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【第10信】「あわい」を見つめ考え続ける——吉田篤弘『雲と鉛筆』【書評】

拝啓

午後になり、西日が机のうえに差し込んできました。夏にはうっとうしい西日も、冬ならばありがたいです。

先日の手紙から、言葉というものを、また違った視点から見るようになりました。いま、死に瀕しているわけではないものの、どこか言葉を求めています。書く言葉であれ、読む言葉であれ。

残されたものは、いつでもほんのひと握りで、本当は、残らなかったものの方に、自分が書きたかったことがあるように思う。

そんな一節を思い出し、吉田篤弘『雲と鉛筆』を手に取り、再読しました。

主人公の「ぼく」は、石段を180段のぼった先にある建物の屋根裏部屋で暮らしながら、鉛筆工場で働いています。好きなのは、読書をしながら、気に入った一節をノートに書き写したり、鉛筆で雲の絵を描いたりすること。年格好は明らかにされていません。舞台も日本ではないかもしれません。吉田篤弘の小説らしいミニマルな雰囲気です。

そして特別なストーリーがあるわけではありません。やたら人生の味わいを語りたがる通称「人生」という友人や、バリカンひとつでどんなスタイルでも整える「バリカン」と呼ぶ理髪師、あらゆる機能を一つのものに取り込みたいのに、実は一つひとつは見えていない「ジュットク」というセールスマンなど、これも吉田篤弘らしく何かしら仕事をもった登場人物との会話を通り過ぎながら、「ぼく」は思索を深めていきます。一人称ならではのモノローグです。

遠い街へ出かければ、「遠い」というのは距離のことではなく時間のことなのだと気づいたり、友人の「人生」といつもと同じ店、同じ席、同じコーヒーを飲んで、快楽というのは反復のことだと教わり、同じことの繰り返しのなかに潜む微妙な変化をつかむことが大切なのだと学びとる。不良品で動かないジューサーミキサーを贈ってしまった姉からは、道具として使っていれば気づかなかったような、「もの」そのものの美しさを知ったと感謝され、スケッチブックの白い紙に黒の鉛筆で雲の絵を描くとき、自分が働いている工場で造られる、6Hから6Bまで芯の硬さが異なる鉛筆を用いて濃淡を出すだけでなく、力の入れ加減でさらなるグラデーションを描けることを染みるように楽しんでいる。そんな一つひとつのエピソードに、読むこちらも何度も深くうなずいてしまいます。

白と黒。遠いと近い。難しいと易しい。人はどうしても対立する二つの物事や視点、いわゆる二項対立で考えてしまうものです。生と死、善と悪、楽しいと苦しいもそう。しかし、その間にこそ、本質があるのではないか。「ぼく」が日々の暮らしから学んでいるのは、そんな「あわい」の大切さではないでしょうか。

では、「あわい」を大切にするとは、どういうことででしょうか。「手間ひまをかけること」だと、本書からは感じ取れます。

電車やバスで速く移動するより、歩くことで通り過ぎる光景をじっくり楽しむ。すでに存在しているものを「見つける」よりも、自分で考えて「気づく」。絵を描くことの極意は、手加減による強弱。数字や量によって幸せになった人は、その先もずっと数や量に縛られるものだ。何事も、自分の手ですくえるぐらいがちょうどいい。まさに手間ひまかけて、ノートに書き写したい言葉が溢れています。

生と死も、二項対立かもしれません。でも、死を経験し、死とは何かをまさに知っている人というのは存在しません。死は言葉であり、観念でしかないのです。死を知っているわけではないのに、どうして生を知っていると言えるのでしょう。すると生も言葉であり、観念でしかないのかもしれません。よって生も死もわからないのであれば、いま生きていると思っている自分は何なのでしょうか。そもそも「自分」とは何なのでしょう? そうやって考えると、止まらなくなります。でも、そうやって答えのない問いを考えつづけることが、「哲学」することではないでしょうか。

期せずとも本書から多くのことが学べますが、つまるところ、主人公の「ぼく」も物語のなかで、ずーっと考え続けています。「哲学」しているのです。だから読み手である我々も、あわてて答えを求める必要はありません。日々の暮らしにおける「あわい」を感じ、考え、さらに問い続けるのです。

思いも寄らず、あなたを哲学「沼」に引きずり込んでしまいました。でも、あなたが小説を選び、読み、感じ、考え、言葉にする。その「考える」という営みに、私は惹かれたのです。フランスの小説のように、似ているなと感じる嗜好もあれば、まったく異なる嗜好があってもいい。その「あわい」を見つめ、言葉をかわし、さらに考えていく。ときには思い詰めてしまったり、朝はやく目覚めてしまうことがあるかもしれない。でも、往復書簡というのは、化学反応のように、お互いに影響を及ぼし、思考や感情を引き出し、引き出されるのが魅力だと思うのです。だから、お会いしたこともない、声も聞いたことのない「本好き」のあなたに、こんな本がありますよと手紙をしたためています。

手書きでなくてもいい。あなたの手紙を待っています。

既視の海

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