高橋団吉(DECO)

1955年千葉県生まれ。文筆家、編集者、株式会社デコ代表取締役。著書に『新幹線をつくっ…

高橋団吉(DECO)

1955年千葉県生まれ。文筆家、編集者、株式会社デコ代表取締役。著書に『新幹線をつくった男 島秀雄物語』(小学館、第26回交通図書賞)、『島秀雄の世界旅行1936-1937』(技術評論社、第35回交通図書賞)ほか。

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  • 【連載中】十河信二物語【Web版】

    かつて小学館「ラピタ」で連載した国鉄総裁・十河信二の物語に加筆修正を加え、Web版としてリスタートしました。第一部は2024年夏頃に完結予定。隔週更新していきます。

最近の記事

第十七話 十河信二と世界の「大転換」

 十河信二自身の備忘録によれば、対米中にこの男の心を占領していたテーマは、「国家」と「神」であった。  たとえば、たまたま訪ねたセント・ルイスの街で人種暴動を目撃する。  アメリカですっかり映画好きになった十河信二は、セント・ルイスでもまっ先に映画館に入っている。そのころ、映画館の客席はホワイトとブラックに分かれていて、十河はさんざん迷ってからホワイト席に座る。すると、同じくホワイト席に座った黒人に白人たちが襲いかかり、その騒動が映画館を飛び出して、ミシシッピィ河沿いの黒人

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    • 第十六話 十河信二と米国婦人たち

       コールフィールド女史が最初に紹介してくれたホームステイ先は、マシュー家という。  主のウィリアム・D・マシューは、このとき、四十五歳。ニューヨーク自然誌博物館の古生物学部長。のちにカルフォルニア大学の古生物学主任教授。アメリカ古生物学界の重鎮として活躍した人物である。  マシュー家は、ヘイスティング・オン・ハドソンという郊外の住宅地にあった。マンハッタンからハドソン河を三十キロほど遡った河岸の小さな街である。このハドソン川を見下ろす丘陵地のはずれに、この十年ほど前から、教

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      • 第十五話 十河信二のアメリカ視察

         十河信二は、太平洋の上をアメリカに向かっている。  二等船室でぼんやりと海ばかり眺めていた。  アメリカと、どう戦うか。  どう戦えば、負けないのか。  サンフランシスコまでの十三日間、この男は、そのことばかり考えていた。    当時、日米関係は、決して芳しいものではなかった。双方の国民感情は、ささくれだっている。「ジャップ」「米公」などと互いに罵声を浴びせながら、太平洋越しに睨み合っていた。  最大の火種は、移民問題である。  明治政府は、国策として、積極的に海外移住を奨

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        • 第十四話 中国を売った男

           満州割譲をめぐる孫文と森恪とその後について、簡単に辿っておく。  南北和議の後、孫文は袁世凱新政府から「鉄路全権」に任命される。鉄道大臣である。  孫文は、この際、政治を捨てて、鉄道建設に専心しようと決意する。  なぜ、中国が列強帝国主義の餌食にされるか。経済がはるかに立ち遅れているからである。中国経済をゼロから立ち上げるには、何よりも鉄道が必要になる。モノとヒトを運ぶ鉄道網こそまっさきに作らなければならない。  「鉄道建設は中華民国の存亡を決する大問題である。十年以内に

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        第十七話 十河信二と世界の「大転換」

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        • 【連載中】十河信二物語【Web版】
          17本

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          第十三話 満州租借ヲ承知セリ

           森恪が南京政府大統領府に孫文を訪ねたのは、二月三日の午後である。    この交渉の直後に森格が益田孝に宛てた手紙が残っている。それによれば、会見はおおよそ次のように行なわれた。  森は、このとき二人の日本人を証人として同席させている。宮崎滔天と山田純三郎。ともに孫文の信頼最も厚き日本人と言っていい。山田純三郎は満鉄の上海駐在員で、当時、三井物産上海支店に机を置いていた。その兄の山田良政は、宮崎と同様に早くから中国革命党に身を投じ、広西省の蜂起で討ち死にを遂げている。  孫

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          第十三話 満州租借ヲ承知セリ

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          第十二話 東洋のセシル・ローズ

           大正六年の二月、渡米船の出港が間近に迫ったある日、十河信二は、ある男と知り合った。  森恪。  日露戦争中の日本海にヨットで乗り出し、バルチック艦隊を見つけ出して名をあげた、あの三井物産の風雲児である。  十河を森に紹介したのは、太田圓三という鉄道省の土木技師であった。  「三井に森恪という男がいる。お前がいくら元気がいいといっても、所詮まだ省内の風鈴だが、向こうは大陸の暴れん坊だ。アメリカ駐在の経験もある。紹介するから会っておけよ」  森恪は、この数年前に活動の拠点を大

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          第十二話 東洋のセシル・ローズ

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          第十一話 明治の熱血漢、仙石貢

           明治期に、日本の鉄道技術は長足の大進歩を遂げた。明治のはじめに欧米先進国にざっと五〇年遅れてスタートを切り、ほぼ五〇年かけて、ようやくなんとか追いつく。この欧米鉄道関係者を驚嘆させた大進撃は、もちろん数多くの技術者たちの努力によって支えられている。  島安次郎はその代表的存在といっていい。  島安次郎は、車両技術に精通し、しかも再三にわたる海外視察によって欧米の鉄道先進国事情にも通じていた。技術と世界を知る島安次郎にとって、広軌改築こそ鉄道と国力の発展に資することは明々白々

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          第十一話 明治の熱血漢、仙石貢

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          第十話 広狭軌間論争

           この頃、後藤新平が夢中になっていた大仕事は、広軌改築である。  鉄道で、「軌間」という。線路の幅のことである。  広軌は、軌間一四三五ミリ。狭軌は、一〇六七ミリ。これが日本で一般的に使う広/狭の軌間である。日本の鉄道は、軌間一〇〇〇ミリ以下の軽便線を除いて、主にこの二種類に限られる。  世界的には、スタンダード・ゲージすなわち標準軌が一四三五ミリで、それより広いものをワイド・ゲージ、狭いものをナロー・ゲージという。なぜ一四三五ミリがスタンダードかといえば、鉄道のルーツという

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          第十話 広狭軌間論争

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          第九話 「十河いじめ」の真意

           現場を知らずに鉄道を語るなかれ。  後藤新平は、徹底した現場第一主義者で、新人法学士たちに長期の現場見習いを義務づけた。  ノブの見習い実習地は、信州長野である。  ところが、まるでお客さん扱い。到着早々、現地の上役に連れ回され、善光寺詣でや上杉謙信ゆかりの名所旧跡巡りをさせられる。  鉄道のテの字も、触れさせてくれない。嫌気のさしたノブは、たったの二日間で東京に帰ってしまった。  さっそく後藤新平総裁に怒鳴りつけられる。 「大馬鹿野郎! 規則に反するぞ!」  「私は最高

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          第九話 「十河いじめ」の真意

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          第八話 後藤新平との出会い

           「鉄道院に来い」   この後藤新平の一言がなければ、十河信二は農商務省の役人になっていたはずである。  後藤は、広軌鉄道建設論者の元祖といっていい。たとえ後々に十河信二が国鉄総裁の椅子に座ったところで、後藤新平を師と仰ぐことがなければ東海道新幹線が実現していたかどうか、大いに疑わしい。  十河信二は帝大卒業に際して、穂積陳重という愛媛出身の独法科教授に、就職の希望についてこのように相談している。 「私のごとき田舎百姓の次男坊が最高学府を卒業できたのは、ひとえに郷里で働く人々

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          第八話 後藤新平との出会い

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          第七話 信二とキクの学生結婚

           十河信二の眠れる学生時代は、帝大に入ってからも続いた。  帝大時代、十河が勉強らしい勉強をしたのは、民法だけである。安倍や岩波たちが哲学的煩悶と格闘するのを横目に眺めながら、信二は自分の頭をグイと無理やりに法学に向けた。  入学早々、信二は法学部教授の自宅を片っぱしから訪問する。  「法学を勉強するにあたって、最も大事なことは何でありますか」  歴訪して直談判することは、この男の得意技である。教授たちの話を総合すると、最も肝心なのは”法律の頭”を作ることであるらしい。それに

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          第七話 信二とキクの学生結婚

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          第六話 本郷の眠れる虎

           一高の同期生には、錚々たる面々が揃っていた。  のちに俳句界の大御所となった荻原井泉水、「咳をしても一人」という妙句で有名な放浪の俳人尾崎放哉、『銀の匙』を書いた作家の中勘助、岩波書店を創業した岩波茂雄、同盟通信社創業社長の岩永裕吉、政界入りした青木得三、西田郁平、のちに文部大臣を務めた安倍能成、下条康麿、厚生大臣の鶴見祐輔、近鉄社長となる種田虎雄……などなど、のちに政界、官界、実業界で活躍する逸材がゾロゾロいた。医科には斉藤茂吉、工科には朝倉希一の名も見える。  安倍能成

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          第六話 本郷の眠れる虎

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          第五話 狩野亨吉に出会う

           東京は、遠かった。  本州に出るには、まず瀬戸内対岸の尾道まで船に乗る。この頃「住友汽船木津川丸」が新居浜~西条~尾道間を一日一往復していた。当時の時刻表によれば、船は新居浜を朝七時に出港し、西条に七時五十分、四阪島、三庄を経由して十二時五十五分に尾道に着く。  上京のとき、信二は田野屋で一泊し、橋本校長や「パン屋はん」に挨拶をして、西条から船に乗った。  といっても、港らしい港はない。西条の海は、遠浅である。沖合で待つ木津川丸まで艀でいくのだが、その艀も、潮加減によっては

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          第五話 狩野亨吉に出会う

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          第四話 偉大なる「よもくり」

           高瀬半哉の墓は、大町の大念寺にある。  西条高校から真っ直ぐ南に下って、旧道こんぴら道と交わるあたり一帯を「大町」というが、予讃線が開通する以前は、この大町が西条きっての繁華街であった。高瀬は賑やかな街道筋の古刹に間借りして、没するまで西中へ通い続けた。  大念寺を訪ねてみた。しゃかしゃかと出てこられたのは、副住職の上原俊雄氏である。聞けば、西中の三十四回卒業生で、パン屋はんの教え子であった。その上原は、スト好きの西中生気質を「よもくり精神」と表現する。   「よもくる」は

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          第四話 偉大なる「よもくり」

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          第三話 西条中学とストライキ

           西条中学は、中萩村から十キロほど西にある。  信二少年は、歩いて通った。  昔の人は健脚である。大正十年に予讃線が通るまで、新居浜と西条は、徒歩で行き来するのが当たり前であった。自転車はまだ、ごく少ない。西条の町に自転車がチラホラしはじめるのは、信二の西中四年生の頃で、むろん贅沢品であった。この頃、西条―新居浜間に定期馬車が走りはじめたが、運賃が高くて通学には使えなかい。  つまり、街道は交通上もきわめて安全であったので、遠距離通学者たちはこれを勉強時間に使った。信二も袂を

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          第三話 西条中学とストライキ

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          第二話 別子鉱山鉄道

           別子鉱山鉄道を作った男を広瀬宰平という。  新居郡一帯の”英雄”と言っていい。宰平なくして住友なし。住友なくして新居浜なし。と、当時から賞賛されていた。  「宰平サンのおかげで豆汽車が通った……」  「宰平サンのおかげで学校ができた……」  中萩の少年たちは、この男の名前をうんざりするほど聞かされて、育ったはずである。 近江の生まれ。十歳のとき叔父に伴われて別子銅山に給仕として入山し、めきめきと頭角を、現し、住友大番頭広瀬家の養子となった。叩き上げの大出世者である。  江戸

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          第二話 別子鉱山鉄道

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