第十四話 中国を売った男

 満州割譲をめぐる孫文と森恪とその後について、簡単に辿っておく。

 南北和議の後、孫文は袁世凱新政府から「鉄路全権」に任命される。鉄道大臣である。
 孫文は、この際、政治を捨てて、鉄道建設に専心しようと決意する。
 なぜ、中国が列強帝国主義の餌食にされるか。経済がはるかに立ち遅れているからである。中国経済をゼロから立ち上げるには、何よりも鉄道が必要になる。モノとヒトを運ぶ鉄道網こそまっさきに作らなければならない。
 「鉄道建設は中華民国の存亡を決する大問題である。十年以内に中国全土に二十万里の鉄道を敷きたい」
 と、さっそく声明を発表した。だが、残念ながら中国には、資本も人材も技術もない。さしあたって、すべて諸外国のものを利用するほかなかった。鉄路全権がまずやらなければならなかったのは、外国資本の導入である。

 鉄路全権の孫文が日本を訪れたのは、和議からちょうど一年後の大正二年の二月のことである。
 二月十三日の朝、長崎港着。市長と議員団に迎えられ、あわただしく特別列車で上京の途についた。門司、下関、神戸を経て、翌十四日の夜八時半に新橋駅到着。駅頭で迎える人々は政財界の要人をはじめとして二千数百人を数えた。うち半数は中国人留学生であった。孫文は、到着の挨拶で高らかにこう語っている。
 「日本は私の第二の故郷である。まるで自分の家に帰ってきたような気分です」
 東京では、連日にわたって、いくつもの歓迎会が催され、その席で孫文はおおいに日中提携論をブチあげた。
「アジアは、つまるところ、アジア人のアジアです。中日両国の人々が互いに密接に交わりさえすれば、他国人の妄説や歪曲に惑わされることもありますまい。アジアの平和を守ることはアジア人の義務です。日中の相互合作こそ何より必要なことなのです」
 二月十九日には、後藤新平主催の歓迎会が開かれている。孫文は鉄路全権として来日しているから逓信大臣兼鉄道院総裁が宴を張らなければならない。

 後藤新平は、孫文を知っていた。
 このときから十二年ほど前、中国に義和団事件というものが起こっている。義和団という山東省の秘密結社が排外運動をおこし、人々の支持を集めて大勢力に成長し、ついに北京を占拠した。
 義和団のスローガンは、「扶清滅洋」であった。清朝を扶(たす)けて西洋勢力を壊滅させる。一方、孫文の旗印は「滅満興漢」である。片や清朝擁護、片や打倒清朝。たがいに相いれない。だがこのとき孫文は、北京の混乱状態に乗じて南方で蜂起しようとした。これを、「恵州起義」という。
 恵州は、広州東方の小都である。孫文も亡命先の日本からこの恵州に馳せ参じようとしたのだが、密告者があって、国境の厳重な警備を突破できない。やむなく台湾からの潜入を試みた。
 台湾総督は、児玉源太郎である。
 児玉は孫文の目指す革命にいたく共感していて、台湾民生長官の後藤新平に孫文援助のために便宜をはからせた。もっとも、タダではなかったらしい。
 当時、台湾統治の悩みの種は原住民の反乱、いわゆる「土匪」問題であった。彼らの反政府活動は、背後で大陸の革命派とつながっていた。大雑把にいってしまえば、孫文たちの革命運動と土匪たちの反動的運動は連携していたのである。そこで台湾経済局が孫文たち革命派を支援するから、そのかわり土匪たちとの連携を断ってくれ……という取り引きを行なわれたというのである。このとき二人は、台湾北方の基隆キールンの町でたびたび密会している。
 恵州起義は、結局、失敗に終わった。当初、破竹の勢いで清軍を破ったが、例によって兵員と武器の補給が続かなかった。
 あいにく、恵州起義から十日後に、日本の内閣が交代している。第二次山県有朋内閣から第四次伊藤博文内閣へと代わり、対清政策が大転換した。伊藤内閣は、台湾総督の児玉源太郎に中国革命派との接触を中断させ、武器輸出と日本人士官の革命軍への参加を禁じた。こうなると革命派は敗れるしかない。この退却戦のとき、山田純三郎の兄・良政が命を落とし、外国人で初めての革命犠牲者となっている。
 あのとき、孫文には済まぬことをしたな……という思いが、後藤新平にはあったであろう。

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