第七話 信二とキクの学生結婚

 十河信二の眠れる学生時代は、帝大に入ってからも続いた。
 帝大時代、十河が勉強らしい勉強をしたのは、民法だけである。安倍や岩波たちが哲学的煩悶と格闘するのを横目に眺めながら、信二は自分の頭をグイと無理やりに法学に向けた。
 入学早々、信二は法学部教授の自宅を片っぱしから訪問する。
 「法学を勉強するにあたって、最も大事なことは何でありますか」
 歴訪して直談判することは、この男の得意技である。教授たちの話を総合すると、最も肝心なのは”法律の頭”を作ることであるらしい。それには民法を徹底的に勉強することだと教えられた。
 さっそく仲間をつどい、ドイツから帰朝間もない川名兼四郎かわなけんしろうという教授をつかまえて、民法研究会を開いた。まず学生だけでテキストを分担して読み、討論を重ねてから、毎週日曜日に川名の自宅におしかける。川名も若かったから、大いにはりきってむかえた。しかし学生たちのあまりの熱心さに、川名のほうが音をあげる。研究会はしばしば夜間に及んだ。新任教授の川名は講義の準備もしなければならない。
 日曜日がまるまる潰れたのでは健康が保てそうにない、せめて月に一度にしてくれぬか……と頭を下げた。
 「それは申し訳ないことをいたしました」
 と言い出しっぺの十河信二が寧重に謝って、以後、学生だけの研究会を卒業まで続けた。十河信二は、猪突猛進の男である。自分で民法の講義ノートを作り、研究会で講じ、卒業する頃には民法の助教授たちが聴講しにくるほどになった。つまり、民法だけは徹底的に勉強した。
 あとは、眠っていた。
 酒は、浴びるほど飲めた。西条中学時代から鍛えてある。この頃、底無しである。ある日、伊藤という級友に呼ばれて下宿で飲みはじめた。
 「熊公、ロシアは攻めて来ると思うか?」
 信二のあだ名は、「熊」である。顔一杯に不精髭が延び放題だった。
 「来よる」
 「勝てるか」
 「……勝てやせん」
 ぶつぶつと論議しながら延々と飲み続けて、夜が明けた。朝が来て昼となり、また夜になり朝が来て昼になっても、まだ飲む。ついに二日目の夕暮れどきになって、伊藤がこう言った。
 「オイ熊、散歩しよう」
 「嫌だ」
 「いいから、出よう」
 「オレは酒を飲みに来たのであって、散歩をしに来たのではない」
 「その酒が、ないんだよ。お前と飲むために一斗いっとあったんだが、もうない。買いに行こう」
 伊藤と熊は、一升瓶十本分を二昼夜で飲み干した……と、十河信二は晩年に書き残している。

 眠れる熊が、長いまどろみから突如眼醒めて、敢然と実行したことがある。
 学生結婚。
 しかも恋愛結婚であった。
 十河信二、二十三歳。帝大二年生。
 岡崎キク、十九歳。東京音楽学校二年生。目元涼やかな美人であった。

ここから先は

3,791字

¥ 100