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黙して、語れ。
美は人を沈黙させる。その起点は、感動することだ。その言うに言われぬ感動を、どのようにして言葉によって現すことができるか。それを実践しているのが詩人であり、小林秀雄の目指す批評だった。
「美」の問題について絵画を中心に述べてきたが、やはり胸中には詩のことがあるのだろう、まずは「万葉」の歌、次に俳句を話題にする。1946(昭和21)年、仏文学者で評論家の桑原武夫が短詩型文学を否定した「俳句第二芸術論」である。
作者の有名・無名を問わず複数の俳句を匿名で並べてみても、見分けがつくものではない。結局は結社・党派性にしばられ、内部で完結している。芸術と呼ぶのにはふさわしくないのではないか、というのが「第二芸術論」だ。そんな主張に反発する俳人・歌人もいて大きな議論となったが、小林秀雄は「さして興味あるものではない」と素っ気ない。議論そのものより、その動機に着目している。
現代人の気質は、沈黙を恐れている、現代人の饒舌は、恐らくこの恐れを真の動機としている、と。俳句ぐらい寡黙な詩形はない、と言うより、芭蕉は、詩人にとって表現するとは黙する事だ、というパラドックスを体得した最大の詩人である。
かつて、ある小学生にこの句を示したのを思い出す。
五月雨を集めて早し最上川 芭蕉
梅雨で水の流れが増しているように、最上川の流れは何とはやいことかという感慨を詠んだのだと説明した。すると「最上川が勢いよく流れているという事実だけを書いた句だ」というようなことを指摘されて驚いたことがある。
俳句は、五・七・五の三句十七音という極端に切り詰めた短詩ゆえ、説明、描写、場面、情感など、すべてを盛り込むことはできない。だからこそ、俳人は敢えて黙して語っている。鑑賞者にはその語られ得なかったことを読み取る、感じる技量が求められる。その感受性が備わっていない、育っていない場合には、俳句の言葉は、ただの情報であり、詠まれていることは単なる事実でしかない。
現代小説に関して、(中略)私が強いて註文をつければ、沈黙が一番足りまいと言うでしょう。小説がその形式上、どんなに読者の理解力に訴える部分が多かろうとも、その眼目とするところでは、読者の理解など断乎として拒絶していなければ駄目だろう。
『私の人生観』の講演から70数年。令和の小説は、読者に感動を強いる。読者も共感できるものだけを選び、自分の感覚と相容れないもの、対峙するようなものは避ける。そんな「感」を支えるのは、いつになったら物語が始まるかと焦れるほどの緻密な描写と、「肉の戦慄きにしたがう」「何かしらの苦行みたいに自分自身が背骨に集約されていく」といった薄っぺらい生理的イメージの頻出だ。
言霊を信じた「万葉」の歌人は、言絶えてかくおもしろき、と歌ったが、外のものにせよ内のものにせよ、言絶えた実在の知覚がなければ、文学というものもありますまい。
註釈に「生ける世に吾はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は」という大伴家持の歌がある。「生まれてからこれまで一度も見たことがない、言葉も出ないほどに素晴らしく縫ってある袋は」と解釈しよう。「言絶えた」とは「言葉も出ないほど」「言いようがないほど」という意味であり、小林秀雄のいう「沈黙」である。
言葉が多すぎる。黙して、語れ。
(つづく)
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