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村上春樹『眠り』、バンド・デシネ版『眠り』

村上春樹(原作)PMGL(漫画)のバンド・デシネ『眠り』(HARUKI MURAKAMI 9 STORIES)と、原作の『眠り』(「TVピープル」所収)を順に読む。

夫と子がいる平凡な主婦が夜、眠れなくなってから17日間の想念を描く。バンド・デシネのときから薄うす感じ、原作を読んで確信する。「これは自分の物語だ」と。

語り手は、30歳の専業主婦。夫は歯科医。小学2年生の男の子を持つ。当然、性別も、立場も、環境もまったく自分と異なる。それでも「自分の物語だ」と感じたのは、「私」が図書館へ行き、睡眠についての調べ物をして、「傾向」という言葉に敏感に反応したときのことだ。

私の人生というものはいったい何なのだ? 私は傾向的に消費され、それを治療するために眠る。私の人生はそれの繰り返しに過ぎないんじゃないか? どこにも行かないんじゃないか?

村上春樹『眠り』(「TVピープル」所収)

そう気づくきっかけは、眠れぬ夜にトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んだとき。学生時代はかれたように本を読みまくっていた自分はどこに行ってしまったのかと愕然とする。読み直すと、『アンナ・カレーニナ』の内容をまったく覚えていない。かつては感動したはずなのに、結局何も頭に残っておらず、あったはずの感情の震えや高まりの記憶は抜け落ちている。「あの時代に、私が本を読むことで消費した厖大ぼうだいな時間は、いったい何だったのだろう?」と肩を落とす。

今回、バンド・デシネの『眠り』は初めてだったが、原作の『眠り』は再読だったはず。なのに、全然覚えていない。かろうじて、眠れない主婦の話だったよなあというくらい。もちろん、そんな自分の体験と物語が一致したという思い込みぐらいで「これは自分の物語だ」と感激するわけじゃない。そういう共感を求める読書は好きじゃない。ただ、今回読んでみて、自分の心が動き、それを言葉に表わそうとしたとき、見えてくるのは自分の姿だ、という小林秀雄の批評観に従ったまでだ。

何に心が動いたのか。それは、自分の人生とは何なのか? 自分が傾向的に消費されて生きている。毎日はそれの繰り返しに過ぎないのではないか? という「私」の自問自答に、自分自身の姿を映し出したのだ。

小説のなかで「私」は、眠れないことをきっかけに、人生や生活における「傾向」があり、そうやって人生を消費していることに気づく。この『眠り』を読んだ私も、自分の「傾向」を考えてしまったのだ。さすがに眠れないことはない。でも、ここ数日、それこそ憑かれたように読書をしている。言葉をつらねている。この『眠り』という物語から、自分の人生なり生活をかえりみている。

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