第十七話 十河信二と世界の「大転換」
十河信二自身の備忘録によれば、対米中にこの男の心を占領していたテーマは、「国家」と「神」であった。
たとえば、たまたま訪ねたセント・ルイスの街で人種暴動を目撃する。
アメリカですっかり映画好きになった十河信二は、セント・ルイスでもまっ先に映画館に入っている。そのころ、映画館の客席はホワイトとブラックに分かれていて、十河はさんざん迷ってからホワイト席に座る。すると、同じくホワイト席に座った黒人に白人たちが襲いかかり、その騒動が映画館を飛び出して、ミシシッピィ河沿いの黒人街焼き討ち騒動に拡大した。
また、当時、マンハッタンのハーレム街は、まだ高級住宅街の面影を残していたのだが、そこに黒人の一家族が移り住むと、一軒去り、また一件去り……という具合に白人たちが消えてゆく。その有様をつぶさに目撃する。
第一次大戦に向かう出征兵士の行進を眺めていても、胸中に疑問が沸きあがる。隣で見送っている白人にこのように問い質してしまう。
「実戦の場では、黒人兵の銃口は、どこに向けられるのか。敵陣か。それとも、米軍の白人兵に向けられるのか」
「……?」
と、その白人も困惑した様子で、答えられなかったらしい。
「クリスチャンの考え方では、とうてい人種問題は理解し得ない」
と、十河信二は書き残している。
この「国家」と「信仰」という難題は、終生、形を変えながら十河信二の頭を占領し続けることになる。
こんなこともあった。
十月も押しつまったある日、オースチン夫人に誘われて、ジャージー・シティのジュニア・ハイスクールで歴史の授業を参観した。十河信二は、教会と同様に、機会を見つけては各地の学校を歴訪している。
とくに歴史の授業には、驚かされた。アメリカの学校では、現代から古代に向けて歴史を遡って教える。学ぶべきテーマは、つねに「現在」なのである。
このジュニア・ハイスクールの歴史の授業中に、こんな問答があった。
先生「いま同盟国のイギリスからお客さんに来ています。どなたですか?」
生徒「バルフォアという政治家です」
先生「用件は何ですか?」
生徒「軍資金を求めています」
先生「フランスからはどなたがいらしてますか?」
生徒「ジョッフル将軍です。兵隊と武器を求めています」
先生「では、日本からは?」
生徒「石井菊次郎という外交官です。まだサンフランシスコに上陸したばかりで、詳しい用件はわかりません。さいわい、今日は日本人の方が参観に見えています。先生、おたずねしてみてください」
十河信二はとっさにこう答えて、生徒たちからやんやの喝采を博した。
「諸君。日本は、お金も武器も兵隊も要りません。欲しいのは、米国のフレンドシップだけです」
事実、このとき日本政府はアメリカ政府に「友情」を求めていた。
なによりも、中国大陸における日本の既得権益を黙認するという国際政治上の「友情」である。もうひとつ、鉱物資源を供給してもらいたい……という「友情」もあった。
資源のほうの話からする。
第一次大戦勃発前は、日本はおもな鉱物資源をドイツから輸入していた。しかしドイツが敵国となった以上、新しい輸入先を確保しなければならない。お目当ては、太平洋越しの隣国アメリカである。このために一九一七年九月から翌年一月まで、日本から船鉄交換使節団が渡米している。
この使節団の目論見は、以下の通り。
アメリカから鉄を輸入し、その鉄を使って日本で艦船を建造して、アメリカに輸出する。「鉄日照りの日本」は助かるし、参戦したばかりのアメリカ海運力を高めることもできる。当時、すでに日本の造船力は世界有数のレベルにあった。
この船鉄交換使節団の団長は、鉄道院技監の島安次郎。随員に笠間杲雄。笠間は、十河信二が後藤新平に干された新人時代に『鉄道経済要論』を一緒に訳した同期である。
島安次郎を団長に任命したのは、内務大臣兼鉄道院総裁の後藤新平であった。なぜ鉄と船の話が鉄道院かといえば、当時、鉄を国内で大量に消費するのはもっぱら鉄道で、鉄といえば鉄道院の管轄だったからである。
だが、単に船鉄交換の折衝だけであれば、島技監が出ていかなくてもよかったであろう。わざわざ島安次郎が団長となって渡米したのは、もうひとつ別の目的があったからである。
広軌改築。
このとき後藤新平は、自身三度目の鉄道院総裁として広軌改築に燃えていた。詳しくは、第十話「広狭軌間論争」を参照されたい。
総裁に就任するや否や「広軌調査!」を命じ、技監・島安次郎の作った簡便広軌案をひっさげて要路の政治家を説得して回り、事実、このとき、後藤悲願の広軌改築はもっとも実現に近づいたといっていい。帝国議会代議士たちを招いて島安次郎が横浜線で軌間変更の公開試験を行なったのは、船鉄交換使節団の出発直前のことである。
当時、すでにアメリカの鉄道では、軌間の変更工事がたびたび行なわれていた。
「島君。あっちで改軌の実例をよく見てきてくれんか」
後藤も、今度こそ広軌改築してみせる……という自信をもって送り出し、島安次郎も希望に胸を膨らませて渡米したのである。
使節団はワシントンで船鉄交換の交渉を手早くまとめ、島団長はさっそく全米鉄道調査の旅に出る。
このとき島安次郎は、四か月かけて鉄道一万五〇〇〇マイル走破している。各地の鉄道を精力的に視察してまわり、十河信二は団長秘書として島安次郎にぴたりと随行した。
アメリカ大陸は、とてつもなく大きかった。その荒野を貫いて走る鉄道も桁ちがいにデカい。日本で言う「広軌」つまりスタンダード・ゲージよりもさらに広い。そのどこまでも一直線に続く線路の上を化け物のようにデカイ蒸気機関車が驀進してゆく。
なかでも、エリー鉄道の炭鉱線を走っていた機関車には、一同、腰を抜かした。ボールドウィン社製の「マレー・トリブレッスス型」。直径一六〇センチすなわち十河信二の背丈とほぼ同じ高さの動輪が、なんと十二軸もある。全長三十二・三メートル。べらぼうである。当時、日本鉄道省自慢の国産貨物機は、島安次郎が設計指揮をとった「九六〇〇形」で、全長約十六メートル半。その倍もあった。
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