第五話 狩野亨吉に出会う

 東京は、遠かった。
 本州に出るには、まず瀬戸内対岸の尾道まで船に乗る。この頃「住友汽船木津川丸」が新居浜~西条~尾道間を一日一往復していた。当時の時刻表によれば、船は新居浜を朝七時に出港し、西条に七時五十分、四阪島、三庄を経由して十二時五十五分に尾道に着く。
 上京のとき、信二は田野屋で一泊し、橋本校長や「パン屋はん」に挨拶をして、西条から船に乗った。
 といっても、港らしい港はない。西条の海は、遠浅である。沖合で待つ木津川丸まではしけでいくのだが、その艀も、潮加減によっては、海岸からはるか遠い海の中で舟底を擦ってしまう。旅行客は、艀まで、二人引きの人力車で遠浅の海を走った。
 尾道からは、民鉄の山陽鉄道の上り急行が十六時〇四分に出る。山陽鉄道は、前の年に神戸~下関間を全通させたばかりであった。神戸で二十二時発の官鉄の東海道線の夜行列車に乗り換え、ゴトゴトと走り続け、新橋駅にはようやく翌日の夕方十八時五十三分に辿り着く。尾道から新橋まで三等車で六円と少々。西条からおよそ三十六時間の旅程であった。
 この頃、東京駅は、まだできていない。路面電車もなかった。新橋駅から先は鉄道馬車か人力車、あるいは徒歩である。
 十河信二は、麹町方面に向かって、歩く。目指すのは「岩井医院」。

 岩井禎三ていぞうは、中萩村出身の医者である。
 本名は、真鍋禎三。中萩には真鍋という家が多い。禎三の生まれた真鍋家は維新後家運が傾いた。父が出奔し、母が早逝して、禎三は幼くして天涯孤独の身となった。しかし、勉学好きの禎三を見込んで世話する人があって、松山の安倍という医者に拾われ、さらに見込まれて遠縁にあたる岩井という家に養子として迎えられ、苦学の末に医者として大成した岩井禎三の中萩の生家は十河家にほど近い。目と鼻の先といっていい。岩井禎三は、中萩村屈指の成功者であり、上京する後輩たちの熱心な庇護者でもあった。岩井は、とりわけ同村出のノブが可愛かったであろう。すすんで身元保証人を引き受けた。
 当時、岩井は日本赤十字社病院治療主幹という要職にあって、医院にはほとんどいない。留守を預かる院長は、橋本綱常つなつね。綱常の兄は安政の大獄で刑殺された橋本左内である。
 この岩井医院に、十河信二は一高、帝大生時代を通じて何やかやと世話になっている。
 が、初めて上京したとき、受験生の信二は、この寄宿先を早々に退散してしまった。

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