第三話 西条中学とストライキ

 西条中学は、中萩村から十キロほど西にある。
 信二少年は、歩いて通った。
 昔の人は健脚である。大正十年に予讃線が通るまで、新居浜と西条は、徒歩で行き来するのが当たり前であった。自転車はまだ、ごく少ない。西条の町に自転車がチラホラしはじめるのは、信二の西中四年生の頃で、むろん贅沢品であった。この頃、西条―新居浜間に定期馬車が走りはじめたが、運賃が高くて通学には使えなかい。
 つまり、街道は交通上もきわめて安全であったので、遠距離通学者たちはこれを勉強時間に使った。信二も袂を単語帳やノートで膨らませて、毎日五時間、暗唱しながら歩いた。
 十キロという距離は、ざっと東京駅から大森駅までである。中央線でいえば中野―武蔵小金井間、阪神電鉄の芦屋―尼崎間に相当する。
 ためしに歩いてみた。旧十河家の上部乳児保育園を出発したのは、午後二時十五分。幸い好天に恵まれて、旧街道の風情など楽しみながら歩いて、岸下きしのした、二時四十五分。しかし、渦井うずい川の見え隠れするあたりからは歯を食いしばって歩き、玉津橋、四時十分。ようやく西条中学自慢の大手門に着いたのは、四時三十五分である。所要時間、二時間二十分。
 この瓦葺かわらぶきの見事な門は、旧西条藩陣屋の門である。西条中学すなわち現在の西条高校は、この旧西条藩陣屋跡地を校地とする。お堀が校舎を囲み、老松おいまつ水面みなもに映え、鯉が遊び、いまでも絵に描いたような日本情緒を楽しませてくれるのだが……、しかし、遠かった。その堂々たる大手門を見上げつつ、信二少年はその日のうちに再びこの道を歩いて帰らねばならなかったのだ……と考えるだけで、どっと疲れた。
 十河少年の時代、靴も贅沢品である。
 毎日往復四時間四十分、二十キロ。そんなに歩かれては、靴だって、たまらない。
 だから靴は学校近くの級友の家に預けておく。晴れれば草履ぞうり、雨の日は草鞋わらじを履いて歩き、学校の門をくぐる直前に靴に履き替えた。
 当時、西条中学では、往復六里つまり二十四キロまでを通学圏の目安とした。
 しかし、たとえば山内碩夫せきおという同級生は、田野村高松という村(現・丹原町)から片道四里、往復四八キロを歩いて通った。草鞋一足では足らぬので、腰にもう一足草鞋をぶらさげて歩く。そんな山内碩夫の姿を、乃木希典のぎまれすけが目に止めて、記録に残されている。
 明治三十一年十二月十一日、善通寺第十一師団長就任早々の乃木希典は、葦原あしはらという副官を伴って管轄管内の巡回中に西条を通りかかり、中山川の土手で草鞋を腰にぶらさげた学生を認めた。
 「西中生らしい。葦原君、たずねてみたまえ」
 葦原が馬上から山内少年を呼びとめる。
 「君は西中の生徒か」
 「はあ。三年生ぞな」
 「なぜ腰に草鞋を吊っておるのだ」
 「毎日、二足の草鞋を履きつぶして通っとります」
 乃木は感心した。それでこそ日本男児であろう。
 十河信二の十代は、ちょうど日清、日露の戦間期にあたる。日清戦争の宣戦布告から日露講和のポーツマス条約までの十一年間は、十河信二の年齢でいえば十歳から二十一歳、高等小学校四年から帝大入学までにあたり、人間の精神の鋳型が形成される最も重要な時期といっていい。
 そのころの明治日本人一般の国際感情をひとことで言えば、「ロシア怖し。憎し。叩くべし」に尽きる。これを「恐露病」とも「強露病」とも言った。
 明治政府は、朝鮮の支配権をめぐって、まず清国と対立した。朝鮮の人々にとってははなはだはた迷惑な話だが、朝鮮半島をロシア南下をくい止める防波堤にしたてようとしたのである。日清戦争のすえに、遼東りょうとう半島と台湾、澎湖島ほうことうが清国から日本に割譲され、賠償金二億テールが支払われた。しかし遼東半島に関しては、たちまちロシア主導による三国干渉にあう。
 「極東永久ノ平和ニ対シ障害ヲ与フル」
 という理由で、結局、条約調印からたったの一週間で遼東半島の全面放棄が閣議決定された。大国ロシア、フランス、ドイツを敵にまわして一戦を交えるほどの蛮勇は、さすがに明治政府にもなかったからである。以後、遼東半島ではロシアが各種の権益を押さえ、軍港として旅順りょじゅん、商港として大連を建設し、シベリア地域との動脈として東清鉄道の敷設を始める。ロシアは満州最南端まで迫った。朝鮮半島が陥ちてしまえば、帝国、危うし。
 「臥薪嘗胆がしんしょうたん」。
 毎夜、薪の上に臥してその痛みを忘れるな。きもめて屈辱の苦みを新たにせよ。すべて、憎っくきロシアに復仇せんがために……というスローガンが、ことあるごとに日本中の紙誌に踊った。
 乃木希典は、日清戦争で軍功を立てたヒーローである。清帝国北洋艦隊の拠点であった旅順をわずか一日で陥し、従軍中に陸軍中将に昇格している。
 「ワシは、乃木さんに誉められたぞな」
 山内碩夫は、同級生に自慢したにちがいない。

 西条中学は、開校当時、愛媛県尋常中学東予分校といった。
 それまで愛媛県に、中学校は一つしかない。愛媛県尋常中学すなわち松山中学である。俳句の正岡子規、高浜虚子きょし、日露戦争のヒーローとなる秋山好古よしふる真之さねゆき兄弟など、明治期に綺羅星(きらほし)のごとく俊才を生み出した名門である。その松山中学に、明治二十九年、二つの分校ができた。南予分校と東予分校である。宇和島の南予分校はすんなりと決まったが、東予分校は、西条か今治かでもめた。結局、西条には旧藩校「択善堂たくせんどう」の伝統があるという理由で決したが、さて校舎がない。やむなく有志の民家を借り受け、そこを仮校舎として出発した。十河信二は第二回入学生で、三年生までこの仮校舎で過ごしている。といってもあばら家同然で、冬には、身を切るような石槌いしづちおろしが教室に容赦なく吹き込み、授業どころではなかったらしい。
 だが、寒さには、まあ慣れている。それよりなにより、中萩の田舎神童のド肝を抜いたのは、聞きしにまさる蛮カラさ加減であった。

ここから先は

2,114字 / 1画像

¥ 100