第十三話 満州租借ヲ承知セリ

 森恪が南京政府大統領府に孫文を訪ねたのは、二月三日の午後である。  
 この交渉の直後に森格が益田孝に宛てた手紙が残っている。それによれば、会見はおおよそ次のように行なわれた。

 森は、このとき二人の日本人を証人として同席させている。宮崎滔天と山田純三郎。ともに孫文の信頼最も厚き日本人と言っていい。山田純三郎は満鉄の上海駐在員で、当時、三井物産上海支店に机を置いていた。その兄の山田良政は、宮崎と同様に早くから中国革命党に身を投じ、広西省の蜂起で討ち死にを遂げている。
 孫文側は、ナンバー2の黄興が急病で出席できず、同じく孫文の腹心の部下である胡漢民が同席した。胡漢民は、孫文と同じく広東出身で、このとき二十六歳。近眼。痩身。牛乳瓶の底のような分厚いレンズの向こうに、切れ長の眼がらんらんと光る。鋭く、細い、刃もののような男であった。日本通である。留学して法政大学に学び、東京で孫文が旗揚げした中国同盟会に十九歳で参加し、以後一貫して孫文に付き従った人物である。

 胡漢民という男は、いずれ十河信二と密接に関わり合うことになる。名前を覚えていただきたい。
 脱線する。
 孫文が東京で中国同盟会を結成したのは、一九〇五年八月二〇日。日露戦争の終結の二週間前のことである。この中国同盟会の会合は、神田神保町の中華料理店「維新號」で催されている。筆者は長年、神保町を仕事場としてきたので、そうか。孫文や湖漢民が神保町を歩いていたのか……と思うと、胸がさわぐ。

 森格は、こう切り出した。
 「この森が日本政府中枢に接近できる人間だということを信じていただけますか」
 「信じましょう。現に井上馨侯を動かし、山県有朋、桂太郎の両侯とわれわれが通信できるようになったのは、君のおかげです」
 「では、お話しましょう。これから話すことを、信じるか否かは貴下の勝手です。もし、貴下の心に符号すれば、決心を聞かせていただきたい。もし符号しなければ、すべて忘れてください」
 「そうしましょう」
 森は、本題に入る。
 「ご承知のように、今、世界は黄色人と白色人との戦場と化しています。アジアにおける白人勢力の先鋒は、ロシア。そのロシアの南下を制して日本の存立を安全に保ち、東洋の平和を確実にするためには、満州を勢力下に置いて保全する必要がある。日本はこれがために多くの人命と資材を犠牲にして、国運を賭して、顧みなかったのです」
 と、まず日露戦争の意義についてひとしきり弁じた。
 「ロシアが南下を企てる限り、またロシアと手を結ぶドイツが青島チンタオを保留する限り、断固、満州は日本の手に保全する必要があります。もはや満州が中国政府単独の力で保全できないということは、孫文大統領殿、あなたがたも認めざるをえない明白な事実ではないですか」
 と、森は決めつけた。
 「満州ノ運命既ニ定マレリト言フベシ」
 森の手紙にはそのように書かれている。
 森は続ける。
「もしあなたに、既に運命の定まった満州を捨てて、日本の勢力に一任し、その代償として日本から特殊なる援助を得て革命の大事を完成しようという決心があれば、日本は必ず、すぐに手段を講じる用意があります」

 以下、森の手紙の文面を引用する。

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