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神舞ひろし
2020年8月26日 14:54
すべてを綺麗にした。 自由を手に入れる為に、多少の不自由を背負込んだ俺は、やっと、長い、長い、長い旅に出た。 ひ弱なライトが作り出す、ニヤけるほどに“おぼこい”光源と、それによって生み出されてゆく暗闇、標示板の灯りだけを頼りに、ぼんやりとしたオレンジ色が染める辺りを目指す。 今夜乗る船と対面してみれば、逸る気持ちがどれだけそそり立つのだろうかと思っていたが、なぜだか冷めていた。 喰
2020年8月30日 15:01
目が覚めるとテレビが点いていた。 灰色の窓の向こうでは雨が降っている。 テレビの画面の右上にある時刻は、六時四十七分。この頃、あの時の夢を見ないなぁと思った。 ベッドのサイドボードには、缶ビールが置いてあった。寝転んだまま持ち上げると、三分の一ほど残っている。思った以上に疲労が蓄積していたようだ、気絶するように眠ったらしい。 昨日、宿に着いた時には、明日は一日中寝っぱなしになるだろうと考
2020年8月31日 19:29
彼女は酎レモンを一口飲んでから話し始めた。 「わたしが生まれたのは、神奈川県横浜市青葉区ってところで、小四までそこで育ちました。小さいけどお庭があって、わたし専用のブランコがあって。近くにこどもの国っていう遊園地もあって、子供ながらに幸せだなぁなんて、生意気に思ったりしてました。知ってますか?こどもの国」 酔いが回って口調も明るくなってきた。これが彼女の本質だろうか?横浜生まれの横浜育ち、話
2020年9月2日 15:29
「ちょっと待って下さい。急いで服を着ますから」 今の俺に、拒絶しなければならない訳も、拒絶するすべもなかった。だが、嘘を吐いて時間稼ぎをしたのは、この部屋の匂いだけは入れ替えたかったからだった。だって、彼女との残り香は、二人だけのものだから。 ペットボトルを屑籠へ入れ、真っすぐ下へと落ちる雨筋が見える部屋の窓を、開くだけ目一杯に開けた。僅かに開いた隙間から、湿った朝の帯広の空気がそよりと流れ
2020年9月3日 10:24
雨がしとしと降っていた。 俺はホテルのロゴ入りの傘を開け、昨夜は見ることが出来なかった帯広の夜の顔を知るために、乾く暇もないアスファルトに一歩を踏み出した。 北海道に梅雨はないと聞いていたのだが、さっき見た天気予報では、明日、明後日が曇り時々雨に変わっていて、来週の半ばにも三、四日、雨のマークが並んでいた。天気が良くないと、相棒に乗る気にもならない。 本当なら、もっと楽しいだけの旅になって
2020年9月4日 18:37
坊主頭が、花押会の高峰と共に、エレベーターから降りてきたのだ。 (どうして、あいつが?) もうずいぶんと会っていないが、はっきりと高峰だとわかったのは、左頬についている刀傷が昔のままだったからだ。 その傷は、若い頃の出入りの時についた傷だと、高峰自身は自慢気に言っている。しかし本当のところは、抗争が怖くてシャブを打ち過ぎた兄貴分が、トチ狂って暴れた時についた傷だった。 今、松村は尾塩組系
2020年9月5日 15:55
無事にスマホは手に入った。 話とは違って、トバシではなく高岡ちゃんのサブスマホらしい。もちろんSIMカードだけがそうで、本体はトバシのスマホを高岡ちゃんが改造したものだ。通話通信共に無制限。差し込まれているSIMカードを抜くと、データがクラッシュして復元不可能になるそうで、必要なくなったらSIMカードだけ、同封のケースに入れて郵送して欲しいと、包み紙に手書きで書かれてあった。ケースを入れる封筒
2020年9月6日 11:48
「おい、おい。獅子王、目を覚ませ。獅子王」 誰かの声が遠くから聞こえてくる。あまり聞き馴染みのない声だ。しつこい。五月蠅いんじゃ。もうこれ以上俺に関わるな。もうこれ以上俺を傷付けるな。もうこれ以上、俺に生きることを求めるな。もう静かに眠らせてくれ。 結局、俺は、運を持っていなかったんだ。だから俺は、一番可愛がっていた弟分に、どさくさに紛れて撃たれたのだ。人間なんて信用するもんじゃないと、俺
2020年9月7日 04:09
予報通り、午前五時半の帯広の空には小雨が舞っていた。 さっきコンビニに朝飯を買いに行く時に見えた西や北にある遠くの空は、早く流れる雲の向こうで晴れていた。 あと小一時間もすると、この十勝の空は晴れ渡るのだろう。 今日は、上士幌町にある糠平湖の奥にあるタウシュベツ川橋梁に行く。 糠平湖は、発電用ダム建設に伴い造られた音更川の人造湖で、多くのツーリング本や、ガイドブック、ネットに載っているい