事なし、という様に歴史が見えて来る、つまり芭蕉の考えた風雅というような強い精神のなかに歴史もまた現れて来なければ、そういうような純粋で創造的な状態に至ろうとしなければ、伝統に根ざした創造ということは空言だろうと思う、出来ないことだと思う。

『歴史の魂』「小林秀雄全作品」第14集、p162

そして三たび『無常という事』に戻れば、あくまでも人の営み、考え、信仰などは「無常」であり、すべては刻々と変化し続け、いまとなっては残っていないものもある。しかし解釈や意見、見方、批判などにもびくともしない不変的なもの、すなわち「歴史の本当の魂」がある。それが小林秀雄のいう「常なるもの」です。比叡山を訪れ、山王権現の当りを散策しながら突然、心に浮かんだ「一言芳談抄」の短文およびその情景が、歴史的事実であるかどうか、自身の直接的な体験であるかどうかは関係なく、ああ、いいなあと感じた。それを小林秀雄は「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。そんな気もする」と記したのです。

いまの歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです。歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、いにしえの手ぶり口ぶりが、見えたりきこえたりするような、想像上の経験をいうのです。

『講義 文学の雑感』「学生との対話」p27

南禅師は、行為の在り方が「自己」の在り方を規定する、さらに行為の対象の在り方も規定すると語っていました。

記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなければいけないのだろう。

『無常という事』「小林秀雄全作品」第14集、p145

「歴史を思い出している私」が実存する。さらに「思い出される歴史」も実存する。みずから可能なのは、「歴史を思い出している」主体として自分が実存すること。小林秀雄は次のようにいいます。歴史を知るのは、自分の心の働きである。すなわち「歴史の本当の魂」を知ることは、自分自身をよく知ることだ、と。

こうして、またもや「魂」が出てきてしまいました。

実は、さらに竹内整一『魂と無常』なども読んでみたのですが、ちょっと考えがまとまらないので、今回は一度、筆を置きます。意を決して吉田兼好『徒然草』を読もうか(ただし現代語訳で)と考えています。

間もなく梅雨明けですね。待ち遠しいものの、本格的な夏が来ると、今度は夏が終わってしまう淋しさを先取りしてしまいます。人の心なんて勝手なものです。

敬具

既視の海


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