第二話 別子鉱山鉄道

 別子鉱山鉄道を作った男を広瀬宰平さいへいという。
 新居郡一帯の”英雄”と言っていい。宰平なくして住友なし。住友なくして新居浜なし。と、当時から賞賛されていた。
 「宰平サンのおかげで豆汽車が通った……」
 「宰平サンのおかげで学校ができた……」
 中萩の少年たちは、この男の名前をうんざりするほど聞かされて、育ったはずである。
近江の生まれ。十歳のとき叔父に伴われて別子銅山に給仕として入山し、めきめきと頭角を、現し、住友大番頭広瀬家の養子となった。叩き上げの大出世者である。
 江戸時代、別子銅山は幕府の直轄事業であった。
 明治元年に王政復古の大号令が発せられると、大阪本店は薩摩軍、別子銅山は土佐軍にたちまち占拠され、没収の危機にさらされる。大名への貸付金はことごとく焦げ付き、鉱夫のストライキも頻発して、銅山は元禄の開坑以来未曾有の経営難に陥り、もはや新政府へ売却するほかなし…という本店重役会が決定する。これを孤軍奮闘の末に覆し、からくも住友経営を守り抜いたのが、別子支配人の広瀬宰平であった。
 「近代化せよ」
 宰平は銅山を徹底的に欧米化した。まず、住友所有の田畑を抵当に山銀札を発行して、資金を作る。その金で欧米人の技師を多数雇い入れ、採掘、精錬、輸送などの業務全般を近代化して、早くも明治十五年頃には別子銅山を奇跡的に再興することに成功する。

 そして明治二十二年、宰平は還暦祝いをかねてに欧米視察に出て、アメリカのナッシュヴィルで銅や資材の鉱山鉄道を目撃する。
 これだ……。
 別子銅山では、輸送をもっぱら人力と牛馬にたよっていた。
 帰国後、宰平は直ちにアメリカ式大型鉄道の導入を計画したが、別子の山は急峻である。地形図に線を引いてみると、曲線区間一三三か所、最小曲線半径一五・二メートル。とうてい大型鉄道は走れない。急遽、ドイツのクラウス社から軽便鉄道が導入されることになった。軌間七六二ミリ。ざっと新幹線の半分である。
 このとき軽便鉱山鉄道の建設を指揮した人物を、小川東吾とうごという。
 小川は見事な仕事をした。とりわけ上部鉄道は断崖絶壁を攀じ登る難所続きである。十八分の一という最大勾配は、別子鉄道開業と同年に開通した信越線碓井峠のアプト式区間に匹敵する険しさであった。だが、一九七七年の廃線後も姿かたちを残している橋梁などは、いまだに寸分の狂いもない。このとき小川は急勾配の面白さに魅せられてしまったらしい。のちに箱根登山鉄道に転じ、小田原―強羅間の十二・五分の1という国内最急勾配線を建設する。

別子鉱山鉄道第1号車

 

住友鉱山鉄道

住友中興のヒーロー広瀬宰平が中萩村に本邸を構えたのは、明治十九年の夏である。信二、二歳。十河家からわずか一キロ足らず。広大な和風庭園を持つ敷地に、和洋折衷式の豪邸が立ち、欧米からの客人たちの姿が絶えず、たちまち“スミトモの国際サロン”となった。
 この広瀬邸は、記念館になって保存されている。中に、宰平の筆による豪放な書が飾ってある。
 「逆命利君、謂之忠」
 命に逆らって君に利す、これを忠とう。主君のためになることなら命令に背いてでも断固行なう。それこそが「忠」ではないか。
 こんぴら道の洟垂はなたれ小僧・信二も、のちのち、逆命利君の人生を力いっぱい歩むことになる。
 ともかくも、こののどやかな扇状台地に幅八十センチ足らずの鉄のレールが敷かれて、ここ中萩の町は大きく変わった。とりわけ若者たちは、突如押し寄せてきた「近代」に、敏感に反応した。

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