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小説「ある朝の目覚め」第五章

暗闇の中で沢山の女の小人たちが薪の火を囲んでいる。もう大鍋の熱は冷めている。食事は終わったようだ。魔女が戻ってきた。不思議な胴体の形をした弦楽器を手に持っている。魔女はそれを顎に当てて、弓を弦に当てて弾き始める。なんとも形容のし難い音色が発せられる。魔女が低音を響かせるとわたしの下腹部にずんずんと痛みが伝わり、高音を高らかに奏でると、下腹部の奥に刺すような痛みが鋭く伝わる。わたしは魔女の演奏を止めさせようと近寄ったところで、目が覚めた。

火曜の朝。生理四日目。わたしにとっては、もう生理の終わり際で痛みも収まってくる頃のはずだった。なぜか今回はまだ痛みが続いている。目覚まし時計を見るとアラームよりもかなり早い。しかしもう一度寝るにも中途半端な時間だ。わたしは、下腹部を手で擦りながらゆっくりと身体を起こした。

わたしはポールハンガーに吊るした服に着替える。今日のスーツも、昨日と似た下腹部にゆとりのある、深みのあるネイビーに繊細なピンストライプの入ったパンツスタイルのセットアップスーツだ。最近のスーツは着心地の良さと見た目のスリムさを併せ持ったデザインが増えている。わたしはそのことに感謝した。それに機能的な白のカットソーを合わせる。

わたしは、朝のルーティンを済ます。洗面所で顔を洗い、化粧水をたっぷりめに肌にしみこませ、顔全体に美容液をなじませ、その上から乳液でしっかりと保湿をする。顔と首の周りを軽くマッサージして血行を良くし、むくみをとる。化粧用具を持ちダイニングに移動し、ダイニングテーブルの椅子に座る。鏡を据えてメイクを始める。ベースに日焼け止め効果のあるプライマーを塗る。コンシーラーで目の下のクマを隠す。保湿効果の高いパウダリーファンデーションを使って透明感のある自然な肌感を作る。わたしは、アイメイクにはかなり気を使う。パールベージュのアイシャドウベースをまぶた全体に薄く塗り、オレンジ系のライトブラウンのシャドウと、濃いブラウンのシャドウを重ねてまぶたにグラデーションを作る。ビューラーでまつ毛をカールさせる。ダークブラウンのリキッドアイライナーで目の上のラインを細くしっかりと引く。わたしの目尻は少し下がっている。気の弱い印象を隠すために目尻を少し跳ね上げるように描き、意志の強い視線を作る。ブラックのマスカラを塗り、目を大きく見せて、目元の印象を強くする。眉を自然な形に整える。ダークブラウンのペンシルとパウダーでふんわりとした印象の眉を描く。アイブロウコートを眉の上から塗って眉メイクを保護する。コーラルのチークを頬の頂点に軽く入れる。最後にリップを塗る。意志の強さを演出するアイメイクとバランスを取るために、リップは控えめでナチュラルな色味を選ぶ。髪全体にミストをかけて寝癖をとりつつドライヤーでブローしてヘアスタイルを整える。小ぶりのパールのイヤリングを着ける。いつものお気に入りの柑橘系の香りを着る。

化粧用具を片付けて、朝食を摂り、またダイニングテーブルの椅子に座り、今朝のメモをノートに書く。いつもよりもだいぶ時間が早い。いまからカフェに向かうと開店と同時になるだろう。わたしはまなの笑顔を思い浮かべた。ノートと万年筆をバッグにしまい、ジャケットを着てオフホワイトのライトウェイトコートとベージュのストールを羽織ると玄関に向かった。今朝は時間があったので、スキンケアとメイクに時間をかけられた。生理中の肌荒れもうまく隠せている。戦闘服をまとった自分の笑顔は、わたしに自信をくれる。全身鏡の中のわたしに向かって「いってきます!」と声をかける。




わたしは、まだ日差しの角度が低くていつもよりも薄暗い街並みを眺めながら、スターボックス・カフェへ向かう。開店と同時に店の前についた。ちょうどまなが扉を解錠して開けてくれた。

「おはよう御座います、あや子さん。今朝は随分お早いですね」

わたしは少し困った表情をしていただろう。しかしすぐに正直に話して良いと考えた。「おはよう御座います、まなさん。今朝は生理痛が酷くて、いつもよりも早く目が覚めてしまいました」

「あら。それはお辛いですね。痛みが早く和らぐようにお祈りしていますね」

わたしたちは話しながら店内に入り、レジカウンターに向かう。わたしがいつものコーヒーを注文しようとすると、まなは思いついたようにこう言った。

「あや子さん、もしお時間に余裕がお有りでしたら、コーヒーマシンではなくフレンチプレスでコーヒーをお淹れしましょうか?今朝は普段はあまりお出ししない豆を淹れる日ですからきっと美味しくお召し上がりいただけると思います」

わたしは時間には余裕があったし、まなの淹れるフレンチプレスのコーヒーにも興味があったので快諾し、会計を済ませた。

「それでは少々お席でお待ちいただけますか?準備できたらお席までお持ちいたします」わたしは頷き、いつものカウンター席に座り、まなの作業を見守る。

まなはグラインダーでコーヒー豆を挽くと、お湯をフレンチプレスに入れて、数秒待って捨てる。そして、挽いたコーヒーの粉を入れて、お湯をゆっくりと注ぐ。全てのお湯を注がずに三十秒ほど待っている。じっくりと蒸らしているのだろう。微かにコーヒー豆の油分の広がる香りが漂ってくる。まなは残りのお湯を注ぎ、フレンチプレスの蓋をする。タイマーをセットし、フレンチプレスをテーブルに置いてコーヒーの油分や豊かな香りとともにコーヒーが抽出されるのを待つ。まなは来店する客に注意を払いながら、たまにフレンチプレスの様子を確認しては軽く微笑んでいる。タイマーが鳴ると、まなはフレンチプレスの上部のプランジャーをゆっくりと下げていく。プランジャーが全て下がったら、マグカップにコーヒーを注いで、わたしの方に向かってくる。

「あや子さん、お待たせいたしました。本日のコーヒーは『アルテミス・ブレンド』になります。最初は香りをお楽しみいただきたいので、いつもの氷は分けてお持ちしました」

まなはそう言って、わたしの前に大きなマグカップのコーヒーと紙カップに入れた氷を置く。わたしは「ありがとう」と声をかけ、マグカップを手に取り、香りをかぐ。色鮮やかな花束を思わせる爽やかな香りを感じる。わたしは、丁寧に息を吹きかけて冷ましながら、少しずつコーヒーを味わう。しっかりとしたコクがありつつも後味はすっきりとしている。酸味も軽やかだ。わたしは普段よりも早いペースでカップの三分の一のコーヒーを飲み、一息つこうとカップを置いた。

少し離れたところからわたしを見ていたのだろう。まながゆっくりとこちらに近づいてきた。わたしは笑顔でまなに声をかけて、コーヒーの感想を伝える。

「とても美味しいブレンドですね。コクがありつつも後味はすっきりしていて酸味も軽やかに感じました。何よりも香りが爽やかで花束のような色彩を感じさせます。今朝のわたしの体調に合っているからか、このブレンドはとても美味しく感じます」

「お口に合ったようでとても嬉しいです。このブレンドは女性のために特別に作られたものです。普段あまりブラックでコーヒーを召し上がらない女性のお客様のお口にも合うように爽やかな印象の作りになっています。あや子さんはしっかりとした豆をお好みのようですが、今朝はご体調とも合って、お楽しみいただけてよかったです」

まなは、エプロンのポケットからカードを取り出すと、わたしの前に置いた。「これはアルテミス・ブレンドの紹介カードです。あとでご一読いただけたら幸いです」わたしは、ありがとうと言って受け取る。カードには、満月を背景に柔和な笑みをたたえた神々しい女神のイメージにコーヒー豆をシンボライズしたシルクスクリーンのような絵柄を添えたイラストが描かれていた。

「明日は、『国際女性デー』です。女性の地位向上を目的とした記念日なんです。この日に合わせて、私たちはコーヒー産業の女性労働者を支援し敬意を表すために作られたこの『アルテミス・ブレンド』を提供することにしています」

まなはそう言うと、首元に手をやり、黄色い円形のペンダントを持ち上げてこう言った。「このペンダントは私の子どもの頃からのお守りです。アルテミスの象徴である満月をあしらったものなんです。アルテミスは月の女神であり、女性と子どもを守護する女神でもあるんです。私は、私の大切な思いをこのアルテミスを象徴するペンダントと、このブレンドコーヒーに込めているんです」

まなは真剣な眼差しでわたしを見つめながらこう続けた。「そして私にとっては、このブレンドにはもう一つ個人的な思い入れがあるんです。この私の思いを、もしかしたらあや子さんなら分かってくださるかも知れないと思っています。でもこのことは私の願望みたいなものですから、あや子さんはお気になさらないでください」わたしはどう答えれば良いか分からずに、まなの意志の強さを感じさせる目元をじっと見つめ返していた。

まなは少し息を吐くと照れ隠しのような表情を浮かべて「思ったよりも長話になっちゃいました。機会がありましたら、またお話させてくださいね」そう言うとまなはレジカウンターに近づく客に気づき接客のためにその場を離れていった。

わたしはまなの話を振り返る。まなの言った個人的な思い入れというのは何を指しているのだろう。その意味は、わたしにはいまは分からない。しかしまなが彼女にとって大切な思いをわたしに伝えようとしたのだろうということは分かった。わたしは急いでノートを広げて、いまの話のメモを残す。そして今日のまなの服装を確認し、首元の満月をあしらったペンダントを強調して線画を描く。まなから貰ったアルテミス・ブレンドの紹介カードをノートのポケットにしまう。




また魔女の不思議な弦楽器の音色が聴こえてくる。その低弦の音色がもたらす鈍い痛みでわたしは目を覚ます。一瞬眠りに落ちていたようだ。慌てて顔を上げる。わたしは、生理の終わり際になると、生理痛だけではなく眠気も感じるようになる。もう少しでランチの時間だ。ここまでの作業を振り返って、いま何をしていたかを思い出す。そうだ。昨日作成した、運用段階に入っている顧客への提案資料を元に、顧客に電話して往訪の予定を調整したところだった。会話の流れで現状をヒアリングしたら、提案資料に追記したいところが出てきたのだった。それをノートに書いて整理していたところで、睡魔に襲われたようだ。わたしは、ノートに書き出した内容を元に提案資料を修正しようとノートパソコンに向かう。

すると、そこに営業部第一セクションのマネージャ、つまりわたしの直属の上司がやってきた。彼はわたしの隣の席が空いていることを確認し、そこに座り、挨拶もそこそこに用件を話し出した。

「昨日の営業会議で提案のあった、休職に入る酒田さんの顧客を引き継ぐという話なんだがね。マネージャ間で調整して、与田さんではなく別の方にお願いすることにしたよ。与田さんには、運用段階の顧客サポートよりも、新規開拓の方に注力して貰いたいと思っている。いま導入を進めている顧客だけではなく、既に入手している見込み客リストに営業して開拓し、ソフトウェアの導入実績を増やすようにしてください。よろしくお願いします」そう言い終えると、彼は立ち上がり、戻っていった。

ふう……。これだから、あの人と話すのは嫌なんだ。こちらは善意で提案した話なのだから、まずはその行為について、感謝を伝えるところから会話は始まるものだろうに。一方的に用件を伝えて、こちらの反応を確認することもせずに帰って行かれては、会話は成り立たない。

わたしは、もやもやした気持ちを整理する必要を感じた。ちょうど、ランチの時間だ。わたしは、ノートと万年筆をバッグに入れ、コートとストールを手に持ち、昼食に出掛けた。




わたしは、どこに食べに行こうか迷いながらオフィスビルを出る。ふと今朝のまなの真剣な表情を思い出す。この時間のスターボックス・カフェは混雑している。まなと話す機会は得られないだろうけれど、顔を見るだけでも元気を分けて貰える気がした。わたしは隣のビルのスターボックス・カフェに向かった。

スターボックス・カフェに入ると、案の定混み合ってはいたものの、奥の一人席を確保できた。席にコートとストールを置き、レジカウンターに向かう。フードコーナーからクラブハウスサンドイッチとブルーベリーヨーグルトを手に取り、いつものグランデサイズのドリップコーヒーを注文する。まなはどこだろうと店内を見渡すとフロアの担当らしく、客を案内したりグッズの前で迷っている客に商品を説明したりしていた。まながわたしに気づく様子はなかったので、わたしは、コーヒーと食べ物を受け取るとそのまま席に戻り、食事を摂り始めた。

わたしは、食べ終えるとトレイを下げてまた席に戻る。コーヒーの残りを飲みながら、店内を眺める。中央付近の席にベビーカーに乗った赤ちゃんを連れた女性客が座っている。その子は何かが気に触ったのか、突然大きな声で泣き始めた。女性客は慣れた様子で赤ちゃんを宥め始めた。その子のお気に入りのぬいぐるみを手に持たせて優しい声で赤ちゃんをあやしている。わたしは、その様子を見つめていた。しかし、いつまで経っても赤ちゃんは泣き止まない。女性客は赤ちゃんをベビーカーから抱き上げて、優しく揺らしながら声をかけ続けている。

すると、少し離れた席の年配の男性客が何やら不満の声を上げ始めた。「こんなにうるさいんじゃ落ち着いてコーヒーも楽しめない」女性客はそれを聞き、男性客に少し頭を下げて困った顔をしている。

わたしは、「赤ちゃんが泣くのは当たり前だ。まだ泣き始めて数分も経っていないのだし、もう少し様子を見ていてあげればよいのに」と心の中で思い、女性客に何か手伝いを申し出ようかと思い始めた。

と、そこへまながやってきた。男性客に「お客様、ご不便をおかけして申し訳ございません。もし宜しければ、あちらの窓際のお席にご案内できますが、いかがでしょうか。より落ち着いておくつろぎいただけるかと思います」と話しかけた。男性客は納得した様子で席を移動していった。

まなは続いて、ゆっくりと女性客に近づくとしゃがんで視線の高さを相手に合わせてから「大丈夫ですか?お子様が少し落ち着かないようですね。こういうときは大変ですよね。何かお手伝いできることはございますか?」と声をかけた。女性客はほっとした様子で、まなに感謝を述べる。

「お子様がご一緒の時は予想外のことがありますよね。当店では、どなた様にもリラックスして過ごしていただきたいと思っております。ご安心くださいませ」まなは笑顔で語りかける。

「わたくしもお子様をあやしてみても宜しいでしょうか?」まながそう言うと女性客は頷き、泣き続ける赤ちゃんの向きを変えて、まなの方に顔を向ける。

「宜しければお子様のお名前を教えていただけますか?」「そう。あなたは、はやとくんというのね!」と表情豊かに赤ちゃんに話しかけて顔を覗き込む。「お子様には小麦やナッツや牛乳のアレルギーはございませんか?」まなは女性客にそう確認すると、エプロンのポケットから、店内で販売しているクッキーを取り出し、袋から出すと赤ちゃんに見せる。すぐには渡さずに焦らす素振りを見せて赤ちゃんの興味を引くと、ぱっと手の中に隠したり、まなの口元に持っていって食べる振りをして赤ちゃんの気を引き続ける。赤ちゃんの注意が完全にクッキーとまなに向かったことを確認して、まなはゆっくり赤ちゃんの手にクッキーを握らせる。赤ちゃんは両手でそのクッキーを持つと口元に運びかじりだす。食べ終わる頃には、赤ちゃんはさっきまでの大泣きが嘘のように笑顔になり、まなに向かって手を振っている。まなも満面の笑顔で赤ちゃんを見つめている。わたしは、そんなまなに今朝のアルテミスの慈愛に満ちた表情を重ねて見ていた。




わたしは、午後の業務を終え、定時で帰途につく。今夜はルナ・クラシカは定休日だ。家で夕食を摂ろう。そう思いながら、自宅のアパートに着く。ドアの鍵を空けて部屋に入る。洗面所で手を洗いうがいをして、寝室に行き、普段着に着替える。洗濯物をネットに入れて洗濯機のドラムに入れてくる。ダイニングテーブルの椅子に座って一息つく。

わたしは、ノートのポケットにしまっておいた、アルテミス・ブレンドの紹介カードを取り出して、表のイラストを眺める。昼に見た、赤ちゃんをあやしている時のまなの笑顔はとても印象的だった。紹介文には、アルテミスは月の女神であり、若い女性や子どもたちを保護する女神だと書いてある。まなは、アルテミスの象徴である満月をあしらったペンダントをしていることからも、女性や子どもの味方であろうとしているのだろう。

ふと、わたしは周りを見渡し、ガラス戸の棚にしまってあるコーヒー用具を見つめる。わたしは立ち上がり、コーヒー用具一式を取り出し、電子ケトルに水を入れて、湯を沸かし始める。ピッチャーの上部に紙フィルターをセットし、冷凍庫からカフェインレスのコーヒー粉を取り出して、紙フィルターに入れていく。粉の量は二杯分にした。湯が沸くのを待ち、少し冷ましてからゆっくりとフィルターに湯を注ぐ。粉のぷくぷくと膨らむ様子を眺めて、香りの変化を確かめる。再び湯を注ぎ、ピッチャーに抽出されたコーヒーが落ちるのを見ては、また湯を注ぐ。二杯分のコーヒーを抽出したら、グラスマグを二つ取り出し、湯を注いでカップを温めてから、湯を捨てて、コーヒーを注ぐ。わたしは、ダイニングテーブルに戻ると、グラスマグの一つをわたしの正面に置き、そのグラスマグのコーヒーに対面する形で椅子に座る。

わたしは、コーヒーの香りを感じながら、しばらく対面に置いたグラスマグを眺める。この来客用のグラスマグを使った人は、何人くらいいるだろうか。そのうち最も使った人は、裕司さんだろう。この来客用のグラスマグは、もう半年の間、棚の中にしまわれていたのだ。

今朝飲んだ、まなの淹れてくれたアルテミス・ブレンドはとても美味しかった。そう思い、目の前のグラスマグを手に取り、香りを味わい、丁寧に息を吹きかけて冷ましてから、ゆっくりと口に含む。わたしは、美味しいと感じた。今度は、わたしの淹れたコーヒーをまなに飲んで貰いたい。わたしは、対面に置かれたグラスマグを見ながら、わたしの淹れたコーヒーを嬉しそうに飲むまなを想像し、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。

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