第六話 本郷の眠れる虎

 一高の同期生には、錚々そうそうたる面々が揃っていた。
 のちに俳句界の大御所となった荻原井泉水せいせんすい、「咳をしても一人」という妙句で有名な放浪の俳人尾崎放哉ほうさい、『銀の匙』を書いた作家の中勘助なかかんすけ、岩波書店を創業した岩波茂雄、同盟通信社創業社長の岩永裕吉、政界入りした青木得三、西田郁平、のちに文部大臣を務めた安倍能成よししげ、下条康麿、厚生大臣の鶴見祐輔、近鉄社長となる種田おいた虎雄……などなど、のちに政界、官界、実業界で活躍する逸材がゾロゾロいた。医科には斉藤茂吉、工科には朝倉希一の名も見える。
 安倍能成は、松山の出であった。苦学中の岩井禎三が書生となった安倍家の八男で、一高に合格して岩井医院にあらわれ、そのまま信二の逃げ出した「女の園」に帝大卒業するまで寄宿し続けた。安倍は、のちに岩井の次女に惚れて、失恋する。信二も、好きだったらしい。
 もっとも十河のほうは遠くから憧れていただけで、会っても一言も口をきけなかった。その後、安倍は哲学者となって健筆を振るい、戦争中には母校一高の名校長として学徒出陣を見送り、戦後は文部大臣、学習院院長などの要職を歴任している。
 安倍の回想記によれば、当時、彼ら一高生を夢中にさせたのは、牛鍋と娘義太夫であったらしい。
 牛鍋は、文明開化を象徴する西洋食の横綱であった。四足動物の肉を食べる習慣は、江戸時代までの日本人にはごく乏しい。むろんノブも、上京して初めてその味を知った。とくに一高生に人気があったのは、湯島に近い「江知勝えちかつ」という店で、料亭風の木造三階建てというものも当時まだ珍しく、いかにもハイカラで、同窓会や同郷会など学生たちの奮発した宴会はここで催されるのが通例であった。もちろん、高い。信二たち貧乏学生が平素なけなしの小遣いをはたいて食べたのは、本郷通りを売り歩く焼き芋である。
 信二は、牛鍋は我慢できたが、娘義太夫には熱中した。
 娘義太夫は、若い娘の語る義太夫節である。いわば、女性タレントの色気たっぷりの興行であった。彼女らを「女義にょぎ」という。書生連中はこの女義たちに熱狂し、義太夫節のサワリになると、
 「どうする、どうする、サァどうする」
 と奇声をあげ、はては堂摺連どうするれん追駆連おっかけれんを結成して追いかけた。女義の乗る人力車を取り囲み、下駄を鳴らして寄席から寄席へわたり歩き、ときに自宅まで押しかけて、廊下の清掃までやる。なかには、新聞に「売淫専門の魔窟」と書かれるようなことも事実あったらしく、女義で身をもちくずす学生が続出した。ついに明治三十三年、信二が一高に入学する二年前に、帝大総長、文部大臣を歴任した外山正一によって学生の出入り禁止令が出されるのだが、女義人気はいっこうに衰える気配をみせなかった。
 この頃、東京の路面電車は一気に四通八達を遂げる。明治三十六年、新橋~品川、数寄屋橋~神田橋間の開通すると、翌年には上野~本郷~須田町など五、六本の幹線が運行を始め、学生たちの行動半径も飛躍的に拡大し、電車を乗り継ぎながら、ますます熱心に女義の追っかけを繰り返した。
 十河信二は、終生、義太夫が大好きであった。国鉄総裁時代も、窮すると、
 「どうする、どうする、サァどうする~ゥ」
 と、たびたびうなってみせた。

 さて、牛鍋と女義のことはともかくとしても、その頃、一高生たちの若い心を占領していたテーマがあった。

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